翌朝、リートはまたしても侍女に起こされたが、今度は支度を手伝われることはなかった。ただ、ずっと制服を着ているわけにもいかなかったので、用意されていた服に着替えることにした。
派手な服だったらどうしようかと思ったが、幸いにも用意されていたのは簡素なシャツと長袴と胴着だった。これなら制服とそんなにも違わない。着脱も一人でできそうだった。
ルイスがやっているように、長袴の上から深靴を履くと、リートは立ち上がって姿見の前に立ってみた。
果てしなく落ち着かない。恥ずかしい。そしてなにより、
(コスプレっぽい……)
自分の世界で、漫画や映像戯画の登場人物の衣装を着て別人になりきるあれだ。
だが、実際そんなものかもしれないとリートは思った。
今の自分は理人ではなく、リートなのだから。
しかし、たとえどんな衣装を着て別人のふりをしても、結局それは自分でしかない。
リートは改めて、鏡に映った自分の姿を見つめた。
黒目黒髪に、東洋系の彫りの浅い顔立ち。
高度な政治、経済、文化。それらを有する先進国と言われている国に生まれ育った十六歳の男子高校生、一ノ瀬理人。
それが、向こうの世界で自分に与えられた役割だった。
だが、今はそんなことはどうでもよかった。自分はその煩わしさから逃れたくて、この世界に来たのだから。
(……冴えない顔だな)
リートは自分の顔を観察しながらそう思った。
見た目は悪くないと母親には言われるが、自分の問題が容姿にあるのではないことをリートはよくわかっていた。
なにを考えているのかわからない。
それが、今まで出会った人間たちがリートに下した総評だった。
自分はほかの人間と比べて、極端に感情が表に出ないらしい。
(そんなこと言われたって、知らないよ)
リートは内心で嘯いた。つまらないのに笑えないし、作り笑いもしたくない。
だがそれができないから、自分はいつも独りなのだ。
リートは居た堪れなくなって、鏡に背を向けた。
召し使いの数は最低限に減らされていたので、リートは昨日よりずっと落ち着いて朝食を摂ることができた。
そうこうしているとルイスが昨日と同じ時間に現れた。相変わらず服装には一筋の乱れもない。
「おはよう、リート」
「おはよう」
リートはなるべく感じのいい風を装って挨拶した。会うだけなのに、ルイス相手にはなぜか緊張してしまうのだ。
もう二日経つのに、どう接すればいいのかまるでわからない。
「昨日来た官吏はもう来ない。予定はすべてわたしが伝えることになった」
それを聞いてリートはほっとした。接触する人間は少なければ少ないほどいい。
「昨日はよく眠れたか?」
リートは一瞬よく眠れたよと言おうと思ったが、首を横に振った。嘘をついたところで隠し通せるとは思えない。
「あんまり」
向こうの世界にいたときから、リートはずっと満足に眠れていなかった。眠れてはいるのかもしれない。だが眠った実感はまったくなかった。
疲労感は取れないし、頭もすっきりしない。目もうまく開かない。
この症状は、向こうの世界にいたときと変わらない。最近はずっとこの調子だった。
「君の様子をメルヒオルに報告するのもわたしの仕事なんだ。あまり気を悪くしないでほしい」
「うん……」
リートは弱々しくうなずいた。彼に接するたびにリートは身の置き所がなくなっていく気がした。
「昨日も言ったが、今日は王宮の中を君に案内しようと思う。この国のことが知りたいと言っていただろう?」
「でも、部屋から出ちゃ駄目だって……」
「もう外に出ていいと許可が下りた。ただし王宮の敷地内だけという条件付きだが。それから今日は応援を呼んである。入っていいぞ、ライナス」
ルイスが扉の外に声をかけると、ルイスと同じ制服に身を包んだ騎士が部屋に入ってきた。
ライナスは、柔らかそうな亜麻色の髪に、薄い緑色の瞳を持つ、物静かそうな青年だった。彼はルイスよりさらに若く、まだ二十歳そこそこに見えた。
「ライナスはわたしの後輩で同僚だ」
ルイスがそう説明すると、ライナスが控えめに頭を下げた。
「ライナス・フォン・ツァイスと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
リートは挨拶しながら、なぜメルヒオルはライナスのように大人しい人間ではなく、ルイスを自分の騎士にしたのだろうと訝った。
ルイスが嫌いだというわけではない。ただ、なぜかはわからないが、リートの心のどこかがルイスを避けたがっていた。
彼は真面目で、率直で、自分とはあまりに違いすぎる。
その時、ルイスが突然こちらを見たので、リートは考えていることを見透かされているような気がしてどきりとした。
「な、なに?」
「準備が必要だな、ライナス」
まるで今から戦いにでも行くような表情でリートを見つめるルイスの横で、ライナスが穏やかにうなずく。
「そうですね」
「え?」
リートは訳もわからず首を傾げた。
数十分後、三人は部屋を出て王宮の廊下を歩いていた。
リートは今朝着ていた服ではなく、丈の長い白に黄色の縁取りがしてある祭服を着ていた。メルヒオルの法衣ほど立派なものではなく、装飾も控えめだ。しかし裾が長すぎて数歩歩くたびに裾を踏んで転びそうになるので、リートは辟易した。
「これ、本当に着なきゃいけないの? 僕は神官でも聖職者でもなんでもないんだけど」
「君が天啓者だという目印みたいなものだ。その格好をしていれば、だれにも呼び止められることはない。君はリヒトに選ばれた人間だからな」
「メルヒオルも言ってたけど……リヒトってなんなの?」
自分の国の言葉に翻訳されないことからしても、なにかの固有名詞なのだろうが、リートにはよくわからなかった。
「リヒトはリヒトだ。そうとしか答えようがない」
ルイスの返答に、リートはどこから突っ込むべきか迷った。リヒトガルテンの説明をしたときといい、ルイスはどうにも極端だ。
見かねたライナスが横から説明してくれる。
「リヒトガルテンはリヒトを国教に定めているんです。リヒトガルテンの人間はリヒトの教えを信じ、実践しているんですよ。要するに、この国で一番偉大な存在の名であり、信仰の対象なのです」
それでようやくリートは納得がいった。リヒトとは宗教であり、信仰の対象そのものなのだ。
「じゃあ、あの女の子は? 聖殿みたいな所にいた」
「ユーリエ様ですね。あの方は当代のこの国のヴォルヴァです」
ヴォルヴァという言葉も翻訳されなかったので、二人にいろいろ訊いたところ、どうやらヴォルヴァはリートのいた世界で言う巫女のような存在らしかった。
「ヴォルヴァに選ばれた女性は生涯結婚せず、リヒトに仕えて一生を終えます。具体的な仕事は毎日聖殿でリヒトに祈ることですね。それから、祭事の際にリヒトと我々との仲介を務める形で儀式を行います」
「ヴォルヴァにはついてはよくわかったけど……それで、僕がリヒトに選ばれたってことにはどういう意味があるの?」
リートがそう言うと、ルイスとライナスは互いに顔を見合わせた。
「前にも言ったが、メルヒオルから説明がない以上、わたしたちはなにも言えない。ただ、君はリヒトに選ばれてここに来た。それだけは疑いのない事実だ」
「うん、でも……」
「君はここにいればいい。そのことをだれも咎めたりはしない」
リートはルイスの言葉にうなずきながらも、心の中では納得できなかった。
なぜ自分が選ばれたのだろう?
自分はただ階段を踏み外して転げ落ちただけなのに。
それから三人は、王宮の中を一通り歩いて回った。
ライナスの説明を聞きながら、リートは王宮のほとんどが王族と召し使いたちの住む居住空間と、儀式や謁見に使う広間でできていることを知った。今リートが使っている部屋は、外国からの賓客が宿泊するための部屋らしい。どうりで部屋が豪華なはずだとリートは納得した。
ライナスが窓から見えている建物を指し示す。
「あそこに見えているのが議場です。この国では、議員から提出された法案を議会で審議し、賛成多数で可決された法案に、王が署名することによって法律が作られます。作られた法律は官吏によって施行され、運営されることになります」
そこでライナスはいったん言葉を切ってリートのほうを見た。
「難しいですか?」
リートは首を振った。それなら世界史に出てくる政治機構とたいした違いはない。
「大丈夫だよ。続けて」
「普段の行政は、宰相と各省の長である閣僚によって執り行われます。閣僚は各官庁にいる官吏たちを統括し、宰相は政務全体を取り仕切り、王に報告します」
「宰相はどうやって選ぶの?」
「宰相は議会選挙によって選ばれ、宰相が議員の中から閣僚を指名します。議員資格を持つのは貴族の成人男子、それも当主とその嫡男に限られます。しかも定員が決まっているので、高位の貴族しか議員になることはできません。資格を持っていても、なるかどうかは個人の自由ですが」
「二人は貴族なの?」
リートが訊ねると、ライナスがうなずく。
「はい。わたしもルイス様も貴族です。ルイス様はわたしなどとは比べものにならないほどの家柄ですし、議員になる資格もお持ちです」
「ライナス、そういうことはいい」
ルイスが遮ると、ライナスはすぐに口を閉じた。
「失礼を。では庭園に行きましょうか」
庭は広く、芝が青々と生い茂っていた。リートがいた学校の運動場の三倍は優にありそうだ。庭園の横には湖が広がっている。
リートは木陰に腰を下ろした。空を見上げると、陽光が葉に反射してきらきら輝いた。久しぶりにまともに見る光に、リートは目をしばたたいた。こんなに開放的な場所で、空を見上げるのは久しぶりだった。
ここで読書ができたらいいだろうな、とリートは思ったが、なにを読むのが相応しいのか見当もつかなかった。
そもそも、今の自分が読むのに相応しい本などあるのだろうか。本を読んだところで、なんの役にも立たなかった。自分の知りたいことは、なにも書いていなかった。
「向こうに見えているのが官庁街です。城勤めの官吏以外はあそこで仕事をしています」
ライナスが指差した辺りには、白く背の高い建物の一群が見えた。
「ここからでは見えないが、その近くにソリン騎士団の庁舎と宿舎もある。隣にはハーナル騎士団の庁舎と宿舎も」
「ハーナル騎士団?」
「ハーナル騎士団は、治安維持を担当している。犯罪者を捕まえたり、事故の対応に当たったりするのが彼らの仕事だ」
警察組織のようなものか、とリートは納得した。
一通りの説明を終え、リートたちが帰ろうとしたとき、ルイスが突然立ち止まった。
「さて、最後まで無視しようと思ったんだが……ライナス、頼む」
「わかりました」
そう言うなり、ライナスは懐から鞘に入ったままの短刀を取り出すと、リートが背凭れにしている背後の木に向かって投げつけた。
「うわっ!」
頭上から声が聞こえてきて、リートは驚いて視線を上に向けた。
木の上に、一人の青年が立っている。
「ほんと、おまえはいっつも俺に容赦ないよな。そんなに俺のこと嫌いなの?」
青年は不満げな顔でそう言いながら、持っていた短刀をライナスに投げ返した。
リートは驚きを隠せなかった。突然投げつけられた短刀を掴むなんて。青年はかなりの反射神経の持ち主らしい。
ルイスが呆れた顔で青年を見る。
「なぜおまえがここにいるんだ」
「わかりませんか? 心配でつけてきちゃったんですよ。どうせルイス様のことだから、真面目に王宮見学させてたんでしょ? だから天啓者が退屈すぎて機嫌を損ねたらどうしようって心配で。言わんこっちゃない、やっぱり退屈してるじゃないですか」
そう言われてリートは慌てた。
「僕はべつに退屈なんて――」
「ほーら、しかも気なんか使わせて。ライナス、おまえいいかげんに言ってやれよ。あなたの話はいつも真面目すぎてなにも面白くありませんって」
「それはあなたの意見でしょう。わたしはそう思っていませんから」
澄ました顔で言葉を返すライナスに、青年は鼻を鳴らした。
「ほんと、おまえはルイス様の前では猫かぶるよな。いいぜ、おまえがその気なら団員全員にあのことを――」
「ヴェルナー、いいかげんにしろ。だれの前で騒いでると思ってるんだ。さっさと降りてきて挨拶ぐらいしろ」
ルイスが一喝すると、ヴェルナーは悪びれた風もなく頭を掻いた。
「まったく、真面目なんだから……」
そう言いつつも、ヴェルナーと呼ばれた男はすぐさま木から飛び降り、リートの目の前に着地すると、すばやい動作で跪いた。
「お初にお目にかかります、リート様。ソリン騎士団所属、ヴェルナー・ツー・シュトライヒと申します。以後お見知りおきを」
そう言って屈託なく笑うヴェルナーを、リートはまじまじと見つめた。口ぶりからしてライナスより年上なのは確実だが、丸顔な上に目と鼻の位置が近いせいで、年齢がはっきりしなかった。
ルイスはといえば、その間ずっと腕組みしたままヴェルナーを睨んでいた。
「仕事はどうしたんだ」
「この格好を見たらわかるでしょ。今日は非番です」
「非番の日に王宮の庭に入るなど――」
「忘れものを取りにきたってことにすれば問題ないでしょ」
いけしゃあしゃあと言葉を返すヴェルナーに、ルイスがこめかみを押さえた。
「もういい。この事は見なかったことにする。さっさと宿舎に帰れ」
「さっすがルイス様。持つべきものは話のわかる先輩ですね」
「リート様と会ったことは黙っていてくださいよ」
「わかってるよ」
ライナスにくぎを刺されたヴェルナーは不満げな顔でそう言ったが、すぐにからりとリートに笑いかけた。
「ではリート様、機会があればまたお会いしましょう」
部屋に戻ってからも、ルイスは不機嫌そうだった。真面目な王宮見学の予定が潰れてしまったからかもしれないし、ヴェルナーが職務違反をしたからかもしれないし、その両方が原因かもしれなかった。
侍女が淹れてくれた紅茶を飲みながら、リートは二人に話しかけた。
「面白い人だね、ヴェルナーって」
「そうですね。宿舎ではいつも騒がしくて、上官には怒られていますが」
「いいよね。あんなふうに明るくいられたら」
リートは思わずそう口に出していた。
「僕はヴェルナーみたいに話せないし、ライナスみたいに落ち着いてるわけでもないし。僕にはなんにもない」
そう言うと、ルイスがすぐに反論した。
「そんなことはない。リートにはリートのいいところがある。そう自分で決めつけるものじゃない」
「……そうだね」
言われてすぐそのとおりに思えたら、苦労はしないとリートは思ったが、言えなかった。ルイスの青い目がじっと自分のほうを見ている気配がしたが、リートは目を逸らし続けた。
彼のまっすぐな視線が、いつもリートは怖かった。
いや、怖いのは視線だけではない。彼の生真面目さや、率直さを目の当たりにするたびに、リートは不安になった。
ルイスのように接してくる人間は、向こうの世界にはだれもいなかった。
自分という人間を彼に知られてしまうことを、なぜかリートは恐れていた。
