第5話 ここにいる理由

 次の日、リートはライナスが来るのを待っていた。
 昨日、退出する前に、ルイスが明日の午前中は用があるので来られないとリートに言ったのだ。
 代役をライナスに頼んでおいたと彼が言ったので、リートは少しうれしくなった。
 ノックの音とともにライナスの声がして、リートは緊張しながらどうぞと声をかけた。
「おはようございます」
「おはよう」
 穏やかに笑うライナスに、リートは思わず微笑み返していた。なんとなく、彼の前では自然な自分でいてもいい気がした。
「あの、僕は本当にここにいていいのかな。べつになにもしてないのに……召し使いの数を減らせとか、部屋を変えてくれとかわがままばっかり言ってるし」
 リートがためらいがちに言うと、ライナスが薄緑色の目を見開いた。
「いいえ、わがままだなんてとんでもない。それはあなたが謙虚だという証拠です」
 自分が謙虚? リートは冗談だろうと思った。
「落ち着かないだけだよ。全部合わせて寝室くらいの狭さでいいのに」
 リートがそう言うと、ライナスが顔色を変えた。
「それはなりません。リート様は公賓――異国から来たお客様のようなものなのですから」
「……いてもなにもできないんだけどな」
 リートは思わずそうこぼした。向こうの世界ではだれにも相手にされず孤独だったが、これはこれで居心地が悪い。相手にされないのは、結局自分がそれだけの人間だからなのだ。なにもできないとわかればみんながっかりするに決まっている。
 リートがそう思っていると、突然ライナスがそっとリートの前にかがみ、リートの手を取った。リートは驚いた。こんなことをされたことは一度もなかった。両親にも、教師にも。
 繊細な面立ちとは裏腹に、彼のてのひらにはそこかしこにタコやあざがあった。きっと剣の訓練でできたのだろう。
「申し訳ありません。そういうつもりで申し上げたわけではないのです」
 ライナスの緑の瞳が静かにリートを見つめる。
「なにができるかということではなく、あなたがここにいるということが大事なのです。どうかご自分を大切にしてください」
 リートはなんと言っていいのかわからなかった。そんなことは、向こうの世界でだれにも言われたことがなかった。
 ここにいるだけでいいなんて。
「ルイス様が心配なさっていましたよ。あなたがなにも話してくれなくなったと」
「それでルイスは君を呼んできたの?」
 リートがそう言うと、ライナスがややあってから静かにうなずいた。
「ルイスが善い人なのはわかってる。でも、僕にはそれが苦しいんだ」
 リートは思わずそう言っていた。固く閉めたはずの蛇口が緩んで、そこから水滴がぽたりぽたりと落ちていくように、口から言葉がこぼちていく。
 気づけばリートは、言葉を選ぶのを忘れて話していた。
「僕には彼は、というか……騎士なんてもったいない。だれかに守ってもらうなんて。違うんだ、慰めてほしいわけじゃなくて……でもそれが事実だから。僕には、だれかに守られるほどの価値なんてない」
 言ってしまってから、リートは自嘲ぎみに笑った。
「こんなこと言われたって困るよね」
 しかし、ライナスは笑わなかった。
「立派な人間である必要はありません。あなたはあなたなりの誠実さを持って彼に接すればいい。背伸びせず、今の自分のままで。そうすれば、きっとそんなふうに思わなくなる」
 リートはなんと返せばいいのかわからなかった。彼の言葉に相応しい返答を、自分はなにも持ち合わせていない。
 出てきたのは、なんのひねりもない、単純な一言だった。
「ありがとう、ライナス。君がいてくれてよかったな」
 リートはかすかに微笑んでそう言った。リートの言葉にライナスは一瞬目をみはった。あと、いつものように静かに頭を下げた。
 それからも二人は部屋で話をした。リートはライナスのことをもっと知りたかった。
「ライナスはどうして騎士団に入ったの?」
 リートがそう訊ねると、ライナスはややあってから語りだした。
「わたしは次男ですから。前にも言いましたが、議会議員になれるのは位の高い家に生まれた嫡男だけで、それ以外は官吏か騎士か、聖職者になる人間がほとんどなのです」
「でも、騎士団に入ったんだよね。それはどうして?」
「わたしの兄は若い頃からとても優秀で、両親に期待されていました。わたしの家は家格が低いものですから、両親は兄が官吏として重要な役職に就いて、家の評判を上げてくれることを期待していたのです。でも、わたしはなにをやっても平凡で、兄のように立派にはなれなかった。自分にはなにも取り柄がないと思っていました」
 ライナスにそんな過去があったとは思わなかったので、リートは驚いた。
 しかし一方では、平凡ならいいほうじゃないかと思う自分もいた。
 自分なんて平凡とはほど遠い。国語と社会の成績以外は人並み以下だし、運動も得意ではない。人前で話すのは苦手だったし、他人と会話しようとしても言葉がうまく出てこなかった。頑張って人並みになろうと努力しても疲れるだけで、いいことなんてなにひとつなかった。
「ですからせめて、騎士団員になって家に貢献したかったのです。そうすればわたしも少しは家族に認めてもらえると、そう思って」
「えらいんだね」
 リートは素直に感心した。しかしライナスは静かに首を振った。
「いいえ。ちっとも。そのせいで、入団してからルイス様に言われてしまいました。自分のことを自分で認められない人間に、他人を救えるとは思えないと」
「ルイスが……?」
 リートには言葉の意味がよくわからなかった。なぜ家族に認めてもらうために頑張るのがいけないことなのだろう。
「そのとおりでした。わたしは自分で自分をおとしめていたのです。そして、大切にしなければいけない人を悲しませていた」
 リートはよくわからないまま、ライナスの言葉に耳を傾けていた。わからなくても、彼の発する一語一語には真摯さが込められているのは感じ取れた。
「本当は、きっとわたしはきっかけが欲しかったのです。自信がない自分を変えるためのきっかけが。でも、場所を変えてもすべてを変えることはできないのだと、入団してから思い知らされました。ルイス様はそのことを最初からわかっていたんです」
 リートはここに来た初日にそう思ったことを思い出した。
 結局、別の世界に来ても自分には居場所がなかった。
 なら、自分はいったいどうすればいいのだろう?
「あれはルイス様の言葉です」
「え?」
 ライナスの言葉でリートは我に返った。
「なにができるかということではなく、今自分がここにいるということが大事なのだと――あの言葉にわたしはずいぶん救われました。ルイス様の言葉がなければ、わたしは自分のことを真剣に考えようと思わなかったでしょう。ずっと平凡な自分に引け目を感じて生きていたかもしれない。ですから、わたしはあの方を尊敬しています」
 ライナスはそんなふうに話を終えた。ライナスの話を思い返しながら、リートは少し羨ましくなった。
 そんなふうにだれかを思えたら、少しは生きるのが楽しくなるかもしれないのに。
「僕は、いつも迷ってばかりなんだ。人といてもいつもさいなことで傷ついて、なにも言えなくて……そういうのって、どうすれば直るのかな」
「直す必要はありませんよ。ルイス様も言っていたでしょう? あなたにはあなたのいいところがあると。今の自分にできることをやり続ければ、人はいつの間にか強くなっているものです」
 ライナスがリートをじっと見つめた。彼の瞳には、自分をよく見せようという虚栄心も、知識をひけらかそうというも見当たらなかった。そのすべてが無意味であると、彼はよく知っているのだろう。
「人は皆弱いものです。強い人間がいるとすればそれは、今の自分の弱さと向き合い、受け入れた人間のことを指すのでしょう」
「そういうものかな」
「試しにやってみますか? わたしやルイス様のように剣を」
「ぼ、僕には向いてないよ」
 リートが慌ててそう言うと、ライナスが微笑んだ。
「そうですね。あなたにはもっと違うことが向いている。だれかと争わず、だれも傷つけないようなことが」