それから二人は部屋を出て、聖殿に向かった。
リートは、自分が現れた場所にもう一度行ってみたいと思ったのだ。それにあの時は気が動転していてほとんど内部を見ていなかったので、もう一度よく見ておきたかった。
入り口には二人の衛兵が立っていた。
メルヒオルには許可を取っているとライナスが告げると、衛兵たちはなにも言わず二人を通した。聖殿へと続く螺旋階段を下り、地下に出る。
前にリートが来たときは、ユーリエとメルヒオルしかいなかったが、今は数人の法衣を着た男女が動き回っていた。リートの姿を認めると、彼らは礼儀正しく頭を下げた。リートが寝かされていた台はすでに片づけられており、部屋の真ん中はがらんとしていた。
リートはユーリエの姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
「ユーリエはどこかな」
「あの奥に。あそこが祈り場ですから」
ライナスが指したのは弓型の入り口だった。確か、ユーリエがピアスを持って現れたのもあの辺りだったはずだ。
リートが入ってもいいかライナスに目で確認すると、ライナスがうなずいた。
リートは恐る恐る入り口をくぐり抜けた。
部屋に入った瞬間、リートの目に黄金でできた煌びやかな祭壇が飛び込んできた。祭壇の後ろには聖人や天使を描いた壁画が描かれている。
そこにユーリエがいた。祭壇の前に設けられた柵の前に跪き、一心に祈っている。
リートの気配に気づいたのか、ユーリエは閉じていた目をぱちりと開け、こちらを向いた。
相変わらず、彼女の顔には表情というものがなかった。
「あ、あの」
リートが口ごもっていると、ユーリエが立ち上がった。
無言でリートに近づくと、ひとさし指と中指を伸ばし、すっとリートの額に翳した。
「王宮の中を見回られたのですね」
驚いたことに、ユーリエは相手の記憶を読み取れるらしかった。
「ご用件はなんでしょう」
「え?」
「わたしになにかご用があるからここまでいらっしゃったのでは?」
ユーリエの唐突な言葉にリートは面食らった。ヴォルヴァというものは、訪ねてきた相手に挨拶や世間話はしないのだろうか。
と言っても、自分にもそんな芸当はできないのだが。
「それは、えっと……僕がどうやってこの世界に来たのか教えてもらおうと思って。君は知ってるんだろう?」
しかしユーリエは首を振った。
「わかりません」
「どうして?」
「わたしが知っていたのは、あの日、あなたがほかの世界からここに来るということだけです。あなたが現れる瞬間を見ようとしてはならないとのことでしたので、わたしが普段と同じようにリヒトに祈っていると、いつの間にか儀式用の台の上に寝ていらっしゃいました」
「そうなんだ……」
リートは拍子抜けした。そしてますますわからなくなった。
自分がこの世界に現れる瞬間をだれも見ていない。やはりこれは自分が見ている夢なのだろうか。
現実の自分は、昏睡状態で意識を失っているのかもしれない。
しかしきちんと身体の感覚はある。味も匂いも感触も音も、リートの五感は正常に働いていた。しかし、自分の知識ではこの状態を解明する手立てもない。
(もしこれが夢なら、いつか醒めてしまうのかな)
こちらの世界が気に入ったというわけではないが、向こうの世界に帰りたいとは思わなかった。
ライナスやルイスのように、自分とまともに話をしてくれる人間は、向こうの世界にはだれもいないのだから。
「それであの、僕は天啓者だって聞いたんだけど、ここでなにをすればいいのかな?」
リートは勇気を振り絞ってそう訊ねてみたが、ユーリエは無表情に首を傾げただけだった。
「なにをとは?」
「だからその」
世界を救ってほしいとか、敵を倒してほしいとか。
リートはそう言いたかったが、口に出せなかった。
自分には特別な力なんてなにもない。余計なことを言ってなにか試練を押しつけられては困る。
「申し訳ありませんが、そういった質問にはお答えしかねます」
「どうして?」
「それはあなたが考えるべきことだからです」
「僕が?」
「はい」
リートはなんと言っていいのかわからなかった。
リヒトに選ばれた人間。天啓者。それだけの手がかりしかもらっていないのに、そこからなにをどう考えればいいというのだろう。
リートは頭を振った。
(……やめよう。そういうことを考えるのは)
自分が本当に救世主のような存在だというなら、向こうからそういう話を切り出してくるはずだ。
物語の中ではいつも、そうやってだれかが主人公を迎えにやって来る。
だがどうも自分はそうではないらしい。
メルヒオルにはなにも言われていないのだから、自分の思ったとおりに過ごせばいいのだ。わざわざ自分から苦労を背負いこむこともない。
(ここにいることが大事なんだ)
リートはそう自分に言い聞かせた。
(でも、そういう試練がなにもないなら、僕はここでなにをすればいいんだろう?)
そのとき、リートはふとライナスの言葉を思い出した。
なにができるかより、ここにいるということが大事。
(そう考えることにしよう)
「あの、教えてくれてありがとう」
リートがそう言うと、ユーリエはわずかに首を傾げた。
「なにもお礼を言われるようなことはしていませんが……?」
「うん、でも、ありがとう」
リートはそう言って、まだ困惑しているユーリエを残して祈り場を出た。
外ではライナスが待っていてくれていた。
「話はできましたか?」
「うーん、訊きたいことは聞けたけど。でも、またわからなくなった」
そう言いながらも、リートは前より心が軽くなったように感じていた。
「でもいいんだ、もう。せっかくここに来たんだから、いろいろやってみるよ。字の勉強とか」
リートがそう言うと、ライナスが嬉しそうに微笑んだ。その様子を見て、リートは嬉しくなった。
「では、図書室に行きましょう。このあいだはまだ開いている時間ではありませんでしたから」
「うん」
リートはうなずきながら、これからどんなふうに過ごそうかあれこれ想像を巡らせた。
今なら、ルイスとも普通に話せそうだとリートは思った。
考えてみれば、自分は彼についてなにも知らない。今日だって、ルイスはなんの用があって休んだんだろう。
リートはライナスのほうを向いた。
「ライナス、ルイスはなんの用で」
しかしライナスは聞いていなかった。彼の視線は螺旋階段に釘付けになっていた。
リートも異変に気づいた。だれかが降りてくる。しかも足音からしてかなりの人数だ。
現れたのは、黒い装束を着た人影の集団だった。全員が顔を白い仮面で隠し、剣を手にしている。
「偉大なるリヒトに自由を!」
「ヴォルヴァを解放せよ!」
「余計な人間は全員殺せ!」
「リート様、結界の中に!」
リートはライナスに腕を掴まれ、訳もわからず走っていた。来た道を引き返し、弓型の入り口をくぐる。
「ここにいれば安全です。決して頭巾を頭から外さないでください」
「待って! ライナス!」
リートは叫んだが、ライナスはもう駆け出していた。
リートは外がどうなっているか見ようと入り口ににじり寄り、顔だけそこから出して覗き込んだ。
聖殿の人間はだれも武器を携帯していなかった。傷ついた衛兵や侍女たちがリートのいる所までたどり着けずに倒れていく。
耐えきれず、リートはその光景から目を背け、うずくまった。瞼を閉じ、耳を塞いでも、悲鳴が割り込んでくる。ここでじっとしているなんてとても耐えられない。自分だけ安全な場所にいるなんて……。
自分のいた世界で、リートはこんな光景に一度も出くわしたことはなかった。事件に遭遇したことも、事故に遭ったことも、被災したこともない。自分の命が脅かされるのは生まれて初めての経験だった。
自分にできるのは、ここで情けなく震えていることだけだった。
その時、突然リートは頭巾を外され、顔を上げさせられた。
「ユーリエ様!」
声の主は、避難してきたユーリエ付きの侍女だった。侍女は恐慌状態でリートに縋りついた。
「ユーリエ様は? ユーリエ様はどこ?」
その言葉を聞いてリートは愕然とした。見回しても、祈り場にはユーリエの姿はどこにもなかった。
ついさっきまで、ここで彼女と会話していたのに。
リートはまた外を覗き込んだ。無残な光景が広がる聖殿の中で、リートはあの特徴的な淡い金色の髪を探そうとした。
しかし、そんな必要はなかった。ユーリエはただぼんやりとその場に佇んでいた。悲鳴が上がっても、ユーリエを庇おうとした侍女が血を流しながら倒れても微動だにしない。
リートはじりじりしながらユーリエを見ていた。あれではまるで殺してくれと言っているのと同じだった。
仕方ない。そう思うのと同時にリートは駆け出していた。
リートはユーリエの腕を掴んで引っ張った。
「ユーリエ! なにしてるんだよ、早く」
「黒髪だ! 天啓者がいたぞ!」
その言葉にリートははっとした。決して頭から外さないでください。そう言われたのに、頭巾をかぶるのを忘れていた。腕を引っ張られた瞬間、リートは恐怖でなにも考えられなかった。逃げなければ。頭ではわかっている。だが身体が動かない。
もつれる足をなんとか前に出そうとした瞬間、リートは法衣の裾に足を取られ、その場に倒れ込んだ。
「リート様!」
声の主はライナスだった。
「お逃げください! 早く、」
しかし声はそこで途切れた。そしてどさりという音がリートの耳を打った。
「……ライナス?」
掠れた声でリートは呆然と彼の名前を呼んだ。
しかし答えはなかった。
振り返りたくない。振り返ってしまったら、もう認めるしかなくなってしまう。
「リート!」
聞き覚えのある凛とした声が響き、リートははっと顔を上げた。
頭上には鈍く光る白刃があった。目をつむる暇もなかった。
やられる。こんなところで自分は、
しかし賊はその姿勢のまま、声も出さずその場に崩れ落ちた。
背後から現れたのは剣を手にしたルイスだった。出先からそのまま駆けつけたらしく、私服姿のままだった。
「大丈夫か?」
ルイスに問われ、リートはその場に坐り込んだまま、力なくうなずいた。
リートを襲った男は絶命していた。ルイスは自分を助けるために人を殺したのだ。自分の許容量をはるかに超える事態に混乱しているのに、リートは頭の片隅でそんなことを冷静に考えていた。
ルイスのあとに続いて、階段から次々に武装したソリンの騎士たちが降りてくる。
騎士たちは敵を孤立させて数人で囲み、確実に仕留めていく。しかし、黒装束の男たちは、騎士たちの登場にもまったく怯む様子を見せなかった。味方が一人、また一人と死んでも投降せず、騎士たちに向かっていく。
しかしリートの目にその光景は映っていなかった。よろよろとリートは立ち上がり、彼のいる場所に歩み寄った。
ライナスは剣を握ったままの姿で倒れていた。硝子玉のような瞳には、もうなにも映っていなかった。
「……ライナス」
リートは力なく彼の名を呼んだ。しかし答えはなかった。
「うそだ。……こんなのうそだ」
