寝台の中で、リートは布団を頭から被ったまま寝返りを打った。
……眠れない。
あれからリートはずっと食事も摂らず、寝室に閉じこもっていた。
あのあとルイスとどうやって別れたのかもよく覚えていない。
今の状況を受け入れることを、リートの精神、思考、感覚、意識、とにかくあらゆるすべてが拒否していた。
(わたしはどこにも行かない。君のそばにいる)
忘れたくても忘れられなかった。
ルイスの言葉が呪いのようにどこまでも自分を追いかけてきて、逃げるようにリートは固く瞼を閉じた。
向こうの世界にいたとき、そうだれかに言われることをリートはずっと夢見ていた。
ひとりぼっちの世界から、いつかだれかが自分を助け出してくれる。そんな都合のいい期待をしていた。
いざ夢が叶ってもまったく嬉しくない。むしろこの言葉は、今のリートにとっては重荷でしかなかった。
自分はそんなことを言われる価値などまるでない人間だった。
自分はあまりに身勝手で、他人任せで、浅はかだった。
まどろんで意識を失いかけても、そのたびにライナスが死んだときの光景が繰り返し頭の中で再生され、現実に引き戻された。
なにも考えたくないのに、勝手に頭が考えてしまう。
リートは寝台から起き上がり、そのままの格好で寝室を出ると、応接用のソファに膝を抱えて坐り込んだ。
あの日、ここに坐ってライナスと二人でいろいろな話をした。だれかと親しく話すことなど初めてで、それが嬉しかった。
彼は、なにができるかよりも、ここにいることが大事なのだと言ってくれた。だが、ライナスが死んでしまった今、そんな言葉に意味などなかった。
「……どうして」
(ここにいることが大事だって君は言ったのに。君が先に死んでどうするんだ)
リートは部屋を出ると、まるで幽霊が彷徨い歩くように廊下をふらふらと歩いた。自分でもどこを目指しているのかわからなかった。
正常な思考判断を失っている自覚はあったが、そんなことはどうでもよかった。後悔と自責の念が、リートを苛んで放そうとしなかった。
あの時聖殿に行くなんて言わなければ。自分が思っていることを言わなければ。
身体を動かしていなければ、頭がおかしくなりそうだった。
しかし、それには無理があった。
「どうかなさいましたか」
リートはびくりとして身を固くした。
近寄ってきたのは宿直に当たっている近衛騎士だった。
リートがなにも言わないのを不審に思ったのか、騎士が近づいてくる。
「リート様、危険ですからお部屋にお戻りください」
「待ってくれ」
その声を聞いたとき、リートは信じられない気持ちだった。この凛とした響きは間違いようがない。
でもなぜ彼がここに? いや、きっと今日は彼の宿直の日だったのだ。
自分はどこまでもついていない。
「見逃してくれ。彼はまだここでの生活に慣れていないんだ」
騎士はルイスの言い方になにかを感じ取ったのか、一礼してまた定位置に戻った。
リートは怯えて身を竦ませた。今のリートにとってルイスは一番会いたくない相手だった。彼に接することが恐ろしかった。
しかし、ルイスが言ったのは一言だけだった。
「……行こう」
馬の背に揺られながら、まるでまだ夢の中にいるみたいだとリートはぼんやり思った。この世界にいること自体が夢なら、自分は夢の中でまた夢を見ているのだろうか。
馬に乗るのは初めての経験だったが、リートの背後からにも関わらずルイスの手綱捌きは巧みで、揺れは少なかった。どこに行くつもりなのか、リートは見当もつかなかった。だが、そんなこともリートにとってはどうでもいいことだった。
ライナスは、もうこの世界のどこにも存在しない。自分の見ていた世界は壊れてしまった。
そう思うとまた苦しさがこみ上げてきて、リートは唇を噛みしめた。ルイスはなにも言葉を発しなかった。馬を走らせることに集中しているのだろうか。
着いたのは、木々に囲まれた公園のような場所だった。
ルイスが歩きだしたので、慌ててリートはあとを追った。
曲がりくねった石畳の道をしばらく歩くと、開けた場所に出た。そこには、大小さまざまな形の墓石が並んでいた。
リートはやっと彼の意図を悟った。
ルイスは視線だけでリートに中に入るように促した。一緒に来るつもりはないようだった。
リートはゆっくりと墓地に足を踏み入れた。彼の墓は簡単に見つかった。まだ墓石のない、棺を埋めただけの区画には、どの墓よりも多くの花束や花輪が供えられている。
「……ごめんね、最後のお別れもできなくて」
リートはそうつぶやいてから、その場にしゃがみ込んだ。
涙は出なかった。それどころか、彼が死んでしまったという動かしがたい事実を突きつけられて、また心のどこかが乾いてひび割れていく気がした。
「……どうして君が死ななくちゃいけないんだ」
リートはそっとそう言った。
ライナスが死んでから、リートの心を占めていたのはそのことだった。
なぜ死ぬのが自分ではなく、彼なのだろう。
この世界は恐ろしく理不尽だ。
「僕なんて友達もいないし、家族のことも信じられないし、生きていてもだれの役にも立たないのに。本ばっかり読んでるけど、全然役に立たないし、学校にいるのは好きじゃない。だれのことも好きになれない」
リートはこんなことを自分のいた世界のだれにも言ったことがなかった。
……本当に、だれにも。
自分の話を聞いてくれる人間はどこにもいなかった。親も教師も同級生も、自分とはどこか違っていた。みんな生きていることになんの疑問も持っていないようだったし、どうしてそんなに楽しそうにできるのか、まるでわからなかった。
いつの頃からか、自分のことにも他人のことにも違和感を覚えてしまう自分がいた。それどころか、自分を取り巻く世界のすべてが不確かで曖昧だった。
自分はいつだって、いてもいなくても同じ存在だった。
なぜかはわからない。だがそう思ってしまうのだ。
リートは流れた涙を拭いもせず続けた。
「ルイスはずっとそばにいるって言うんだ。でもそんなの嘘だよ。どうせみんな僕から離れていくんだ。僕なんかのためにそんなことする必要なんてないのに。一緒にいるのはつらい。彼はとても立派だから、どうしていいかわからなくなる。僕は守られる価値なんかないのに……」
リートはまた顔を膝に埋めた。
「どこにも行かないなんて、そんなの嘘だ……」
このまま消えてしまいたかった。
なにもかも消えてなくなれば、もう悲しまずにすむ。
どうして自分はこんな苦しい思いばかりしているのだろう。
ただ、傷つきたくないだけなのに。穏やかに過ごしたいだけなのに。
どうして……?
そのままの姿勢で時間だけが過ぎた。
気がつくと、ルイスが傍らに立っていた。
彼はその場で跪くと、自分の首元を探ってペンダントを取り出した。
ペンダントの先端には、四つの頂点と直線で構成された星のような形の飾りがついている。五芒星ならぬ、四芒星とでも呼べばいいのだろうか。
ルイスがすっと瞼を閉じた。
凛とした声が、夜の静寂の中で静かに響く。
「我リヒトに乞い願う。
天と地の間に佇む我らのために祈り給え。
かりそめの世と身体を捨てて旅立つ者のために祈り給え。
相克を克服し、真理となれる者のために祈り給え。
時間の制約から解き放たれ、永遠となれる者のために祈り給え。
有限からの束縛を離れ、リヒトに還れる者のために祈り給え。
そして、あらゆる戒めから未だに離れられぬ我らのために祈り給え」
その真摯な横顔を、リートは胸を衝かれたような思いで見つめていた。
両目からとめどなく涙が零れ落ちる。どうしてこんな気持ちになるのだろう。
リートは嗚咽が止まらず、息をすることもままならなかった。苦しくて苦しくて仕方がないのに、それと同時にリートはなぜか楽になっていくような気がした。
