第9話 本音と真実

 リートははっと目を覚ました。
 昨夜のことがすべて夢のような気がした。あれからどうやって部屋に返ってきたのかまるで思い出せない。
 もう辺りは明るくなっていたが、太陽の位置はまだ低く、少々肌寒かった。
 リートは寝台から起き上がり、窓の外を見つめた。
 王宮の敷地内をライナスやルイスと歩いたことが、リートには遠い昔の出来事のように感じられた。あれからまだ三日しか経っていないなんて、信じたくなかった。
 その時ふと、庭を歩く騎士の姿が目に入った。リートは幻覚ではないかと思って一瞬自分の目を疑ったが、すぐにだれかわかった。すらりとした長身、しゃんと背筋を伸ばしてぜんと歩くあの姿は、見間違えようがない。それに、彼くらい髪が短い騎士は珍しかった。あれは間違いなくルイスだ。
 リートは窓を開けてバルコニーに出ると、彼の姿をよく見ようと目を凝らした。彼は訓練場に行くようだった。
 リートは急いで部屋に引き返し、シャツと長袴ズボンに着替えると、部屋の外に出た。
 宿直の近衛騎士に訓練場まで案内してほしいと頼み、リートは騎士について宮殿の廊下を足早に歩いた。早朝の宮殿はどこも忙しそうで、何人も召し使いたちとすれ違ったが、リートは気にならなかった。
 近衛騎士団の宿舎の前を通りすぎ、訓練場に出ると、そこにはルイスがいた。
 上着を脱ぎ、シャツを肘の辺りまでまくった姿のルイスが、剣を片手に突く動きを繰り返していた。
 ルイスの動きはよどみなかった。彼の操る剣の軌道はほとんどブレることがなく、まるで動画を繰り返し再生しているような正確さで、何度も同じ場所にその軌跡を描いた。見ているだけなのに、こちらにまで緊張が伝わってくる。
 リートは聖殿で戦っていたルイスを思い出した。今はリートの護衛をしているが、彼の本領が発揮されるのは、ああいった有事の際なのだ。
 リートはしばらくのあいだ、彼が稽古する姿をじっと眺めていた。
 稽古が一区切り着いたのか、ルイスがこちらに近づいてきた。
「おはよう、リート」
「……おはよう」
 リートはためらいがちに挨拶を返した。
「毎朝ここでやってるの?」
「ああ。わたしの日課だ。一日休むとすぐ身体がなまってしまうから」
「真面目なんだね」
 リートが称賛しても、ルイスはまるで表情を変えなかった。
「義務だと思ったことはない。ただやりたいからやっているだけだ。それにリヒトはいつもわたしを見ている。自分との約束は守らなければ」
 リヒトという言葉で、リートは昨夜のことを思い出した。
「昨日、ライナスのところで言ってたのはなに?」
「死者への祈りの言葉だ。教典の第四章、第十七節にある」
 即座に答えたルイスにリートは驚いた。
「全部覚えてるの?」
「全部かどうかはわからないが、だいたいは。小さい頃から読んでいたら、なんとなく覚えてしまった」
 会話をしながら、リートは彼に感じていた恐れがいつの間にか消えてなくなっていることに気づいた。
「リート」
 名前を呼ばれ、リートが顔を上げると、ルイスが真剣な表情でこちらを見つめていた。
 真剣という言葉は、まさに彼のような人に使うべきだ。
 彼を見ながら、リートはなぜかそんなことを思った。
 思えば、ルイスは何事に対しても真剣だった。リートの質問にも、リートの気持ちにも。自分の機嫌を取ろうとか、思い通りに動かそうなどという邪な意図をじんも感じなかった。
 彼の言葉には、いつだって嘘がない。
「もう一度言うが、ライナスが死んだのは君のせいじゃない。君が責任を感じる必要はどこにもない。君に責任があるなら、わたしにはそれ以上に責任がある。わたしが自分の用事を優先させたせいで、わたしはライナスの危機に間に合わなかった」
「それはあなたのせいじゃない」
「なら、君のせいでもない」
 きっぱりとそう言い切られ、リートはうつむいた。
「……僕は、ここにいていいの?」
「君はどうしたいんだ?」
 ルイスに問い返され、リートは力なく首を振った。
「……わからない」
 リートは正直に言った。
 自分がどうしたいかなんてわからない。
 わかっているのは、向こうの世界にいたくないということだけだ。
「……そうか。わからないことをわからないと認めるのは大切なことだ」
「そうなの?」
 リートは虚を衝かれた気分でルイスを見た。
 自分の世界では、わからないことがあるのは恥ずかしいことだという風潮が強かった。すぐにそれらしい答えを見つけなければ、無知で愚かだというらくいんを押されてしまう。だから、大人たちはいつもなんでもわかっているふりをした。
 ルイスが真面目な表情でうなずく。
「ああ。そこからすべてが始まるんだ。わからないことをわかっていなければ、先には進めない。わからないなら、今度はなぜわからないのか探ればいい」
 そう言われて、リートは考え込んだ。
 なぜ自分は、こんなにもわからないことだらけなのだろう?
 しかし、そもそも自分は考えることを怠っていたのかもしれないと、リートは思った。向こうの世界ではいつも、答えを出すための時間が満足に与えられなかった。
 だから自分はきっと、いつもなにもわからないままなのだ。
 リートがそう考えていると、ルイスがまた口を開いた。
「リート。わたしが君に覚えていてほしいのはこれだけだ。わたしは君から離れない。わたしはリヒトを信じている。だからリートのことも信じる」
 リートはしばらく言葉が出てこなかった。
「……あなたはどうしてそんなふうになれるの?」
 自分のような人間のために命を懸けるなんて馬鹿げている。厄介事に巻き込まれているだけで、なにも得になるようなことはないのに。
 しかも、わがままばかり言ってわめいているような、身勝手な自分を。
「わたしはわたしのやるべきことをやる。ただそれだけのことだ」
 ルイスは淡々と答えた。
「見返りを求めるのは、心が浅ましく貧しい人間のすることだ。仕事のために仕事をする。助けたいから助ける。優しくしたいから優しくする。なぜそれ以外に理由が必要なんだ?」
 ルイスの言葉に、自分の後ろめたい心を晒されたような気がしてリートは恥ずかしくなった。
「ごめん。でも、もし僕のせいであなたが解任されてしまったら」
 リートがそう言うと、ルイスが静かに首を振った。
「それは君の気にすることではない。わたしが解任されるとすれば、それはわたしの落ち度だ。リートは関係ない」
 ルイスの澄み切った薄青の瞳がまっすぐにリートを見つめた。
「君は君のことを考えればいい」
 この時、リートは初めてはっきり彼の目を見た。
 どうして今まであんなに恐れていたのだろう。向こうの世界にいたときから、リートはだれかと目を合わせるのが怖くて仕方なかった。でもそれはきっと、隠している自分を見られるのが怖かったからだとリートは思った。
 他人がどう思うかよりも、自分が嫌われることを恐れていたのだ。そして、内心では激しい感情を抱える自分を持て余し、自分の気持ちに怯えていた。
 その時、ふとリートはルイスの瞳がただ青いだけではないことに気づいた。瞳のところどころに金色のこうさいが散らばり、でん細工のような美しい輝きを放っている。
 リートの視線に気づいたルイスが、そのそうぼうをリートに向けた。
「どうかしたのか、リート」
 リートは言おうかどうか迷ったが、気になったので思いきって訊ねてみた。
「その目は生まれつきなのかと思って」
 ルイスはリートに言われた意味がわからず少し考えていたが、すぐにああこれかと自分の目を指した。
「そうだ、生まれつきだ。メルヒオルにも言われたことがある。わたしのような目を持つ人間はこの世界でも珍しいらしい。両親とも違うんだ。だが、わたしは同じほうがよかったと思う。わたしの両親は、まだわたしが幼い頃に死んでしまったから。同じ色なら鏡を見たとき思い出せるだろう?」
 思いがけない言葉に、リートはなんと言っていいかわからず、黙り込んだ。
「昨日は――わたしが休んだ日は、両親の命日だった」
 リートははっとしてルイスを見た。
「毎年あの日は、両親の眠っているところに行ってから、教会で祈りをささげる。でもあの日はなんだか嫌な予感がして……すぐに帰ってきたんだ」
 リートは、自分がルイスのことについて、なにも考えていなかったことに今更気づかされた思いがした。まさか、彼が休んだのがそんな理由だとは思わなかった。
 自分よりも、ずっとつらい境遇の人間がいる。
 そんな当たり前のことに、リートはこの時初めて気がついた。いや、知っているつもりだった。だが目の当たりにして、初めてそのことを実感していた。
 リートは自分が孤独なのだと思っていた。でも、彼のほうがずっと自分より孤独だった。それなのに、彼はだれにも縋らず、自分の境遇を嘆くこともせず生きている。同情とか哀れみとか、そんな気持ちは湧いてこなかった。
 彼のような人がいる。その事実が、リートに大きな衝撃を与えていた。
 暗くなってしまった雰囲気を壊すように、ルイスが自嘲するように笑った。
「わたしの話をしてもつまらないな」
「そんなことないよ」
 リートは急いで答えた。彼が自分の話をしてくれるのはこれが初めてだったので、リートはもっと話を聞きたいと思った。
「ルイスは騎士団でどんなことをしてたの?」
「ソリン騎士団は少数精鋭で構成された騎士団だ。有事が起こった際にだけ出動して対応に当たる。どこかの応援に駆り出されることもあるが、普段はほとんど訓練だな」
 自分の世界でいうところの、警察の強襲部隊のようなものかとリートは納得した。
「本当なら君の警護には近衛騎士団の人間を当てるのが普通だが、メルヒオルはわたしを選んだ。だから特別ところ置として、わたしを期限付きで近衛騎士団に編入させた。だからわたしはソリンの人間ではあるが、今は近衛騎士団員というわけだ」
「そんなことしていいの?」
「君のことはメルヒオルの管轄だから、自由が利くんだろう」
 ルイスはそう言って、少しだけ表情を緩ませた。
「メルヒオルは、わたしが成人するまで後見人として面倒を見てくれた。大学の寮に入るまで一緒の屋敷で暮らしていたから、ほとんど家族のようなものだ」
 ルイスが静かに続ける。
「彼がわたしに教えてくれたんだ。リヒトのことも、リヒトを信じる方法も」
 リートはためらいがちに口を開いた。
「ねえルイス。リヒトってなんなの? ただひとつの真実って言われても漠然としすぎていて……全然わからないよ」
 ルイスがまた真面目な顔になる。
「それに答えるのは難しい。太陽や海や風や大地がなぜあるのかと訊かれて答えられないのと同じだ。そこにあるからあるんだ」
「でも、リヒトは人が作った概念だよね? 自然とは違う」
 ルイスが静かに首を振る。
「それは違う。この世のすべてはリヒトによって創られたものだ。わたしたちがその存在に気づいたときから、いや、そのずっと前からリヒトは存在している。それにわたしたちは便宜上名前をつけて呼んでいるだけにすぎない」
 ルイスがリートの胸の辺りを指で示す。
「頭で考えるのではなく、心で感じるんだ」
「心で感じる……?」
「だからわたしはどんな時でも迷うことがない。リヒトはだれに対しても平等だ。真に願うなら、リヒトは必ず応えてくれる」
「それは僕でも?」
「ああ。リヒトは人種を選ばない。この世界にいるかぎり、君にも必ず応えてくれる」
 そう答えたルイスの凛とした横顔を、リートはじっと見つめた。
 こんなふうになにかを信じられたら、自分も堂々と他人の前で振る舞えるようになるのだろうか。
 今の自分がリートは嫌でたまらなかった。なにも信じることができず、どこにも行けない。どこに向かえばいいのかわからない。
「ごめん、僕の偏見だった。あなたは善い人だってわかってたのに、信じることができなかった。……リヒトのことだって」
 リートは自分がいた世界の宗教について説明した。
 自分のいた世界では、宗教組織が権力を持ちすぎたせいで腐敗したこと。そこから離脱するために宗教改革が行われたこと。憲法が制定され、権力を持つ人間も法律に従わなければならなくなったこと。政教分離が行われ、宗教は政治に介入してはならないという法律ができたこと。
 リートの話を聞き終えても、ルイスは憤慨したり、取り乱したりしなかった。
「そうか。それは仕方のないことだと思う。権力を独占して人々を苦しめたのだから、倒されても仕方がない。それだけのことをしたということだろう」
 リートは慌てて言葉を続けた。
「でも、政府が信教の自由を保障したおかげで、みんな自分の信じる宗教を信じても迫害されなくなったんだ。迷信に惑わされることもなくなって、政治も科学も進歩したし――とても豊かになった。僕の国はちょっと特殊だけど、世界的に見ればほとんどの国はなにかの宗教を信仰してるし、そういう存在を信じてるよ」
 ルイスのがっかりしたところを見たくなくて、リートは必死に言葉を続けた。
「だから、そんなに落ち込まないでほしい……」
 ルイスはそんなリートの様子を驚いたように見つめていたが、ふっと笑った。
「リートは優しいな」
 突然そんなことを言われ、リートはどうしていいかわからず視線をさまわせた。そんなことを言われていったいどんな反応をすればいいんだろう。
「そ、そんなことないよ。だって僕はあなたのこと」
 リートはそこで言葉を切って、うつむいた。
「前に、どうして一人で食事するのがいやなのかって聞いたよね」
 リートは無意識に手を握りしめていた。
 自分の気持ちを認めるのは怖かった。
 だが、そうしなければならないとわかっていた。
「……惨めだからだよ。独りだと惨めな気持ちになるんだ。だれにも必要とされていない気がする。僕なんかいてもいなくてもいい存在なんだって、そう言われてる気がするんだ」
 ルイスがわからないという顔になる。
 そういう顔をするときの彼は、幼い少年のように見えた。
「それは、だれにだ?」
「だれなんだろうね。僕にもわからない。でも、そう思ってしまうんだ」
 リートは握りしめた手をほどき、顔の前で組んだ。
「僕のいた国では、お金とか社会的な地位とか名誉を必死になって守っている人とか、お酒や賭け事や恋愛に依存したり、人と騒いだり、趣味に没頭したりして、楽しいふりをしている人がたくさんいるんだ。みんな目に見えるいろいろなものに縋っているけど、僕はどれもやりたくなかった」
 だが、なにをしたいのかはまるでわからなかった。
 自分のすべてが、間に合わせで取り繕っただけのハリボテに思えた。
「だから逃げ出したかったんだ。どうしていいかわからなかったから。……だれにもこんな話はできないし」
 そこまで言ってから、リートは自嘲ぎみに笑った。
「僕、勝手なことを言ってるね」
「そんなことはない。リートがそう感じているなら、それはそういうことなんだ。それがリートにとっての世界だ」
 リートは目をまたたかせた。
「僕にとっての、世界?」
 ルイスが真剣な表情でうなずく。
「他人が自分のことをどう感じるかは人によってそれぞれ違う。同じように世界の見方も一人一人違うはずだ」
 そう熱を込めて語る彼の青い瞳の中の煌めく黄金が、光の加減でさまざまに色を変えた。
「リヒトが創造した世界は一つだが、人の数と同じだけそこには世界がある。わたしはそう思う」
「そうだね」
 リートは自分が不思議だった。ずっと疑ってばかりだったのに、なぜか今なら素直にそう思える気がした。
 そんな世界を信じてみたいと思った。
「僕もそう思うよ」