宣言通り、エミリアは昼休みに訪ねてきた。
「朝から災難だったわね、リート」
「本当だよ」
リートは紅茶を飲みながらため息をついた。
「ゾフィーのような人が僕は苦手みたいだ」
エミリアが深くうなずく。
「わかるわ。わたしはゾフィーが大嫌い。授業もつまらないからときどきサボるの。彼女の講義を聴くくらいなら、昼寝でもしてたほうがマシよ」
エミリアがまるで密告でもするように、声を低くして囁く。
「彼女、とっても杓子定規で石頭なの」
「そんなことはない」
横から口を挟んだのはルイスだった。
「ゾフィー殿は学者としては一流だ。大学で何度か彼女の講義を受けたが、とても面白かった」
リートは驚いてルイスのほうを見た。
「ゾフィーは学者なの?」
「政治学者だが、メルヒオルのように聖職者の資格も持っている」
「でもこの国では――」
女性は、議員にも官吏にも騎士にもなれないはずだ。
エミリアがうなずく。
「そう、この国では女性は大学に入れないんだけど、彼女はとても優秀だったから、特例で教授に任命されたの。普通なら考えられないことだけど、彼女の父親のリヒター卿は有名な学者で、政界にも顔が利いたから実現できたといわれているわ」
それを聞いて、リートは複雑な気持ちになった。ゾフィーはきっと優秀な人間なのだろうが、この国では親の後ろ盾や権力があれば教授になれてしまうのだ。女性差別は問題だが、これは性別とは関係ない。権力や有力者のコネで、公平さを欠いた人事を行っているのが問題なのだ。
「そのあとにお祖父様――先代の国王が、ヴォルヴァの教育係にゾフィーを抜擢したの。ついでにメルヒオルの意向で、わたしの政治倫理学の授業も担当してるってわけ。でも、本人はそれが不本意なんでしょうね。いつも偉そうだし、ずっと男社会で生きてきたせいで性格が歪んじゃったのよ」
「ミリィ、仮にそれが事実だとしても、それはゾフィー殿だけのせいではない」
ルイスが静かに言うと、エミリアは肩をすぼめて見せた。
「ゾフィーが苦労してきたのはわかってるわよ。でもわたしは、ああいう居丈高で堅苦しい人は苦手なの。それにゾフィーはあなたのことが嫌いみたいだし。いちいちあの人とは趣味が合わないのよね」
そう独りごちるエミリアを見ながら、リートは今更ながら、彼女を巻き込んでしまったことを申し訳なく思った。
「でも、僕のせいでミリィ様の立場が悪くなったら……」
リートの言葉にエミリアが驚いた顔になった。
「いいのよ、そんなこと。わたしとしては彼女が辞めてくれたら万々歳だし」
「ミリィ!」
ルイスがすかさず注意を飛ばすと、エミリアが肩を竦めた。
「冗談じゃないの」
二人のやりとりを聞きながら、リートは思わず笑ってしまった。
エミリアの好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり言う性格が、リートは好きだった。
「それより、これからどうするの?」
エミリアが心配そうな表情でリートを見た。
「今回はなんとかなったけど、ゾフィーはこんなことで諦めるような性格じゃないわ」
「それはこっちが聞きたいよ」
そう言ってから、リートはちらりと寝室のドアを見た。昼食は一緒に摂ったが、エミリアが訪ねてくると、ユーリエは逃げるように寝室に行ってしまったのだ。
「だいたい、僕にはなにもできないよ。なのに、ルイスもゾフィーも勝手に話を進めるんだから」
エミリアがちらりとルイスに目をやる。
「確かにそうね。外で聞いていたけど、あなたってほんとにどうしようもないわ。どうしてすぐにメルヒオルを呼んでこなかったのよ」
「そんな余裕がなかったんだ。ああでも言わないと、ユーリエは無理やりゾフィー殿に連れていかれていた」
「これはリートとユーリエとゾフィーの問題なのよ。あなたの問題じゃないわ」
「リート一人に責任を負わせる気はない。わたしも協力する」
「だからって、あなたが出しゃばっても仕方ないでしょう」
さらに言い募ろうとしたエミリアをリートは取りなした。
「もういいよ、ミリィ様。僕だって、ユーリエが無理やり連れていかれるところは見たくなかったし。ただ、僕がいても役に立たないんじゃないかって、そう思ったから」
リートはそう言ってうつむいた。
自分にいったいなにができるというのだろう。
「ユーリエは、どうしてリートのところに来たのかしらね」
エミリアは菓子を摘まみながら、ぽつりとそう漏らした。空色の目がじっとリートのほうを見る。
「自分がいても役に立たないと思うなら、ここにユーリエを置いていても仕方がないんじゃない?」
エミリアの問いかけに、リートは言葉に詰まった。
「それは、そうかもしれないけど……」
リートはユーリエのいる寝室に視線を向けた。
力が使えないはずなのに、リートの部屋に入ることはできたのだとユーリエは言った。ただそれだけのことだ。ただの偶然かもしれない。
だがユーリエは自分を選んだ。ほかのだれでもなく、自分のことを。
(自信がないとか、そういうことじゃない)
リートはもうわかっていた。それはあとで取ってつけただけの、もっともらしい理由でしかないことを。
本当は、彼女を助けたいのに役に立たない、なにもできない自分を見るのが怖いのだ。そうやって自信がないと言い訳して行動しなければ、自分は傷つかずにすむ。
(僕は、いつもそうやってなにもしてこなかった)
それに、とリートは思った。最初に口を出したのはほかでもない自分だ。ルイスでもエミリアでもない。
自分に彼女が救えるなんて、そんな大それたことは思っていない。それでも、なにもしないよりははるかにマシなはずだ。
「ユーリエは自分の意思でここに来たんだ。本人もよくわかってないみたいだけど。役に立つかはわからないけど、僕になにかできることがあるならやるよ。だから、ミリィ様にも助けてほしい」
リートがそう言うと、エミリアはそうこなくちゃとばかりに微笑んだ。
「わかったわ。リートがそう思ってるなら」
リートはほっとして笑った。そうだ。一人ではなにもできないかもしれないが、今は相談できる相手がいる。自分一人でなんでも抱え込む必要はないのだ。
「でも確か、彼女十四歳でしょう? いろいろ難しい年頃なんじゃないかしら」
エミリアが考えながら口を開く。
「わたしが十四のときなんて両親に反抗してばかりだったし。女の子らしくするのが嫌で仕方なかったのよね」
そこで言葉を切ると、エミリアはルイスのほうに視線を向けてにやりと笑った。
「今も女らしくないだろとか思ってるんでしょ」
「そんなことは思っていない」
「どうだか」
「僕は好きだけどな。ミリィ様みたいな人」
リートは何気なくそう言った。
「話しやすいし、一緒にいると楽しいし……」
リートはエミリアと話すのが楽しかった。彼女は話すことすべてがはっきりしているし、いちいち同意を求めてくることもない。
自分のいた世界、というより、学校にいる同年代の女子がリートは苦手だった。いつも集団で固まっているし、世間話ばかりで騒がしい。もっとも、本ばかり読んでいる自分を彼女たちも変だと思っているに違いないが。
しかし二人が珍しそうに自分のことを見ているので、リートは当惑した。
「あれ、僕なんか変なこと言った?」
エミリアが微笑する。
「いいえ、嬉しいわ。ただリートがさらっとそんなことを言うから、意外と隅に置けないなと思っていたの」
「そ、そういう意味じゃないよ!」
狼狽してリートは思わずピアスを触った。変な翻訳をされて伝わっていたらどうしよう。エミリアが頬に手を当ててにっこり笑う。
「そうよね、リートはユーリエのほうがいいわよね。歳も近いし。もしかしたら案外それでリートのところに来たのかもしれないわ」
「そ、そんなんじゃないから!」
突然なにを言い出すんだと思いながら、リートは慌ててルイスを見た。しかしルイスは助けるどころか予想外の追い打ちをかけた。
「くぎを刺すわけではないが、リート、ヴォルヴァは恋愛の類いは禁じられている」
「だから違うってば!」
エミリアがくっくと笑い声を漏らす。からかわれたとわかってリートは項垂れた。
「ひどいよ二人とも……」
エミリアとリートのやりとりについていけず、取り残されたルイスは二人の横で不思議そうに首を傾げていた。
エミリアが授業に戻り、リートはユーリエと話そうと寝室に足を向けた。ルイスにユーリエと話すつもりだと言うと、彼は一人で平気かと心配そうに訊ねたが、リートは、なにかあったらすぐ呼ぶからとルイスを見送った。
リートが寝室に入ると、ユーリエが顔を上げた。ユーリエは壁に背を預け、膝を抱えて床に坐っていた。
リートは自分に言い聞かせた。言葉というのはこういうときのためにあるのだ。
今までただ漫然と本を読んできたわけではない。言葉数なら足りている。届くかどうかはわからなくても、意思の疎通を試みなければ。
「あのね、ユーリエ。あの時はいろいろ言ってごめん。ライナスが死んで僕は平静を失ってて。だから、べつに君のことが嫌いとかそんなことは思ってないから」
言ってしまってから、もう少しマシなことが言えないのかとリートは自分が情けなくなった。
ユーリエが首を傾げる。
「どうして謝られるのですか?」
「どうしてって……気を悪くさせちゃったかなと思って。それに、僕はまだ君のことをよく知らないのに、いろいろ言ったから」
口に出して言ってみてから、リートは初めてそのことに気づいた。
そうだ。なぜ気づかなかったのだろう。自分はユーリエのことをなにも知らない。うまく話ができないのは当たり前だった。
慣れないことをしても仕方がない。リートは開き直ることにした。結局自分は単刀直入にしか話せないのだ。
リートはそう結論づけると、ユーリエに歩み寄り、少し離れたところに彼女と同じように床に坐った。
「だから教えてほしいんだ。どうして僕のところに来たのか」
ユーリエは沈黙したあと、うつむいたまま答えた。
「……あなたのような人は初めてです」
「え?」
「わたしにパンをくれた。お礼も言うし、謝罪もする。勝手に部屋に入っても怒らなかった。それに、わたしの気持ちを聞こうとする」
「いや、そんなの大したことじゃ――」
なんでもない、普通のことじゃないかとリートと思ったが、ユーリエは首を振った。
「そんなふうに、わたしに接した人間は今までだれもいませんでした」
そう言って、ユーリエはじっとリートを見た。
たぶん、これは彼女なりの当惑の表現なのだとリートは思った。
どうやらユーリエは、自分への接し方に困っているらしい。今までにない経験の連続で、どう対処していいのかわからずにいるのだ。
「あなたに、あの時どうして逃げなかったのかと訊かれてから、ずっと考えていました。でも、わかりません」
そう言ってユーリエは項垂れた。
「そんなことを考えていたら、いつの間にか力が使えなくなっていました」
「だから僕のところに来たの?」
ユーリエがうなずく。
「ゾフィー様は、いつもわたしに考えるなと言います。ヴォルヴァに限らず、人がなにかを考えてよかった試しは一度もないから、と。でもわたしは……考えなければいけないと思ったのです。そうすれば、この気持ちからも抜け出せるかもしれないと」
「それは、どんな気持ち?」
「自分のことなんて、どうでもいいという気持ちです」
「だから逃げなかったの?」
ユーリエがまたうなずく。
「そうかもしれません。逃げる気なんてありませんでした。そんなことはどうでもよかったんです。わたしが生きていても死んでいても、なにも変わりませんから。なのにどうして逃げなければならないのですか?」
「……死にたかったの?」
リートは小さな声で訊いた。ユーリエが力なく首を振る。
「わかりません。でも、ここにいたいと思う理由もありませんから」
「ここが好きじゃないの?」
「ここ以外の場所を知りませんから」
ユーリエの答えを聞いたとき、リートはなんとなく納得した。
そうか。ならばユーリエも自分と似たようなものじゃないか。
「それなら、怒っても仕方なかったね。ユーリエにとって生きることと死ぬことが同じなら」
リートはそう言いながら、抱えた膝を伸ばし、床に足を投げ出した。話をするには行儀の悪い態度かもしれない。だが、そんなことはもう気にしたくなかった。
「僕もね、べつに生きてることなんてどうでもよかったよ。でも最近わかったんだ」
リートは言いながら、室内燈が吊り下がっている天井を見上げた。部屋が豪華すぎて気後れしていたことが、ずいぶん昔のことのように感じられた。
「それは、僕が自分の意思で生きてないからだって。僕の世界にはああすべきだとか、こうすべきだとか、意見を押しつけてくる人がたくさんいて、僕は怒られないように、その人たちの言うことを聞いて過ごしてた。でも、内心そのことにうんざりしてた。人の言うことより、僕は僕の声を聞かなきゃいけなかったのに、僕はそうしてなかったから。でもそれに気づいてからは、ちょっとだけ楽しくなったんだ。自分のことも、ほかの人のことも、前より少しは好きになれた気がする」
「人のことは信用できません。わたしに近づく人は、みんななにか思惑があるのです」
「それもゾフィーが言ったの?」
ユーリエがうなずく。
「確かに、そういう人もいるし、気をつけなきゃいけないかもしれないけど……君のことが、好きで優しくしてくれる人もいるかもしれないよ」
リートがそう言うと、ユーリエの瞳が見開かれた。
「わたしを好き?」
ユーリエの声にはありえないという感情が滲んでいた。
「そんな人がいるはずありません」
「どうしてわかるの?」
「考えるまでもないことです。それに、わたしはだれかに好きだと言われたことが一度もありません。だれかを好きだと思ったことも」
「家族はいないの?」
「いません。わたしは親に捨てられた子どもですから」
リートが驚いているのもかまわず、ユーリエは淡々と言葉を続けた。
「わたしだけに限らず、ヴォルヴァはみんなそうです。わたしたちには生まれつき力があって、赤ん坊の頃からひとりでに浮いたり、泣いたり、ひどいときには部屋中の物を散乱させるので、親は面倒を見きれずに教会に捨ててしまうのです。そこでわたしを拾った司祭様からメルヒオル様とゾフィー様に話が行き、わたしは王宮に引き取られて住むようになりました」
その時、カタカタと部屋全体が揺れていることに気づいて、リートは思わず床から腰を浮かした。
