第17話 知らない感情

 地震だと思ったリートは、出口を確保しようとすぐさま寝室の扉を開けたが、居間の様子を見て驚いた。居間は室内燈シャンデリアから棚の上の調度品に至るまで、なにひとつ揺れていなかった。
 思えばルイスが真っ先に駆けつけてこないのも、召し使いたちが騒いでいないのも変だった。揺れているのはきっとこの部屋だけに違いない。これもユーリエの力なのだ。そうしているあいだにも揺れはだんだんひどくなり、リートは立っているのがやっとという状態だった。このままでは天井が崩落しかねない。
 リートは揺れに負けない声で叫んだ。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。君を傷つけるつもりじゃ――」
 部屋の揺れが唐突に収まった。リートはほっと息をついたが、揺れが収まってもまだ身体が揺れているような感覚がして、思わず壁に手をついた。
「傷つける?」
 ユーリエの声にリートは顔を上げた。人形めいた薄紫色の瞳が不思議そうに見開かれていた。
「だって、悲しいことを思い出せちゃったから」
「悲しい?」
 ユーリエが繰り返す。リートはまじまじとユーリエを見つめた。彼女は本当に言葉の意味がわからないようだった。
「……悲しくないの?」
「わかりません」
「わからないって……自分のことじゃないか」
「そういうことは教えてもらっていませんから」
 リートは絶句してその場に立ち尽くした。ユーリエが目を伏せる。
「……申し訳ありません、驚かせてしまって」
 ユーリエの謝罪にリートはなんと返していいのかわからなかった。気にしていないよとか、大丈夫とか、そんなことを言うのは簡単だった。しかし、この場を取り繕うだけの言葉ではなんの意味もない気がした。
 その時、ノックに続いて寝室の扉が開いた。顔を覗かせたのはルイスだった。先ほどのリートの声を聞きつけたらしい。
「リート、なにかあったのか?」
「なんでもないよ。大丈夫」
 そう言いながら、リートは自分だけ立っているのが不自然なことに気づいて寝台に腰掛けた。
「リート様」
 名を呼ばれ、リートはユーリエのほうを見た。しかしそこからが長かった。
 言おうか言うまいか、葛藤しているユーリエの前で(リート以外の人間には、無表情で黙っているだけにしか見えなかったが)、リートは辛抱強く待った。
 どれだけ時間がかかっても待つつもりだった。
 それくらいしか、自分にできることはないのだから。
 長い長い沈黙の末に、ユーリエはようやく口を開いた。
「お願いがあるのですが」
「……なに?」

 数十分後、リートとユーリエはルイスの操る馬車に揺られていた。
 城の外に出る道すがら、侍女や侍従に近衛騎士、城に出入りする官吏まで、会う人間すべてがぎょっとしたように三人の姿を見た。
「なんだか、ものすごく見られてるんだけど」
 ユーリエに聞こえないように、リートがルイスに近寄って囁くと、ルイスも囁き返した。
「彼女の姿を見たことのある人間は数えるほどしかいないからな。珍しいんだろう」
 馬車を降りた三人は、石畳の坂を上り、目的の場所にたどり着いた。ここにリートが来たのはつい一週間ほど前だ。
 ライナスの墓前には、リートが来たときと同じように花束が幾つも置かれている。
 ユーリエは墓の前にしゃがみ込んで、じっと花束を見つめていた。ライナスの墓に案内してほしい。それが彼女の頼みだった。
 ユーリエの気持ちを表情から読み取るのは不可能だったが、彼女がじっとなにかを見つめているときは、なにかを考えているときなのだということにリートはこの半日で気づいていた。
「君のせいじゃないよ」
 頭で考えるより先にリートはそう言っていた。
 なぜかそう言わなければならない気がした。
「ライナスが死んだのは僕のせいでも君のせいでもない。殺した人間のせいだ」
 そこまで言ってから、リートは自分が見当違いなことを言っている気がして恥ずかしくなってきた。
「いや、君がそう思ってないならべつにいいんだけど」
「今まで気にしたことはありませんでした」
 ユーリエがぽつりとつぶやいた。
「人が死ぬのは当たり前のことで、感情的になっても仕方がないと」
 リートはまじまじとユーリエを見つめた。
「ゾフィーさんはそんなふうに教えてるの?」
 ユーリエがうなずいた。
「ヴォルヴァは感情的になってはいけないと」
「理由は訊いた?」
「そうしなければ国に災いが起きると」
 それは確かにそうかもしれないが、そういう問題ではないだろうとリートは思った。それではただの脅しではないか。
 きっと、ユーリエはゾフィーの教えを忠実に守って今まで生きてきたのだろう。だからユーリエは自分の気持ちがわからないのだとリートは推測した。
 最近わかったのは、自分の気持ちがわからなければ、自分の感情を制御することは不可能だということだった。
 ただ感情を抑えて感じないようにするのと、制御することはまるで違う。
 腹が立つのか、悲しいのか、つらいのか、苦しいのか、嬉しいのか、楽しいのか。
 それがわからないから、無視しているから、なにも表現できないのだ。
 だいたい、ユーリエはなぜリートのところに来たのかもわかっていなかったのだ。そんな自分や周りの態度に違和感を覚えて部屋を抜け出し、自分のところに来た。それがすべてなのだ。
「それはそうかもしれないけど、でも、自分の気持ちは自分にしかわからないよ。頭で考えるんじゃなくて、心で感じないと――って、これは受け売りだけど」
 だが、リートはルイスに言われた言葉を今も大事にしていた。
 そう自分に言い聞かせていれば、いつも置き去りにしがちな自分の気持ちに自覚的になれる気がした。
 ユーリエが微かに目を瞠る。
「心で?」
「うん。君にもきっと感情はあるよ。だってあれだけ部屋が揺れたのは、君が動揺したからだって……僕にはそう思えるから」
 確証はなにもない。だが、リートにはあの揺れが彼女の気持ちを表しているように思えてならなかった。
「思っていることがあるなら、はっきりそう言えばいいよ。ユーリエが素直な気持ちを言えば、きっと受け止めてくれると人がいると思う」
 リートがそう言うと、ユーリエは少しのあいだ黙り込んでいたが、不意にリートをじっと見つめた。
「もし、そうならなかったら?」
 リートは一瞬考え込んだ。だが考えるまでもなかった。自分はとっくにその答えを知っている。
 本には書いていなくても、自分の心に聞けばすぐにわかる。
「そうならなかったら、僕がみんなにわかってもらえるように助けるから」

 王宮に戻った三人を待ち受けていたのはゾフィーだった。ゾフィーはなにもかも気に入らないという表情でリートたちにつかつかと歩み寄った。
「あなた方はなにを考えているのです。ヴォルヴァを外に連れ出すなんて」
「メルヒオルの許可は取りました」
 リートは小声でそう反論したが、残念なことにゾフィーの怒りに拍車をかけただけだった。
「だとしても、宮殿の外ですよ! もし原理主義者に見つかっていたら――ルイス、あなたは天啓者の騎士でしょう、諌めるなりなんなりしたらどうなのです」
「ゾフィー殿。わたしが見たところ、ユーリエはあなたよりリートを必要としている。それを咎める理由がわたしには見つからない」
「あなたの個人的な意見は聞いていません。メルヒオル様には一日だけと約束しました。もうじゅうぶんでしょう」
 ドレスの裾を勢いよく翻し、ゾフィーはユーリエに近づいた。リートたちとはこれ以上会話もしたくなければ、一分一秒も一緒にいたくないという様子だった。
「来なさい、ユーリエ」
 しかしユーリエは動かなかった。ユーリエの手が、リートの服の端をぎゅっと握る。
「言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「言えるわけないでしょう」
 リートは思わずそう言い返していた。
 そんなの言えるわけがない。
 リートの反撃が予想外だったのか、ゾフィーが目を見開いた。
「ユーリエがあなたを怖がっているのがわからないんですか」
 なぜ自分がこんなに怒っているのかもよくわからないまま、リートは激しい口調でそう言っていた。
「あなたはユーリエのことが大切なんでしょう。だからいろいろ考えるなとか、人を信用するなとか、そういうことを言うんでしょう。でもそんなのただの押しつけだ。ユーリエに傷ついてほしくないなら、そう言えばいいんだ。ただ大切だって、そう言えばいいんだ。なのにどうして縛りつけるようなことを言うんですか」
「天啓者だからと偉そうに」
「そんなの関係ない!」
 リートが叫ぶと、ゾフィーは目を見開いた。
「人に向かって大声を出すとは何事ですか。人というものはいついかなる時も冷静に」
「冷静になれないときだってあります! 僕は彼女を救おうと思ってるわけじゃない。でも約束したんです。ユーリエが自分の気持ちを言えるように手伝うって。なのに、あなたに聞く気がないならなにを言ったって無駄だ」
 リートはそう言いながらゾフィーを睨んだ。
「僕が彼女を傷つけることになるってあなたは言った。でも、もうユーリエはとっくに傷ついてる。それがわからないんですか?」
 そう言うとリートはユーリエの手を取った。
「行こう」
 ユーリエがうなずく。リートはそのまま走りだした。
「待ちなさい、ユーリエ!」
 ゾフィーの悲鳴のような声が追いかけてくるが、リートは止まらなかった。ユーリエの手をしっかり握りしめたまま、リートは無我夢中で走った。どこへ行くかもわからないままだったが、心だけはおもが外れたように軽かった。
 しかし、二人は目の前に現れた影にあわや衝突しそうになってしまった。
「おやおや、そんなに急いでどこへ行くのかな、二人とも」
「メルヒオル……」
「ユーリエ!」
 息を切らしたゾフィーがリートたちのほうに駆け寄ってくる。後ろにはルイスもいる。
「なにを焦っているんだ、ゾフィー。あなたらしくもない」
 話す内容とは裏腹に、メルヒオルの口調はいつもと変わらない穏やかさだった。ゾフィーが静かに頭を下げる。
「申し訳ありません」
「べつに咎めてはいないよ」
 メルヒオルはゾフィーに微笑むと、リートとユーリエに向き直った。
「さて、話はわたしの部屋で聞こうか」
「待ってくれメルヒオル、リートはただ」
 メルヒオルは反論しようとしたルイスが片手を挙げて制した。
「話が終わるまで外で待っていなさい」
 それは上司としての命令だった。ルイスが静かにうなずく。
「……承知しました」