「帰りたい?」
そうメグに訊かれたのは、力を使う練習をしてから、彼女の出した昼食を食べていたときだった。
「帰っていいの?」
「あなたがそれを望むなら」
「でも、また雨が降りだしたら?」
「大丈夫よ。じゅうぶんすぎるくらい一緒に遊んでもらったから。それに、あなたを脅迫したくないし」
「いや、それは――」
シュンは弁解しようとしたが、言葉が見つからず口を閉じた。
世界を人質にとった脅迫。あの時は気が立っていて、ついそんなことを言ってしまった。彼女だって、力を制御できなくて困っているのに。
メグがふふっと笑う。
「冗談よ。もう気にしてないわ。だからあなたも気にしないで。これはわたしの問題で、あなたの問題じゃないんだから」
「うん……」
なんとなく釈然としない気持ちのまま、シュンは頷いた。
彼女が満足したなら、もう天気が急変することはないはずだ。
それならもう、自分がここにいる必要はない。
「帰ったら、もうここには来られない?」
「ええ。本来は、わたしたちは向こうの世界と行き来しちゃいけないの。これはわたしのための特例だから」
「ほんとに王女様みたいだな」
シュンが苦笑しながら言うと、メグも微笑んだ。
「この世界に権力はないのよ、瞬。権力がなくても生きていくことに支障はないって、みんなわかってるから」
権力に執着する人間がいないなんて、羨ましいかぎりだとシュンは思った。
なにせこちらの世界の人間は、いつもなにかに執着して醜い争いを繰り広げている。その上、自分が他人より価値があることを証明するために、他人を蹴落とそうとする。
(そういう俺だって、ゲームを作ることに執着してる)
でも自分は作るほうだ。彼らのように他人を支配したり、傷つけたりはしない。
「ねえ、瞬。あなたの夢はなに?」
「夢?」
突然そんなことを訊かれ、シュンは戸惑った。
「わたしたちの世界ではそれが一番大事なことだから。自分がやりたいと思ったことは、なんでもすぐに実行に移すの。もちろん、他人に迷惑をかけない範囲でだけど」
「ないよ、そんなの。だいたい、夢を持てるのも叶えられるのも、ほんの一握りの人間だけだから」
「どうして?」
「俺の住んでる国では、そういうことになってるんだ」
シュンはうつむいてそう言った。
夢を語れるのも、その夢に向かって努力できるのも、結果を出して認めてもらえた人間だけ。それ以外の大多数の人間は、自分は何者でもないし、なににもなれないのだと気づいて夢を諦めることになる。くだらない夢など持たずにおのれの分をわきまえ、自分の労働力を売って給料を貰い、そこそこの生活を維持するしかない。そう結論づけて、社会の歯車になることを受け入れていく。
その一方で、夢を叶えられたごく一部の幸運な人間は、頑張れば、諦めなければあなたにも必ずできると無責任に豪語する。
「じゃあ、あなたが望んでいることはなに?」
俺の望み。自分が望んでいること。
(……働きたくない)
それがまっさきに浮かんでシュンは苦笑した。
いや、本当はそうじゃない。
「会社員として働くんじゃなくて、自分の仕事を持ちたい。その上で、世の中のために貢献したい。自分で価値を作りだせる人間になりたい。自分にしか創りだせないものを創れる人間になりたい。……それから」
「それから?」
「……それくらいかな」
メグが微笑んでシュンを見つめた。
「あなたなら叶えられるわ、きっと」
「……そうかな」
「だってあなたは意志が強いもの」
「俺が?」
シュンは驚いてメグを見た。そんなわけがない。あの時だっていろいろ文句は言ったが、結局逆らえずに引き下がってしまったのに。
メグが真剣な表情になる。
「ええ。あなたなら大丈夫よ、瞬」
(そんなこと。なんの根拠があって?)
シュンはそう言いたかったが、ありえないことばかり起きる世界にいるのに、真面目に反論するのは変な気がして口を閉じた。
でもそれ以上に、彼女の言ったことに戸惑ってもいた。
あなたなら大丈夫。そんなことをだれかに言われたのは、初めてだった。
「メグに夢はないの?」
シュンが訊ねると、メグは少し考えてから口を開いた。
「……あるわ。でも、わたしにとって夢は、叶えるものじゃなくて追い続けるものだから。叶うかどうかはそんなに重要じゃないの」
「それはいい考え方だね」
シュンは心から言った。
彼女はきっと、叶わない夢を抱いてつらい思いをすることなどないのだろう。
(俺もそう思えたらいいのに)
「……ジーンに伝えておくわ。あなたが帰ること」
シュンははっとしてメグを見た。
メグの表情はどこか寂しそうで、シュンはなにか言葉をかけたくなったが、なんといっていいのかまるでわからなかった。
「……ありがとう」
そんなことを言いたいんじゃないのに。
そう思いながら、シュンは自分の手のひらを固く握りしめていた。
次の日、シュンは唖然として目の前にある建物を見上げていた。
ずっとここで寝泊まりしていたのだが、いつも部屋から直接公園に出ていたので、シュンは正面から外観を見るのはこれが初めてだった。
「……これが君たちの世界の役所?」
シュンは自分の世界にあるような、白くて無機質な建物を想像していたが、実物はまったく違っていた。そこにあったのは、前衛的な建築デザインがなされた美術館のような建物だった。屋根の部分はなだらかな曲線を描いていて、角張った部分がどこにもない。硝子張りの渡り廊下は、なんの支えもなく、まるで宙に浮いているように見える。
建築のことはよく知らないが、どう考えてもシュンの世界の建築技術では実現不可能そうに見える構造だった。
「そう。これもわたしがデザインしたの。最近新しく立て替えたばかりなのよ」
「思いっきり重力を無視してるように見えるんだけど……」
ここに建築の専門家がいたら、嬉々としてこの建物を調べまわるに違いない。
そう思いながら、シュンはジーンとメグの後ろについてしばらく通路を進んだ。
「ここだ」
通されたのは、六畳ほどしかない狭い部屋だった。部屋の奥に姿見が一つぽつんと置かれているだけで、ほかにはなにもない。
「この鏡を通り抜ければ向こうに戻れる。座標は君の部屋に設定したが、それでよかったか?」
「いいけど……メグに扉を作ってもらうんじゃだめだったの?」
「そうしてもよかったが、メグが君をここに案内したいというから連れてきたんだ。手続きもいろいろと面倒だからな。管理者専用の入り口は、非常時以外はいつも開いているし安定しているから、どこか別の場所に飛ばされることもない」
その口調がどこか残念そうだったので、シュンは胡乱げにジーンを見つめた。
「……俺を宇宙の果てにでも飛ばすつもりだったんじゃないだろうな?」
ジーンがあさっての方向を見る。
「そんなことはしない」
「あなたたちもずいぶん仲良くなったのね」
シュンとジーンを代わる代わる見て微笑むメグに、シュンは束の間言葉を失った。
なにをどうしたらそんな解釈が成り立つのだろう。メグの思考回路は未だによく理解できないとシュンは思った。隣でジーンも困った顔をしていたが、シュンが見ているのに気づくと、さっと真顔に戻ってしまった。
「えーと……」
口に出してからシュンは困った。親しくない人間と別れるときは、どんな挨拶をすればいいのだろう。
ジーンが眉を上げる。
「挨拶の言葉が見つからないなら、わざわざ言わなくてもいい。わたしもべつに君との別れを惜しむ気はない。もう公園を立ち入り禁止にしなくてすむし、せいせいする」
それだけ言ってジーンがさっさと部屋を出ていくと、メグがすまなそうな顔で口を開いた。
「ジーンのことは悪く思わないで。あなたを拉致してきておいて、今更形だけ和解するふりをするのが嫌なだけだから」
「ああ、そう……」
そうしておけば、だいたいの相手は許してくれそうだが、ジーンはそれができない性格らしい。性格こそ違うが、彼も自分と同じくらい面倒な人種なのかもしれないとシュンは思った。
(というか、ずっと立ち入り禁止だったんだ……)
自分のせいで公園が使えなかったなんて。自分は差別されているのか特別待遇なのか、よくわからなくなってきた。
(そりゃまあ、もう会いたくないよな)
ジーンにしてみれば、自分は厄介者でしかないのだから。
気を取り直して、シュンはメグのほうを見た。
「あのさ、昨日考えてたんだけど、向こうの世界に帰ったらいつのまにかものすごく時間が経ってて、知ってる人がだれもいなかったなんてことにはならないよな?」
シュンの言葉に、メグがくすくす笑った。
「なあに、それ。面白いことを言うのね」
「そういうおとぎ話があるんだよ」
「大丈夫。向こうと時間の進み方は同じだから」
シュンは鏡に向かって歩を進めようとしたが、なんとなく後ろを振り返った。
「……メグ」
「なに?」
「……俺がいなくなって平気か?」
メグがふふっと笑う。
「変なの。前はさっさと向こうに返せって怒鳴ってたのに」
その時のことを思い出した気恥ずかしさで、シュンは頭を掻いた。
「そうなんだけど。べつに向こうの世界が好きなわけじゃないから」
それに待っている人だっていない。
「あなたはわたしが平気じゃないって言っても帰るでしょう?」
「そ、それは……そうかな」
そうだ、自分はそういうことができてしまえる人間だ。
彼女は自分の薄情さを見抜いている。
それなのに、なぜメグは自分のことを気に入ったのだろう。わからない。
シュンは一歩前に踏み出そうとしたが、またしても後ろを向いた。
そんな自分にシュンは戸惑った。なぜ自分はさっさと帰らずに、ここでいつまでもぐずぐずしているのだろう。明らかに自分の行動はおかしい。
しかし、そんなシュンにメグはなにも言わなかった。
「……メグ」
「なに?」
シュンは口を開こうとしたが、また閉じた。
こういうとき、なんて言えばいい?
頭の中を引っ掻きまわしてもそれらしい言葉が出てこず、シュンは困った。
なにかを伝えたいとは思っているのに、相応しい言葉を見つけ出せない。
「無理やり連れてこられたけど……楽しかったよ。ここで過ごせて」
シュンはなんとかそれだけ言うと、メグが小さく微笑んだ。
「わたしも楽しかったわ。ありがとう、一緒に過ごしてくれて」
「さよなら、瞬」
「……さよなら、メグ」
シュンは今度こそ前を向き、鏡に向かって一歩踏みだした。
