帰ってきた翌日、シュンは久々に出社したが、一日サボったときと同じように、社員たちは挨拶を返す以外はなにも反応を示さなかった。
ジーンの作った分身は、自分が不在のあいだ、つつがなく仕事をしていたらしい。
タイムカードの記録もきちんと残っていた。
入れ替わっても、だれにも気づかれないなんてとシュンは虚しくなったが、しょせん他人などそんなものだと思い直した。
自分だって、よほど親しくしている人間でもなければ、社員のだれかが同じ姿形の別人に入れ替わってもきっと気づかないだろう。
シュンは腕を枕にして机に突っ伏した。
(俺、なんで帰ってきたんだろう)
「おはよう、シュンくん」
よく知っている声が降ってきて、シュンは勢いよく顔を上げた。
「舞花さ……いや、宮下さん」
宮下舞花は、シュンより四つ年上の先輩プログラマーだ。まだ新人の頃、シュンが仕事のやり方を教わった相手でもある。
シュンはちらりと舞花の姿を観察したが、彼女は一か月前に会ったときとまったく変わりがないように見えた。
清楚なオフィスカジュアルに身を包み、派手すぎないダークブラウンに染められたセミロングの巻き髪は、まるで美容院に行ってすぐのように完璧にセットされている。さらに、エクステが施された上向きのまつ毛、派手すぎない程度に施された化粧。少し伸ばした爪は、いつも凝ったネイルで彩られている。
彼女がいつも身支度にどれだけの時間をかけているのか、シュンは一度訊いてみたかったが、失礼だと思って訊けずにいた。自分が女性だったら、絶対にここまでやらないし、そもそも不器用すぎてできない。今だって、一分でセットできる髪型に、服は仕事用のトップス五枚とアウター三枚、ボトム三枚を着まわしているだけなのに。
舞花があまり唇を動かさずに囁く。
「大丈夫だよ。だれも聞いてないし」
「いえ、そういうわけには……」
彼女と関係を持っていることは、絶対に会社の人間には知られたくなかった。
女子力の塊みたいな彼女に、自分のようなぱっとしない人間が? そう思われたらつらい。
言ったところで、だれにも信じてもらえないかもしれないが。
「さっきは寝てたけど、体調悪いの?」
「え、ああいや、そういうわけじゃ……」
「真面目にしすぎて疲れちゃった?」
そう言うと、舞花は自分の冗談にふふっと笑った。
「最近は、文句ひとつ言わずに仕事してたから。広瀬さんもやっと社会人としての自覚が出てきたかって感心してたよ」
シュンは愛想笑いを浮かべた。できるなら、そんな自覚は一生したくない。そう言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
「今週の金曜日、空いてる?」
「ええ、空いてますけど」
シュンの返事に、舞花はほっとしたような笑みを浮かべた。
「じゃあ、七時にいつもの店ね」
「え、でも……」
彼女の生理周期では、その日にするのは無理ではないのだろうか。
シュンがそう思っていると、舞花が微笑した。
「その日は食事だけだよ。実は、話したいことがあって」
そう言ったあと、舞花が黙ってうつむいてしまったので、シュンはとりあえず頷いた。
「……わかりました」
「宮下、ちょっと」
舞花が手招きする広瀬に返事をして、シュンに笑顔を向けた。
「じゃあ、金曜日にね」
「はい……」
舞花が行ってしまってから、シュンはまた机に突っ伏した。
なんだろう。改まって話なんて。
(彼氏ができたから、もう二人では会わないとか?)
……ありうる。
仕事が忙しかったせいもあるが、最近彼女には一度も誘われていなかった。
シュンが舞花と関係を持ったのは、一年前のことだった。
簡単な仕事を任されるようにはなったものの、失敗続きで悩んでいたときに、舞花に食事に誘われたのだ。女性と二人きりで食事するのは初めてで、デートでもないのにシュンは完全にあがっていた。緊張で喉が通らない料理をなんとか食べ終え、シュンがほっとしていたときに、彼女は言った。
「食後はいつも紅茶なの?」
シュンは飲んでいたティーカップに目を落としてから、うつむいて言った。
「俺、コーヒーが飲めないので」
十代のときにコーヒーを飲むと体調が悪くなることが判明して以来、シュンはコーヒーを一切飲まなくなった。用心してカフェオレすら飲まない。外で飲むのは、いつも紅茶かジュースと決めていた。
「そうなんだ。実はね、わたしも苦手なの。ココアのほうが好きなんだけど、子供っぽいと思われるのが嫌で――」
今思えば、その言葉を聞いたときにはもう心を許してしまっていた気がする。
それは、コーヒーを飲めなくても馬鹿にされなかったからかもしれないし、彼女が自分だけに秘密を打ち明けてくれたような気がしたからかもしれない。
学生時代のことを話すのは嫌いだったが、舞花にだけはいろいろ話した。友達がろくにいないことも、学生時代に一度も異性とつき合ったことがないことも、母を遠ざけていることも。シュンが流暢に話せなくても、彼女は気にしていないようだった。それが嬉しかった。
だが、その関係が大きく変わったのは――そう、あの時も雨がきっかけだった。
ある日、店を出た直後に強い雨が降ってきて、傘を持っていなかったシュンたちは、とりあえずコンビニに避難した。
雨がなかなか止まず、シュンがビニール傘を買うしかないかと思っていたとき、舞花がそばに寄ってきて、シュンの手に自分の指を絡めながら言ったのだ。
服を乾かしたいから、ホテルで雨宿りしていかないかと。
それがどういう意味かくらい、経験のないシュンでもわかった。
シュンは頭を振って、そこからの記憶を追い払った。
やめろ。部屋に着いても勝手がわからずにもじもじしていたことも、コンビニで避妊具を買ったはいいものの、つけるのに手間取って、彼女に手伝ってもらったことも思い出すな。恥ずかしすぎて死んでしまう。
そういう自分の諸々の失態を抜きにすれば、悪くはなかったと思う。だが、特に感動はなかった。彼女が明らかにやり慣れていたせいもあるかもしれない。
なんだ、こんなものか――そう思っただけだった。
舞いあがっていた気持ちはすぐに冷めた。彼女はべつに自分が好きなわけではなく、ただ気軽にそういうことをする関係――要するにセックスフレンドでいたいのだと、シュンは結論づけていた。実際、ただの一度もどこかに遊びに行ったことはない。食事をして、そのあとでホテルに行って性交渉をする。それだけの関係だ。
つき合いたいと思ったことはなかった。つき合うと言ったって、自分には先がない。お金だってたいして持っていない。それを埋めるほどの熱意も真剣さも持ち合わせていない。そんな自分のような人間には、それがお似合いなのだ。
お互いに都合よく利用し合っているだけなら、傷つくことはないのだから。
それよりも、新しいゲームを作らなければ。
いつものように夕飯を作って食べたあと、シュンはソファに寝転びながらそう思ったが、なかなか机の前に坐る気になれなかった。
企画書を出す期日は、こうしているあいだにも迫ってきている。
しかしそう思っているだけで、肝心の作業の進捗状況ははかばかしくなかった。向こうから持って帰ってきた手書きのメモを見返しても、自分のアイディアがまるで価値のない、馬鹿馬鹿しいもののように感じられてしまう。
自分が一生懸命考えたものを笑われるのは嫌だし、馬鹿にされるのは耐えられない。
(そんなんじゃだめだよな……)
発表した以上、批判に晒されるのは当たり前だ。それに耐えられないなら、そもそも発表する資格はない。そういう厳しいことを言う人もいる。
でも、そんなに単純じゃない。そもそも自分は、だれかのために作りたいと思ったわけではない。自分が遊びたいと思えるゲームがないから作りたいのだ。
メグはそんな自分の意思を尊重して、こちらに返してくれたのに。
(いや、まあ、拉致は犯罪行為なんだけどさ……)
そう思いながら、シュンはソファから身を起こし、机の上に置いてあるペン立てにちらりと視線を向けたが、いくら待ってもボールペンは手元に飛んでこなかった。
シュンはため息をつき、立ちあがってペン立てからボールペンを引き抜いた。
ペンを持った手と反対の手をきゅっと握って、また開く。
(……もう二度と使えないんだよな)
メグやジーンと違って、シュンは向こうのものを食べて、向こうの空気を吸っていないと力は使えないらしい。どういう原理なのか訊ねても、メグはそういうものだとしか答えてくれなかった。むしろ、なぜそんなことを気にするのかと不思議そうにされた。
(理由がわからなくても、使えるものは使えるんだから、大切に使えばそれでいいと思うけど?)
メグの答えを思い出して、シュンは思わず微笑した。
こちらの人間は、そんなふうには考えない。どんなことにも理由があるし、説明できる。そう考えている。いや、というよりも、どんなことにも理由がなければならないし、説明できなければならないのだ。
人に魔法は使えない。どんなことにも原因があり、不思議なことなど存在しない。すべては科学で説明できる。そういうことになっている。
そういえば、いつからだろう。
なにかをやるにも、いちいち理由が必要だと思うようになったのは。自分がやりたいと思ったからやる。それで十分なはずなのに。
(やりたくても、やらなくていいようにしているの)
そう、いつだって自分は逃げているだけだ。そして、そんな自分を正当化するための言い訳ばかり考えている。
せっかく思いついたのだ。とりあえず書いてみよう。
シュンは頭の中を整理するために、レポート用紙にペンを走らせた。
「よし」
あとはこれを元にパソコンで打って、レイアウトを整えればいい。
今度はなにを言われても絶対引き下がらない。なんとか食い下がって実現してみせる。シュンはそう決意した。
しかし、現実は甘くなかった。
「だめだな」
ひと通り流し読みしたあとで、広瀬はにべもなくシュンに言い放った。
「選択肢が多すぎる。難しすぎてみんな途中で投げ出す」
相談するんじゃなかったと、シュンは後悔した。
「多いからいいんです。プレイヤーはもっと悩んで考えないと。迷って悩んで、考えた末にうまくいくから楽しいと思えるんです。現実だってそうでしょう?」
シュンはそう食い下がったが、広瀬は呆れた顔になった。
「あのな、みんな現実がうまくいかないからゲームをやってるんだよ。現実は自分の思い通りにできないから、せめてゲームの中だけではやりたい放題したいんだ。プレイヤーの都合のいいように進まなきゃだめなんだよ」
「それはプレイヤーに都合がいいんじゃなくて、俺たちにとって都合がいいだけでしょ。……儲けられればそれでいいんだ」
シュンの反論に、広瀬が首を振る。
「儲からない商品に価値はない。おまえは相手に自分の価値観を押しつけてるだけだ。価値観なんて人それぞれなんだよ。どう思うかは相手が決めるんだ」
「だからって、万人受けする商品を目指したって、つまらないものができあがるだけでしょ。だったら俺たちで新しい価値を創造しないと……」
広瀬が冷めた目でシュンを見る。
「おまえはまだ若いからわからないかもしれないけどな、ゲームに他人に影響を与える力なんかないんだよ。ゲームだけじゃない。あらゆる娯楽はただの暇潰しのためにあるんだ。ある程度消費して、飽きたら次にいく。その繰り返しでしかない。価値なんて御大層なものはいらない。俺たちはただクライアントの要望通りに作っていればそれでいいんだよ」
そう言って広瀬はまたシュンの企画書に視線を移し、眉間に皺を寄せた。
「それよりおまえ、誤字脱字が多いぞ。ちゃんと自分で見直したのか? クライアントはそういうところを見てるんだから、もっと相手の気持ちに立ってだな」
シュンは企画書を広瀬の手から引ったくるようにして取り返した。
恥ずかしさで体温が上がる。
「……見ましたよ、三回も。俺はそういう細かいことが苦手なんです」
シュンは自分の席にとぼとぼと帰りながら、無意識に手のひらを握りしめた。
(それはわかってるけどさ……)
彼の言っていることは正論だ。認めるのは癪だが、誤字脱字の部分も含めて。
これが仕事である以上、利益が出ることを最優先に考えなければならないことはわかっている。シュンだって、彼と同じ立場にいれば同じことを部下に言ったかもしれない。
確実に利益があがると保証できなければ、だれも動かない。どこの業界に行こうがそれはきっと変わらない。それがこの国のやり方なのだ。
だが、そんなふうに確約できることがこの世界でどれだけあるというのだろう。明日自分が生きている保証だってないのに。電車事故で死ぬかもしれないし、通り魔に刺されるかもしれない。誤発進した車が店に突っこんできて、轢かれるかもしれない。急に病気になるかもしれない。可能性はゼロではない。
それに。
価値観なんて人それぞれなんだよ。
(そういうあんただって、価値観なんて人それぞれっていう価値観を、俺に押しつけてるじゃないか)
そういうことを簡単に言ってしまえる人間が、物事の価値について思い悩んだことがあるとは思えない。
価値観がみんな同じではないことはわかっている。
でも、本当にそうなのか?
(変わらないものなんて、どこにもないのかな?)
変わらないもの。それが自分にとって、価値あるものなのだろうか。
どんなときでも揺らがない、普遍の価値。共通の約束事。
たとえ住む世界も文化も言葉も違っても、心通い合わせることができるなにか。
それはいったいどこにあるのだろう?
無理やり奪い返したせいで、皺になっている企画書を見つめながら、シュンはぼんやりそう思った。
