第51話 図書室で

 なにかが変だ。
 なにが変なのかわからないが、変だということだけはわかっていた。
 リートは昔から気になることがあると、突き詰めないと気が済まない性格だった。食事しているときも入浴しているときも、朝から晩までそのことを考えてしまう。
「おはよう、リート」
「……おはよう、ルイス」
 いつも通り、時間きっかりにやってきたルイスに、リートはソファに寝転んだままぼんやりした頭で挨拶を返した。
「まだ考えているのか?」
「……うん」
「少しは身体を動かさないと体力が落ちるぞ」
「……うん」
「リート、わたしの話を聞いているのか?」
「聞いてない」
 ルイスの問いかけにリートは生返事した。
 いつの間にか、頭の中に発達した積乱雲が渦巻いていて、その中心に迫ることができずにいる。そんな気分だった。
「なにをそんなに考えているんだ?」
「それがわからないから考えてるんだよ」
 いったい自分はなにに悩んでいるんだろう。
 ルイスの言うとおり、部屋にもってばかりいないで、気晴らしにユーリエのところにでも遊びに行こうか。
 そう考えていたとき、不意にリートの中で絡まっていた糸が解けるようにすっと答えが出てきた。
「そうだ、エヴェリーン」
 リートはがばっとソファから起き上がった。突然のことにルイスが驚いた顔になる。
「エヴェリーンの印象が、メルヒオルから聞いていた話と違う。劇の中のエヴェリーンは、リヒトへの信仰心が厚くて、意志の強い人だよね。でも、メルヒオルの話を聞いたときに僕が想像したのは、もっとこう、悲劇の女性って感じで、か弱くてはかない人だと思ったんだ」
 リートがそう言うと、話を聞いていたルイスが真剣な表情になった。
「調べてみよう」
 数分後、二人は図書室にいた。
「ユストゥスとエヴェリーンの戯曲が作られたのは、エヴェリーンが亡くなって一年後のことだ。歌劇になったのは、当時の国王であるアウグストが崩御してからだな。先代の王であるゴットフリートが、降臨祭こうりんさいの出し物として作曲家に命じて作らせたようだ。当初は一度きりの予定だったようだが、好評を博したので毎年続き、それが今日では伝統になったということのようだ」
 ルイスが本を数冊広げたあとで、リートにそう説明してくれた。
「だが、歌劇で演じられるようになってからは、ずいぶん話の内容が変わったようだ」
「エヴェリーンのことはどう?」
「事典には生年月日や死亡年くらいしか載っていない。一通り見ただけだが、事典に載っている本にも、エヴェリーンの性格について詳しく言及している箇所はないな」
 実在するエヴェリーンについて調べるのは、諦めるしかないようだとリートは思った。
 ならば、創作の中のエヴェリーンについて調べるしかない。
「元になった戯曲と歌劇の台本を全部読んで比べたら、なにかわかるかも」
「しかし、戯曲はいいとして、台本は一年に一冊だから九十七冊あるぞ」
「う……」
 考えただけでリートは気が遠くなりそうだった。
 だが、どうしてもやらなければならない気がした。
「気長にやるよ。これで時間も潰せるし」
 幸い自分には時間だけは山ほどある。語学の勉強にもなるし、一石二鳥だ。
 本を片づけながら、ルイスが図書室を懐かしそうに見渡した。
「こうしていると、大学にいた頃を思い出すな。論文を書くために大学の図書館に通い詰めて、研究主題に関係ありそうな本を片っ端から読んだ」
「どんな主題?」
「リヒトの起源について研究したんだ」
「それでリヒトのことについて詳しかったんだね」
 リートは彼が大聖堂で説明してくれたことを思い出した。
 それからルイスは、図書館の使い方についてリートに教えてくれた。
 本の分類は主題で決め、分類番号によって管理されていることや、背表紙につけられた記号の意味。一次史料と二次史料の違い。
 調べたい事項があるときは、参考図書と呼ばれる文献を当たること。そのときは最低二冊以上当たって、記述に大きな違いがないか確認すること。読んだ本を忘れないように奥付の内容をメモしておくこと。
 リートは一言も聞き漏らすまいと集中して聞いていた。こんなに集中したことは学校の授業でもなかった。
「図書室って本を読むだけにあるんじゃないんだね」
「もちろんそうだ。知らなかったのか?」
「先生はそんなこと教えてくれなかったし……図書室は休み時間はいつも鍵がかかってて開いてなかったんだ」
 ルイスが理解できないという表情になった。
「なぜそんなことをするんだ?」
「なるべく僕らには教室にいてほしいんだよ。なにか問題を起こされると面倒だから」
 リートはあんたんとした気持ちで言った。
「……そうやって、僕らのことを監視したいんだ」

 図書室から戻ったリートは、訪ねてきたエミリアにも自分の考えを話してみたが、彼女はリートの考え方が気に入らないようだった。
「それは偏見だわ、リート。女性がみんなか弱くて儚い存在だとは限らないでしょ?」
「いや、僕はべつにそういうつもりで言ったんじゃないんだけど」
 リートが苦笑しながら言うと、エミリアが不満げに口をとがらせた。
「じゃあなんなの?」
「例えば、女性は弱いから守ってあげなきゃいけないって言われたら、真偽はともかく、みんな納得しちゃうところがあるよねってこと。それが問題かは別としてね」
「わたしは反感を持つけどね」
 すかさずそう言われてしまい、リートはまた笑った。
 エミリアはいつだって率直だ。
「そうだね。僕だって男はみんな強いものだって言われたら困るし」
 リートは卓にほおづえをついた。
「……実際のエヴェリーンは、どんな女性で、どんな人間だったんだろうね」。

 それからリートは、ほぼ一日中戯曲のユストゥスとエヴェリーンを読んで過ごした。
 しかし、リートの語学能力では研究する以前に文章を読むので精一杯だった。
 なんといっても、辞書がないのが困りものだった。
 文法がわかっても、ルイスやエミリアにいちいち単語の意味を聞かなければ文章を訳せない。
 これではいつまでっても終わらない。
 やろうと思ったものの、リートは言い出したことを少し後悔していた。
 しかし、ユーリエがリヒトに願ったところで自分の語学能力は上がらないし、読み書きできるようになるわけではない。
 リヒトの力は万能ではない。自分で地道に努力してけんさんを積むしか方法はなかった。
 努力。それは、リートにとって最も苦手な部類に入ることだった。
 生まれてから今まで、努力しても報われたと思うことのほうが少なかった。それでも諦めずに積極的に努力することは、今のリートにはとても難しかった。
 しかも、ルイスは語学の教師としてはリートと相性が悪すぎた。
 リートはなぜ文法がそういう規則になっているのかいちいち知りたかったが、ルイスはそういう決まりになっているからの一点張りだった。
 リートはエミリアに勉強の愚痴をこぼしたが、残念ながら彼女は同情してくれなかった。
「リートはなんでも深く考えすぎよ。そういうのは割り切って覚えなきゃ前に進まないわ」
「それはそうなんだけど……」
 言いながらリートはうつむいた。
 それは向こうの世界でもよく両親に言われたことだった。この性格が災いして、リートは数学の公式も満足に覚えられなかった。
 昔から、ただ機械的に覚えるという行為が苦痛で仕方なかった。なぜなら、覚えること自体にまったく価値をみいせないからだ。
 原理がわからないなら、覚える意味も価値もない。だれに教えられたわけでもないが、なぜかリートはそう思っていた。
 しかし、学校で納得できる説明を聞けたことは一度もなかった。
 エミリアがちらりとルイスを見る。
「でも、確かにルイスは教えるのが下手だと思うわ。勉強で苦労したことが一度もないから。できない人の気持ちがわかってないのよ」
「首席卒業だもんね……それにすごい記憶力だし」
 リートはルイスが羨ましかった。彼くらいの記憶力があれば、きっといろいろなことを覚えておけるのに。しかし残念なことに自分の頭は、興味のあることしか覚えられない仕様になっているようだった。
 ルイスがなにを言っているんだとばかりに眉を上げる。
「勉強は闇雲に覚えたからと言ってできるようにはならないぞ、リート。大事なのは法則を覚えることだ」
「やっぱり最後は記憶力じゃない」
 エミリアが突っ込むと、ルイスが険しい視線を向けた。
「違う。覚えた法則を応用するのが大事なんだ。そのためには何度も問題を解いて訓練しなければ」
「理由がわからないのに、ただ規則や法則を覚えるなんてできないよ」
 リートが口を尖らせてそう言うと、ルイスが目を丸くした。それはまるで、別の惑星からやって来た未知の生物に出くわしたような反応だった。
「なら、君はいったいなにを守って生きているんだ?」
 今度はリートが目を丸くする番だった。
 なにかを守るだって? そんな発想はリートにはまったくなかった。
 習慣、教義、信条、規則、時間、秩序――ルイスはそれらをかたくなに守って生きている。なら自分は?
 リートはしばらく考え込んだが、なにも思い浮かんでこなかった。
「わからない……」
 自分はいったいなにを大切だと思っているんだろう。必死になって守らなければならないものなどあっただろうか。
 混乱しているリートの横で、エミリアが紅茶を飲みながら澄ました顔で言った。
「よかったわね、ルイス。ひとつ勉強になったじゃない」
「勉強だと?」
 怪訝な表情になったルイスに、ふふっとエミリアが笑みを返した。
「世の中はあなたみたいに、なにかを守ることに命を懸けてる人間ばかりじゃないってことよ」