次の日の朝、シュンは前に住んでいたアパートの前に来ていた。
(……なにやってんだろうな、俺は)
未練がましい。そう思ってもやめられなかった。
部屋にメグの持ち物はなにも残っていないし、シュンの携帯の中には、メグの写真が一枚も保存されていなかった。一枚くらい撮っておけばよかったと今更後悔してもどうにもならなかった。
昔からシュンは、今の自分や周りにいる人間を記録しておきたいと思ったことが一度もなかったし、なにかあるたびに写真を撮りたがるクラスメイトたちにも辟易していた。
それくらい、周りのことには興味も愛着も持てなかった。
あの頃も今も、自分はなにも変わっていない。
(……俺は馬鹿だ)
シュンはうつむけていた顔を上げ、空を仰ぎ見た。光が目に慣れず、何度もまばたきを繰り返す。
今日は昨日ともあの日とも違い、憎らしいくらいの快晴だった。
あの日――初めてメグに会った日、雨上がりの街を二人で一緒に歩いた。彼女が隣にいるだけで、なにもかもがいつもより輝いて見えた気がした。
あの頃の自分にとって彼女はまさに、あの映画のような、王宮を抜け出して街を歩く無邪気な王女そのものだった。
シュンは、あの映画のタイトルの意味をふと思い出した。
――他人の犠牲によって成り立つ楽しみ。
確かにメグは、いろいろなものを犠牲にして自分のところにやってきた。禁忌を犯し、婚約者と別れ、追ってくる人間を閉じ込めて。それは、許されないことだったのだろうか。だがメグはその代償を支払っていた。最後には力さえ使えなくなった。
なにも犠牲にしていないのは自分のほうだ。彼女と安易な気持ちで身体の関係を持つのは、道徳的によくないことだと思って、ずっと一線を越えるのをためらっていた。
だが本当は、彼女に求められることが怖くて仕方がなかったのだ。だれかに求められるよりも、ただ無条件に愛されたいと思っていたから。
そうやって、いつもないものばかり追い求めていた。
自分のことばかり考えていた――。
「ねえ、鯛焼き食べない?」
「いいよ」
その声にはっとしてシュンは立ち止まった。
自分の前を歩いていた若いカップルが屋台のほうへ歩いていく。
それは、あの時メグが指差した鯛焼き屋だった。自分たちが引っ越したあとも、あの鯛焼き屋の屋台は変わらずそこにあって、営業を続けていたらしい。
それがなんだか、シュンには奇跡のように思えた。
鯛焼きを一つだけ買って、シュンは公園のベンチに腰掛けた。
前のアパートに住んでいたときは、よくメグと二人で買いに来ていたが、引っ越してからは足が完全に遠のいてしまっていた。引っ越した先には、全国でも有名な鯛焼き屋が近くに店を構えていて、メグが食べたいと言ったときは、シュンはそこで買うようにしていた。
紙包みを見ながら、シュンは苦笑した。
(大袈裟だな、奇跡なんて……)
どうしてそんなことを考えたのだろう。
でも本当は、奇跡というのは、そういう身近にあるちっぽけなことなのかもしれないとシュンは思った。
あの日会社をサボらなければ、ごみを出す日でなければ、雨が降っていなければ、自分はきっとメグに声をかけなかった。
そういう偶然の連続で、自分はメグに出会った。
なのになぜ、もっと彼女を大事にしなかったのだろう。
またぶり返した胸の痛みから気を逸らそうと、シュンは包み紙を解いて、買った鯛焼きの頭をかじった。
(……久しぶりに食べたな)
量産型の、なんの変哲もない普通の鯛焼きだ。
今食べている値段が張る鯛焼きのほうがよほど美味しい。味の種類だっていろいろある。
でも、彼女と初めて一緒に食べたのはこの味だった。
本当は、甘いものはそこまで得意ではない。でも彼女と食べた鯛焼きは美味しかった。
(あれで、よかったのかな)
彼女の笑顔を見ていられたら。
彼女がいてくれたから、収入がなくてもなんとか耐えられた。
(あの頃が一番幸せだったな)
自分になんの期待もしていなかったあの頃。なにも持っていなかったが、その代わりになにも背負う必要はなかった。
会社員という身分を捨てることにまったく未練はなかった。自分を殺さずに生きられるなら、自分自身でいられるならそれが一番だと思ったから。
だから、彼女に囚われるのは怖かった。せっかく自由になったのに、また不自由になってしまうと思った。そのせいでいつも、肝心なことはなにも言えなかった。
自分がメグをどう思っているのか、知られてしまうことを恐れていた。
いつか、この世界は頭と尻尾にしか中身が入っていない鯛焼きみたいだと言ったけれど、自分はそれ以下だった。
(俺は、からっぽな人間だったんだ)
……いや、違う。
シュンは手の中の鯛焼きを潰さないようにそっと握りしめた。
そうだ。この数か月、ずっと彼女と一緒に過ごしてきた。
彼女のために料理を作って、食事をして、他愛ない話をして、映画を見て、どこかに出かけて、家具や服を買って――そんな日常を繰り返してきた。
至らないことばかりだったし、失敗してばかりだった。ためらってばかりで、ほとんどなにもできなかった。後戻りできなくなることが怖くて、なにも大事なことは打ち明けられなかった。
自分の過去も、そのときの気持ちも、彼女のことをどう思っているのかも。
そして、自分が本当はなにを望んでいるのかということも。
もっと、いくらでもやり方はあったはずだ。
(でも、俺は俺なりに、彼女を大事にしようとしてきた)
そう思った途端、シュンの目から涙があふれた。
そのまま幾筋も頬を伝って流れ落ちていく。こんなふうに泣いたことは一度もなかった。今まではずっと自分のために泣いていた。
自分にだれかを想って泣ける心があるなんて知らなかった。
こんなに泣いてしまうほど、だれかを強く想うことができるなんて、知らなかった。
信じたいと思った。たとえなんの根拠がなくても、なにも持っていなくても、からっぽでも、愛された記憶がなくても。
今この瞬間から、自分には愛することができると。
そう、信じてみよう。
(君がいたから、俺はここまでできたんだよ、メグ)
シュンはそう心の中で呼びかけた。
(君がいれば、俺はたぶんなんだってできるんだ)
本当に、なんだって。
(君が俺を信じていてくれたから)
こうやって彼女のことを想っているだけで、心が温かくなるのを感じる。
なにもかもが満たされていく。
なにも失ってなんかいない。失ったと、思い込んでいただけだ。
(君が俺の人生を、心を豊かにしてくれたんだ)
それだけでもわかってよかったとシュンは思った。
たとえ記憶が消えてしまっても、もう二度と会えなくても。
でも、本当にそれでいいのだろうか。自分がすべてを忘れてしまっても、彼女は記憶を消さないつもりなのに。それは公平ではない。
だが今更彼女のためになにができる?
自分は彼女が一番欲しいものをあげなかった。傷つけてばかりだった。
(俺のことなんて、忘れたほうがいいのに)
帰って仕事の続きをしなければ。
苦しくてもつらくても、自分はその人生を選んだのだから。
鯛焼きを食べ終え、シュンはベンチから立ちあがった。
ふとシュンは、あの時メグが差しだした丸い形の鯛焼きを思い出して、また胸が痛くなった。
学生時代を思い出して憂鬱な気持ちになっていた自分に、メグはあれを出して笑わせてくれた。あれでは鯛焼きではなく、大判焼きだったが。
(……そういえば、大判ってどういう意味なんだろ。形は真円なのに)
シュンはまたベンチに坐り、携帯を取り出して検索してみた。
信頼できそうな記事が見つかって、シュンは文章に目を通した。
方言学の教授なら信用しても大丈夫だろう。
(ふーん、これは小説の名前が由来なのか……)
文章を読みながら、シュンは親指でページをスクロールさせた。
(いろいろ呼び方があるんだな)
今川焼、おやき、二重焼、太鼓焼き、ばんそうこう、かたつむり。
確か母は、あれを回転焼きと呼んでいた。
(回転……)
その言葉が頭に浮かんだとき、なぜかシュンは、ひどく心がざわめくのを感じた。
シュンは携帯電話をベンチに置き、右手でアルファベットのCを逆にした形を作った。宙に翳し、そこから空を見上げる。
真円。
それは無限、永遠、輪廻。
メグの言葉が、表情が、映画の回想シーンよりもはるかに速い速度でシュンの脳裏を駆け巡る。
(怒られるのは久しぶりだったから)
(何度でもあなたを好きになれる)
(最初に会ったときから、今までずっと)
(もう二度とあなたには会わない)
「めぐり……!」
シュンは思わず立ちあがっていた。
だめだ。やはり彼女に会わなくては。会って確かめなければ。
自分はついに現実と妄想の区別がつかなくなったのかもしれない。
だがその境界線はいったいどこにある? そして初めて会ったときにも思ったが、彼女は自分以上に非常識だ。可能性は大いにある。
シュンは向こうの世界に転移しようとしたが、それが叶わないことに気づいて歯噛みした。向こうなら簡単に飛べるのに。
シュンは瞼を閉じて必死に念じた。
(頼む。一度だけでいい)
しかしなにも起きない。シュンは唇を噛みしめた。
やはりだめなのか。向こうの人間の血を半分引いていても、子供だったときに選ばれていても。もともと向こうに行く資格があっても、自分はやはりこちら側の人間なのだ。
奇跡なんてものは起きない。
シュンは坐り込み、両手を地面につけて叫んだ。
「めぐり!」
会いたい。
会って話がしたい。
なにもかも彼女に背負わせたまま離れたくない。
今まで彼女がしてきたことよりも、彼女の気持ちに応えなかった自分のほうが、はるかに罪深いに決まってるんだから。
シュンはうなだれて瞼を閉じた。
