第77話 二度目の招待

「そろそろ戻りましょう」
 ヴェルナーに促され、リートはうなずいた。
 二人は無言で元来た道を歩いた。
 しかし、二人の行く手を阻むように、出口のところに黒いほう姿すがたの男が立っていた。
 ヴェルナーが警戒した顔で、リートを庇うように前に立った。
「だれだ、おまえは」
 男がいんぎんに頭を下げる。
「これをあなたの主人にお渡しせよと、アルベリヒ様に申しつかっております」
 リートは驚いて男を見た。
「僕に?」
 ここにいることがアルベリヒに知られていることには、リートは今更驚かなかった。
 自分は街に出たあの時から、ずっと彼らに監視されていたのだろう。
 ヴェルナーが慎重に手を伸ばし、黒い封筒を受け取った。
 一礼すると、男はさっさと行ってしまった。
 ヴェルナーが封筒を持ち上げて光にかざし、中を透視する。
「仕掛けはないようですが、中を改めてもかまいませんか?」
 リートはうなずいた。読み進めるたびに、ヴェルナーの顔はだんだんと険しくなった。
「招待状のようですね。ルイス様とミヒャエル様も一緒に――」
 そう言いながら、ヴェルナーの顔が嫌悪に歪む。
 リートも同じ気持ちだった。
 アルベリヒのやり方は悪趣味すぎる。
「……行くよ。でも行くのは僕だけだ」
 リートはそう言った。
 ルーツィアが死んだ明らかな原因がひとつある。
 ベギールデだ。
 正常に物事が判断できない状態のルーツィアを脅迫して追い詰めた。
 それだけははっきりしている。
「ですが、ハーナルにもメルヒオル様にも知らせないと……」
「いや、みんなには知らせないで」
 リートが即座にそう言うと、ヴェルナーが当惑した表情になった。
「しかし、いいんですかね、勝手に」
「いいんだ」
 リートは片手を握り締め、自分に言い聞かせるようにそう言った。
 だれかに言えば、絶対行かせてもらえないに決まっているのだから。
「ごめんね、ヴェルナー。帰ったら僕の命令に従っただけだって、みんなにはちゃんと説明するから」
 罰を受けるのは自分だけでいい。リートはそう思った。
 ヴェルナーは黙ってリートの言葉を聞いていたが、不意にリートをじっと見つめた。
 相変わらず、彼の顔つきは年齢がはっきりしないとリートは思った。
「……誤解なさらないでくださいよ」
 真剣な顔でヴェルナーはそう言ったあと、一転して口元を上げてみせた。
「一応確認しただけです。自分はこういうのが大好きですから。行きましょう」
 リートはヴェルナーに微笑んだ。
「……ありがとう」
 後任にヴェルナーを選んだ自分は間違っていなかったとリートは思った。
 性格はまったく違うが、たとえ危険だとしても、自分の気持ちを優先させてしまうところが自分とヴェルナーはよく似ている。
 だが、そんなリートの性質に気づかせてくれたのはルイスだった。
 彼はそれが人のためになると思えば、自分も他人も顧みず、平気で規則を破った。
 最初はそんなことは馬鹿げていると思った。
 だが本当は自分も、あんなふうに自分の意思を貫き通したいと思っていたのだ。
 たとえ規則を無視し、秩序を乱すことがあっても、周りに迷惑をかけることになっても、知りたいことのためなら、きっと自分は手段を選ばない。
 ずっと、そうすることは許されないことなのだとリートは思っていた。
 長いあいだ、そうやって自分で自分を閉じ込めてきた。
 だが、欲求を押し殺しても良いことなんてひとつもなかった。
 これからも自分は、自分が選んだ結果に打ちのめされ続けるのかもしれない。
 だが、その選択を後悔したことはない。
 いつだって後悔するのは、なんの覚悟もなく自分から逃げたときだ。
 どうせ死ぬまで自分から逃れられないなら、そんな自分と覚悟を決めてつき合っていくしかない。
 そうだ。リートは今更ながらに気づいた。
 孤独になることは怖かった。
 だがそれよりもきっと自分は、自分でいることが怖かったのだ。

 アルベリヒの邸宅に着くと、リートは召し使いに部屋に通された部屋でアルベリヒが来るのをソファに坐って待った。
 傍らにヴェルナーの姿はない。招待状を召し使いに見せると、招待されていないという理由で、ヴェルナーが中に入ることは拒まれたのだ。
 大丈夫だと、リートは自分に言い聞かせた。
 たとえヴェルナーがそばにいなくても、だれも自分を守ってくれなくても。
 自分は戦いにきたわけではなく、話をしにきたのだから。
「まさか、あなた一人で来るとは思いませんでしたよ」
 声が聞こえた瞬間、リートはうつむけていた顔をゆっくりと上げた。
 いつものように黒ずくめの格好をしたアルベリヒが現れ、ゆったりとした動作でソファに坐った。
 あの時と同じ、すべてを見通すかのような、超然とした笑みをリートに向ける。
 リートは挑戦的にその瞳を見返した。
「ルイスとミヒャエルをあなたに会わせるわけにはいかないからね」
「それであなたが代わりに?」
「いろいろ言いたいことがあったから」
 これがいわゆる殴り込みというやつなのかもしれないとリートは思った。
 リートは暴力は嫌いだった。
 この男は、物理的にも心理的にも他人を陥れるために暴力を用い、追い詰めた。
 そんな彼に立ち向かうために、自分は身ひとつでここに来た。
「残念ですね。あなたはもっと賢いと思っていたのに」
「利口ぶっているのを賢さと呼ぶなら、僕はそんな賢さはいらない。正しいことを言うだけじゃ、だれも助けられないから」
 なにが正しくて間違っているのか。それを考えるのは大事なことだ。
 だが、リートの中でこれはもはやそういう問題ではなかった。
 間違うことが怖くて、いつも無難な答えばかり選んできた。
 だがそれは結局、なにも選んでいないのと同じことだった。
 自分が傷つくことを恐れていては、なにも変えられない。たとえ傷ついたとしても、リートは自分の意思に従い続けたかった。
 大事なのは、なにが正しいか間違っているかではない。
 自分がどう思っているかだ。
「助けるという考え方自体が傲慢だとは思わないのですか。人に人は救えない。彼らを見ていればわかるでしょう」
「そうかもしれない。でも、できることはあるはずだ」
 リートはまっすぐにアルベリヒを見つめた。
「わたしがあなたを殺すとは思わなかったのですか」
「僕たちを殺すのが目的なら、大聖堂を爆破したときにまとめて殺せたはずだ。あなたの目的は別にある」
 こちらからなにも仕掛けないかぎり、殺されることはないだろうとリートは確信していた。自分を殺すことが目的ならば、最初からこんな回りくどい真似をする必要は一切なかった。
「あなたの標的は最初から僕じゃなくて、ルイスとミヒャエルだった。それをハーナルとメルヒオルに悟られないように、あなたは天啓者である僕を狙っているふりをした」
「ハーナルの騎士よりあなたのほうが優秀なようだ。それで、わたしの目的はわかりましたか?」
 リートは、微笑むアルベリヒから視線をらした。
「残念ながら僕にはわからない。身近に接していた人が急に死んだせいで、僕はこの事件について冷静に考えられなくなってる。あなたのもく通りだ。でも、そのおかげでわかったこともあるよ」
 リートはアルベリヒをまっすぐに見据えた。
「あなたは、なにか大切なものをなくしたの?」
 リートがそう言うと、アルベリヒの口元からすっと笑みが消えた。
「わかったんだ。ベギールデに入信する資格がなにか。みんな大切なものを失ってるんだ。ルーツィアは父親、ルイスは両親。ミヒャエルはルーツィア」
 アルベリヒがまた笑みを取り戻し、口を開く。
「間違ってはいませんが、それで正解とするには不十分な回答ですね。それに、わたし個人の答えはいいえです。筋は悪くないが――あなたはまだなにも知らなすぎる。あなたは彼らに守られているのがお似合いだ」
 全問正解とはいかなくても、リートはもうそんな自分に必要以上に落胆しなかった。
 失敗するのも間違うのも仕方のないことだ。
 自分はまだ経験が浅いのだから。
 まだ自分になりはじめたところなのだから。
 一番良くないのは、間違うことを避けてなにもしないことだ。
 アルベリヒが微笑み、うたうように言う。
「彼らはあなたの思うような人間ではなかったでしょう。あなたはそのことに失望したはずだ」
 リートは下を向いた。膝の上で拳をぎゅっと握る。
「……そうだね。でもそれって、とても勝手なことだよね。勝手に崇拝して、期待外れだったら失望して離れる、なんてさ」
 リートはすべてを見てきた。ルイスとミヒャエルが傷ついているところも、悲しんでいるところも。なのに、そんな身勝手なことができるはずもなかった。
 彼らは自分に都合のいい道具ではない。生きている人間なのだから。
 リートは自嘲ぎみに笑った。
「僕は、あなたからしてみれば馬鹿みたいなんだろうね。ここに来てから失敗ばかりしてるし、相変わらず人のことは苦手だし。でも、戻らないよ。戻るつもりもない」
 戻ることは不可能だ。なにも知らなかったあの頃には、もう戻れない。
「それにね、僕は彼らのようになりたかったんじゃない。自分の思うとおりにやってみたかったんだ。僕が僕の意思でそうしたかった。でも二人がいてくれたから、僕はそのことに気づけた。それは嘘でも思い込みでもなんでもない。まぎれもない事実だよ」
 リートはそう言い切って、アルベリヒを見つめた。
「目に見えないものを見るにはどうすればいいかって、あなたは言ったね」
 これが正解なのかはわからない。だとしても、リートは答えることをもう恐れたくなかった。
 間違っていたなら、また別の答えを探せばいい。
 何度間違っても、自分は考えることをやめないだろう。
 問い続ける道を選ぶだろう。
「見えないんじゃない。本当はいつだって見えているんだ。ただ見方を知らないだけで。……これが僕の答え」
 それきり、部屋は静寂に包まれた。
 アルベリヒはしばらく黙っていたが、突然ソファから立ち上がった。その横顔には、超然とした笑みはもうなかった。
 視線の定まらないアルベリヒの瞳は、どこかうつろだった。
「見えているだけではどうにもならない。を受け止められる人間はほとんどいない。だれもが直視することを避ける。見えないふりをする。だから人はいつも大切なことを見落としてしまう。人は皆愚かで、救いようがない」
 焦点の合わない瞳が、リートをじっと見つめた。
「あなたはきっと後悔する。ここでわたしに捕まって、殺されていたほうが楽だったと」