リートは目を開けた。
そこは会議室のような場所だった。
ハインリヒが着ていたような、黒い宮廷服を着た男たちが等間隔に席に坐っている。
これはエヴェリーンの記憶だ。自分の姿はだれにも見えていないのだろうとリートは思った。閣僚の一人が立ち上がり、玉座に向かって必死に訴えている。
「陛下。これ以上隠し続けるのは無理です。このままでは宮殿が壊れかねません。なんとかしなければ、じきに噂が広まります」
「わたしにお任せください」
凛として、透き通った声だった。
閣僚たちが一斉に、割り込んできたその声の主を振り返る。
会議室に現れたのはエヴェリーンだった。
銀色の長い髪に、透き通った緑の瞳。
まだ二十歳にも満たない少女のはずなのに、エヴェリーンの顔にはまるで幼さが感じられない。それどころか、彼女はその場にいるだれよりも落ち着き払っているように見えた。
超然とした雰囲気を身に纏い、エヴェリーンが遅くも早くもない速度で音を立てずに歩を進めると、ざわめきで満ちていた部屋は、いつの間にか水を打ったように静まり返った。
エヴェリーンは玉座の前で歩みを止めると、アウグストを見上げ、口を開いた。
「今までに犠牲になった人間たちの遺族に、真実を隠して報告する者の気持ちをお考えください。これ以上まだ死人を出すおつもりなのですか?」
しかし、アウグストはエヴェリーンの訴えに心動かされた様子もなく、無感情にエヴェリーンを玉座から見下ろしていた。
アウグストの容姿は端正で、王族らしい気品と威厳に満ちていたが、彼の表情からなんらかの感情を読み取ることはほとんど不可能だった。
「そなたにはなにか策があるのか?」
低く、朗々としたアウグストの声が部屋に響く。
「策などありません。ただ話をするだけです」
エヴェリーンが答えると、一斉にその場がざわめいた。
話をするだと? 馬鹿げたことを。閣僚たちがそう囁き交わす。
エヴェリーンはその場が静まるのを待ってから、また口を開いた。
「失敗したとしても、わたし一人が犠牲になるだけですみます」
アウグストは黙ってエヴェリーンを見つめていたが、ふっと視線を逸らした。
「ならん。そなたはこの国のヴォルヴァだ。そなたが死んだら――」
「リヒトがまた代わりを選ぶ。それだけのことです」
エヴェリーンはあとを引き取って淡々と言った。
しかし、アウグストはうなずかなかった。
感情の読めない瞳がエヴェリーンをじっと見つめる。
「そなたほどの力を持つヴォルヴァは稀にしかおらぬ」
「だからわたしがやるのです。ご安心ください、陛下。必ず成功させてみせます」
アウグストはしばらくのあいだ思案しているようだったが、観念したようにうなずいた。
「わかった。そなたに任せよう」
「陛下!」
閣僚たちが声をあげたが、アウグストは片手を上げてそれを制止した。
「必要なものがあれば申せ。用意させる」
「ありがとうございます」
エヴェリーンは頭を下げ、まだざわめきが収まらない部屋から退出しようとした。
「……もしものときは、あれを殺せ」
玉座から降ってきた声に、エヴェリーンは歩みを止めた。
アウグストの声は冷静そのものだった。
「あれを失うことになってもかまわないが、そなたは失えない」
「……聞かなかったことに致します」
それだけ言うと、エヴェリーンはひそひそと囁き合う閣僚たちをその場に残し、部屋を出た。リートもそれに続いたが、その時唐突に声が聞こえてきて、思わず両手で耳を抑えた。
「……小娘ごときがでしゃばりおって」
男の声が、拡声器で話しているように辺りに反響する。
「しかし、この問題は到底我々の手には負えません。彼女の力に縋るしか――」
「それではまたエヴェリーンの影響力が増してしまうではないか。ただでさえ陛下は我々よりエヴェリーンを信頼しているというのに……」
どうやら閣僚たちが会議室に残って話をしているらしい。
これはエヴェリーンの記憶だ。
きっと、彼らの声はエヴェリーンには筒抜けなのだろう。
「いっそあれともども消えてくれたら……」
別の男が嘲るように言う。
「陛下にはそういう趣味がおありだということではないか? あれを産んだヴォルヴァもまだ十四かそこらだった……」
「しっ、滅多なことを言うな。その話は――」
そこでふっと声がやんだ。
エヴェリーンのもとに、一人の若い女性が駆け寄ってくる。
彼女もエヴェリーンと同じような白い装束を身につけていた。きっと聖殿の関係者だろうとリートは思った。
「いかがでしたか」
女性が心配そうな表情で訊ねると、エヴェリーンは安心させるように女性に微笑んだ。
「あなたが心配するようなことはなにもないわ、テレーゼ」
「させてください。それくらいしかできることがないのですから」
「……ありがとう。でも大丈夫」
ここで場面が変わった。
どうやら地下のようだ。エヴェリーンの周りを騎士たちが物々しく固めている。
そばには心配そうに見つめるテレーゼの姿もあった。
「わたしが出てくるまでは、ここで待っていて」
「せめて護衛の者を」
騎士が食い下がったが、エヴェリーンは首を振った。
「いいえ、駄目よ。一人でなければならないの。彼は独りでいるのだから」
エヴェリーンはそう言うと、ゆっくりと扉の取っ手に手をかけた。
軋んだ音とともに扉が開く。
とても暗い部屋だ。窓は板で隙間なく塞がれ、寝台以外には調度品の類はなにも置かれていない。
部屋の隅にぽつんとある寝台に、一人の子どもが膝を抱えて坐っていた。
黒い髪は伸び放題で、性別の判断がつかない。着ている服は汚れてこそいなかったが、何年も着ているのか、黄ばんでくたびれていた。
子どもは怯えた目つきでエヴェリーンを見た。
「……だれ?」
その声は、変声期を迎えたばかりの少年のものだった。
「わたしはエヴェリーン。ヴォルヴァと呼ばれる者。あなたに会いにきたの」
エヴェリーンはその場に屈み込み、少年と目線を合わせた。少年の真っ黒な目がエヴェリーンを忙しなく観察する。
「ここにいたい?」
少年は首を振った。
「いたくない」
「なら行きましょう」
「どこに?」
「こことは違う世界。見せてあげる」
エヴェリーンはそう言って、少年に手を差し出した。
しかし、少年はエヴェリーンに触れるのを躊躇した。
「大丈夫よ」
エヴェリーンが微笑む。
「わたしはあなたと同じ力を持っている。わたしがあなたを暴走させない。もうだれも傷つけさせない。もう独りにはしない。だから」
そう言いながら、エヴェリーンは少年の手に触れた。
「……ほらね」
驚く少年に、エヴェリーンがまた微笑んだ。
「怖がってもいい。戸惑ってもいい。でも、その気持ちから逃げないで」
エヴェリーンが問いかける。
「あなたの名前は?」
「名前?」
訝しげに少年が聞き返す。そんなものは初めて聞いたという口調だった。
「この世界のすべてのものには名前があるの。名づけることで、人は初めてなにかと関わることができる。名前がないなら、わたしがつけるわ。今日からあなたはエルフリードよ」
エヴェリーンはそう言って少年を見つめた。
「よろしくね、エルフリード」
また場面が変わった。
「……俺に触るな」
身体の至る所に包帯を巻いた青年が、エヴェリーンを睨みつけていた。
金茶の髪に琥珀色の瞳。ユストゥスだ。
エヴェリーンがきっぱりと首を振る。
「それはできない。あなたは怪我をしていたんだから。傷ついた人を見捨てることは、リヒトの教えに反する」
「ああそうかよ」
ユストゥスは投げやりな口調でそう言い放つと、立ち上がった。
「どこに行くの?」
「どこだっていいだろう」
「そういうわけにはいかないわ。傷は治したけれど、安静にしていないと」
「治しただと?」
ユストゥスは、訝しげな表情で腕に巻かれた包帯を取った。その肌には傷ひとつついていなかった。
ユストゥスが当惑した顔でエヴェリーンを見つめる。
「おまえ、いったいなにを」
「エヴェリーン様!」
部屋に入ってきたテレーゼが声をあげる。
「ヴォルヴァともあろう方が、こんなところに男性を連れ込むなんて」
「手当てをしていただけよ」
「そうかもしれませんが、周りに知られたら」
「たとえ知られても、わたしに疚しいところはないわ」
エヴェリーンが淡々と言ったが、テレーゼは咎めるような視線を向けた。
「あなたとお近づきになりたい方は数多くいるのです。もう少しご自分の立場をお考えになってください」
それでもエヴェリーンはまったく表情を変えなかった。
「わたしの立場を決めるのはリヒトよ。他人に決める権利はない。わたし自身にも」
「……これがヴォルヴァの力か。聞いてはいたが」
そう言った青年を、エヴェリーンがじっと見た。
「あなたの名前は?」
やや間があってからユストゥスは答えた。
「……ユストゥス。ソリン騎士団のユストゥスだ」
ユストゥスが鋭い視線をエヴェリーンに向ける。
「なぜ俺を助けた」
「変なことを訊くのね。倒れている人を助けることに、どうして理由がいるの?」
ユストゥスが黙ってしまったので、エヴェリーンはまた口を開いた。
「ならわたしも訊くわ。どうしてあんな場所で倒れていたの?」
「……同僚にやられた。俺の態度が生意気だから、それが気に障ったらしい。あいつらはいつも暴力で言うことを聞かせようとする。無能だから」
「なぜ人の言うことを聞かないの?」
エヴェリーンがそう問いかけると、ユストゥスは苛立たしげな表情で髪を掻き回した。
「俺が聞かないんじゃない。あいつらが俺の話を聞かないんだ。なのに従う謂れなんかない。どいつもこいつもくだらない。話したところでわかり合えない。俺はどこにいても嫌われるんだ」
「どうしてだれかとわかり合う必要があるの?」
「それは」
ユストゥスは言葉に詰まり、うつむいた。
「もう放っておいてくれ」
エヴェリーンが不思議そうに首を傾げた。
「どうしてそうやって自分を傷つけるの?」
「傷つけてなんかいない」
「いいえ。あなたの心は傷だらけだわ。そうやって動けているのが不思議なくらい」
そう言ってエヴェリーンは、ユストゥスの包帯を巻いた手に自分の手を伸ばしたが、ユストゥスはさっと身を引いた。
「それも力か?」
「力を使わなくてもわかるわ」
「……俺には心なんてない」
「いいえ。心のない人なんてどこにもいない」
「生憎、そういう奴もいるんだよ。君みたいにだれからも傅かれる人間にはわからないだろうが」
ユストゥスはいらいらした口調でそう言ったが、エヴェリーンが態度を変えないのできまりが悪そうにうつむいた。
「……なぜ非難しないんだ」
「どうして? 非難すればなにかが変わるの?」
「俺に訊くなよ」
質問に質問で返され、ユストゥスは若干うんざりした顔になった。
「なぜ君は俺に優しくするんだ」
「あなたこそ、どうしてわたしにそんなことを訊くの?」
「それは」
言葉に詰まったユストゥスに、エヴェリーンが微かに微笑んだ。
「人に優しくするのに理由なんて必要ないでしょう? 怪我している人を介抱するのに理由がいる? ……それと同じよ」
