第100話 ユストゥスとエヴェリーン

「結局、君の言うとおりになったね。まさかベギールデがほかの近衛騎士まで取り込んでいたとは思わなかったが」
 執務室の椅子に腰掛けたマティアスはそう言ってから、傍らに立っている白いほう姿すがたのメルヒオルに視線を向けた。
「でも、今回ばかりはもう駄目かと思ったよ。アルベリヒが捕まって、騎士たちが大人しく投降してくれたからよかったけれど」
「王女殿下のおかげでしょうね」
 そう言ってメルヒオルが微笑むと、マティアスもうれしそうに笑みを返した。
「君はベギールデについてどう思う? 意見を聞かせてくれないか」
 マティアスの問いかけに、ややあってからメルヒオルは口を開いた。
「彼らが本当に国を変えるつもりだったのか、わたしは疑問に思いますね。ただ現実の苦しみから逃れるために、アルベリヒやドンケハイツに依存していたかっただけだと思いますが」
「なかなか辛辣だね。でも、なににも依存していない人間なんて、この世界のどこにもいないんじゃないかな」
 マティアスが苦笑しながらそう言うと、メルヒオルが静かにうなずいた。
「確かにそうです。ですが苦しみというものは、逃げれば逃げるほど大きくなっていくものですから」
「いったん自分の中に受け入れなければ、苦しみには立ち向かえないからね」
 マティアスがそうつぶやくように言ったとき、開いた扉から秘書官が姿を見せた。
「陛下、宰相閣下が参られました」
「通しなさい」
 部屋に入ってきたのはハインリヒだった。さすがの彼も普段の堂々とした態度は鳴りをひそめ、どこかしょうぜんとして見えた。
 ハインリヒが深々と頭を下げる。
「このたびの失態、面目次第もございません」
「それはなんのことを言っているのかな、ハインリヒ。ベギールデを自分の政略に利用したことかな。それとも、ハーナルの監督官たるものがベギールデの存在を黙認して布教に手を貸していたのに、処分を科さずしたことかな」
 マティアスが笑顔でそう言うと、ハインリヒはすぐさま床にひざまずいた。
「伏しておび申し上げます。この事件の裁判が終われば、責任を取ってわたくしは宰相の位を返上いたします」
「いや、悪いのはわたしだよ、ハインリヒ。宰相である君を蚊帳の外にして、アルフレートとリューディガーを動かしたのはわたしだからね。それと、メルヒオルがユストゥスの正体に気づいたのは偶然だからね。知っていて黙っていたわけではないよ」
 ハインリヒは信じるものかという顔でメルヒオルをにらみつけたが、メルヒオルは窓の外に目をやって、素知らぬふりをしていた。
「今回のことで一番責任があるのは我々王族だよ」
「そのような……陛下はなにもごぞんなかったのですから」
「そう。わたしは祖父のしたことをなにも知らなかった。だが知らなかったでは済まされない。それこそがわたしの罪だ。しかし、このことが公になれば、だれも我々の言うことなんて聞いてくれなくなってしまうだろうね。ニコラウスは神聖派の盟主の座から降りると言っているが、わたしが退位してエミリアにすべてを押しつけるわけにもいかないし、せめてかいざんされた記録はできるだけ復元して、改竄を強要された官吏の名誉を回復しなければならない。それを実行に移せるのは、今のところ君だけだ」
 そこでいったん言葉を切ると、マティアスは真剣な表情でハインリヒを見つめた。
「それがいやなら、わたしを糾弾して退位を迫ってくれてもいいよ。この国の権威を傷つけているのは、ほかでもないこのわたしだからね」
 ハインリヒが慌てて首を振った。
「とんでもないことです、陛下。この国の繁栄は陛下の権威あってのことです。陛下の信認があるかぎり、わたくしは宰相として身命を賭して事態の収拾にあたります」
「それはありがとう。ああ、それとこれは命令ではなく頼みなんだが、これを機にメルヒオルを呼び戻してもいいかな。彼がユストゥスに話を聞いてくれたおかげで祖父の悪行も暴かれたことだし。記録を作り直すのも、君たちは平時の仕事だけで手一杯だろう」
 ハインリヒの顔が一瞬屈辱に歪んだが、すぐにまた頭を下げた。
「……臣下であるわたくしに最終的な拒否権はありません。どうぞ陛下のお好きになさってください」
 ハインリヒが退出してから、マティアスがやれやれと息をついた。
「これで少しは反省してくれるといいんだが。君たちがもう少しけんせずにやってくれれば、わたしの精神的疲労も少なくてすむんだけどね」
 メルヒオルが静かに頭を下げる。
「申し訳ありません。ですがわたしにも譲れないものはありますので……彼はどうにかしてわたしを失脚させたいようですが」
「それで簡単にやられる君でもないだろう。今回だってすぐに戻ってきたじゃないか」
 マティアスがいたずらっぽい顔で言うと、メルヒオルがわずかに口元を上げた。
「わたしとしては、こんなに早く復帰する予定ではなかったのですが……彼はいつも詰めが甘いですから」
 二人は静かに笑い合ったが、不意にマティアスが心配そうな顔になった。
「今回の件で、リートがとがめられるようなことはないだろうね?」
 メルヒオルがうなずく。
「問題ありません。実際にエルフリードと話したのは、ルイスとミヒャエルとユーリエ、それにユストゥスだけですし、ほかの人間は聖殿での出来事を知りませんから」
「エルフリードが生きていたことは、結局最後まで公にできないわけか。でも、言ってもだれも信じないだろうね。こことは別の世界で、ほかの人間に乗り移っていたなんて」
「ええ。残念ですが、そうでしょうね」
 マティアスは、ちらりとメルヒオルのほうを見てから口を開いた。
「アルベリヒに言われたんだ。この世界には、政治では救えないものがあると」
「そうかもしれませんが……政治がなくなれば、今よりはるかに多くの人間が死ぬことになります。人を生かすも殺すも政治しだいでしょう」
「だから彼は宗教家になろうとしたのかな。救われない人間のために」
 マティアスが考え深げに言うと、メルヒオルがふっと息を吐いて瞼を閉じた。
「どんな宗教をもってしても、人を救うことはできませんよ、陛下」
「毎度思うけれど、聖職者がそうはっきり言ってしまっていいものなのかな」
 苦笑いするマティアスに、メルヒオルがほほんだ。
「聖職者だから言うのです。リヒトは善でも悪でもなく、ただそこに在るものなのですから」

 扉をノックする音が響き、ユストゥスは椅子から静かに立ち上がると、警戒しながら扉に近寄った。
 あれから、ユストゥスは王宮の客室で寝泊まりしていた。
 ユストゥスの証言を記録しておきたいという、メルヒオルの頼みを受け入れてのことだった。
 ユストゥスは、自分が覚えているかぎりのことを話すつもりだった。
 あの時のことを覚えているのは、もう自分とエヴェリーンしかいない。
 国の歴史を残すことに使命を感じているわけではなかった。ただ、すべては汚名を着せられたエヴェリーンの名誉を回復するためだった。
 自分が真実を知っていればそれでいいとは思わなかった。それはただの独りよがりだ。ユストゥスは彼女のために、できる限りのことをしたかった。
 ユストゥスは細く扉を開け、そこに立っているのがだれかわかった瞬間、息をんだ。
「……エヴェリーン」
 いつもの白い装束ではなく、瞳と同じ緑色のドレス姿のエヴェリーンがそこにいた。
 力を使えば一瞬で部屋の中に姿を現せるのに、きちんと自分の部屋を訪ねてくる彼女にいとおしさが込み上げてくる。
 エヴェリーンが微笑み、ユストゥスに手を差し出した。
「部屋に入ってもいい?」
「……ああ」
 そう言ってユストゥスは、エヴェリーンの細く繊細な指先をそっと握った。

 ユストゥスが紅茶をれると、椅子に坐ったエヴェリーンが微笑んだ。
「ありがとう」
「なぜエルフリードは、力を使えたんだろうな」
 自分も椅子に掛けながらユストゥスが言うと、エヴェリーンが持っていたカップを受け皿に置き、口を開いた。
「そのことは、ずっとわたしも考えていた。これはわたしの考えでしかないけれど、たぶん、エルフリードの中には、彼の母親がいたんだと思うの」
 ユストゥスは驚いて、エヴェリーンを見た。
「エルフリードの中に?」
「彼女は自分の身体と引き換えに、リヒトにそう願ったんだと思う。彼女はそうやって、後ろ盾のいないエルフリードを守ろうとしたの。リヒトは、欲望から来る願いには沈黙するけれど、それが純粋な願いならすべてかなえる。だから不可能ではないわ。……彼がそれを知ることはもうないけれど」
 そう言葉を結んで、エヴェリーンはまたカップに口をつけた。
 ユストゥスは自分の手をじっと見つめてから言った。
「君はあの時、俺にいったいなにをしたんだ? 俺はあの時君と別れてから、まだ一年弱しかっていないように感じる。なのに、いつの間にか百年が過ぎていた」
 ユストゥスがそう言った途端、エヴェリーンの表情に影が差した。緑の瞳がそっと伏せられる。
「わたしはあの時、あなたを治療してから、あなたの周囲の空間だけを高速で動くようにしたの」
「高速で……?」
「この世界はね、物体は速く動けば動くほど、時間がゆっくり進むようになっているの。でもこれからは、あなたは本来の寿命を生きられる。ほかの人たちと同じように」
「君は?」
 エヴェリーンが少し寂しそうに微笑んだ。
「さっき力を使おうとしたら、もう使えなくなっていたわ。これでやっと、わたしはただの人間になれた」
 その答えに、ユストゥスは鼓動がしだいに早くなるのを感じた。そんな感覚は、とっくの昔に失くしてしまったと思っていた。
「なら、これからずっと一緒にいられるのか?」
 ユストゥスは震えそうになる声を抑えながらそう言った。
 しかし、エヴェリーンは瞼を閉じて、静かに首を振った。
「わたしが生きられるのは、あと数日だけ」
「……どうして」
「わたしはね、ずっとリヒトに生かされていたの。本当は、生まれて数日後に、呼吸が止まって死ぬはずだった。でもわたしはヴォルヴァに選ばれたから、リヒトに生きたいと願った。だから、わたしがヴォルヴァでなくなることは、死ぬことと同じなの」
 エヴェリーンの両目から涙がはらはらと零れ落ちた。
「ごめんなさい、黙っていて。わたしのせいで、あなたにはずっとつらい思いをさせてしまった」
 ユストゥスのはくいろの瞳から、一筋涙が流れ落ちた。
(目覚めたら、あなたに真実を言うわ)
 あれは、そういう意味だったのだ。
 ユストゥスはゆっくりと瞼を閉じた
「明日、俺が目を覚ましても、君は死んでいないんだよな?」
「ええ。だって今は、あなたと同じ時間を生きているもの」
「なら、それでいい」
 ユストゥスが目を覚ますと、いつも外の世界では数日が経っていた。何十年かが経過しても、容姿が変わっていないことを異様に思われ、化けもの扱いされて殺されそうになったこともあった。そのせいでユストゥスはなるべくだれとも再会しないように、生活する場所を転々とすることを余儀なくされた。そんなふうに生きるうちに、幽閉され、孤独に苛まれていたエルフリードの気持ちが少しわかった気がした。
 この一年で、百年分の経験をした。だが、本当にユストゥスが望んでいたことはなにもできなかった。
「たとえ残された時間がどんなに短くても、俺は君と同じ時間を一緒に過ごせればそれでいい。それができれば、もうなにもいらない」
 エヴェリーンがいない時間など、ユストゥスにとってはあってないのと同じだった。彼女に出会って初めて自分の時間は動きだした。ユストゥスはそう思っていた。
 自分の時間を進めるために、自分は今日まで生きてきた。
 ユストゥスは腕を伸ばし、エヴェリーンを抱き寄せた。
「その記憶さえあれば、俺はこれからも生きていける。たとえ、この世界から君がいなくなっても」
 ユストゥスの腕の中で、エヴェリーンは安心したように静かに瞼を閉じた。その拍子に涙がまた一筋零れ落ちた。
 そのままの体勢で、二人はしばらく抱き合っていた。
「ずっと、あなたに言いたかったことがあるの」
 ユストゥスに抱かれたまま、エヴェリーンが不意にささやいた。
「……ありがとう。わたしを愛してくれて」
 ユストゥスはその言葉に目を見開いた。
「わたしは、ずっとリヒトに守られて平穏に生きていた。でもあなたに会ってからは、つらいことや苦しいことばかりだった。でも、初めて生きていると実感できた。あなたに会わなければ、ずっと平穏に生きていけたのかもしれない。でも、わたしは後悔していない」
 エヴェリーンはそっとユストゥスの額に自分の額をくっつけ、瞼を閉じた。
「あなたは恐れを知らなすぎる。でも、だからわたしは……あなたを愛したの」