リートは廊下を歩きながら、自分たちの縁はなかなか切れないらしいと、後ろを歩くヴェルナーをちらりと見てから思った。
近衛騎士に大量に欠員が出てしまったせいで、警護にはまたヴェルナーが来てくれていた。
ヴェルナーは、ソリンに関する最新の情報をいろいろ語って聞かせてくれた。
アルフレートがソリンに戻らないかとユストゥスを誘ったが、断られてしまったこと。彼は自分のことはいいから、命令違反で除名処分になってしまったレナードの名誉を回復してほしいと願ったらしい。そして、エヴェリーンの密葬と埋葬が終わった次の日には、ユストゥスはもう王宮から姿を消してしまったのだという。
それから、クラウスは間接的にルイスを陥れるような真似をしたのに、ハインリヒが圧力をかけて揉み消してしまったこと。
現実は相変わらず不条理で、どうにもならないもののようだとリートは思った。
しかし、それでもヴェルナーの表情は明るかった。
「でも、ルイス様はなんだか雰囲気が変わったんですよね。少しは前向きな気持ちになれたのかな」
「……さあ、どうだろうね」
答えながら、リートは生返事をした。
今は目的地を目指すことで頭がいっぱいだった。
ヴェルナーを外に待たせ、リートはノックしてから部屋の中に入った。
「失礼します」
執務机に坐っていたメルヒオルが、リートの姿を認めるとすぐに立ち上がり、柔らかく微笑んだ。
「おはよう、リート」
淹れてもらった紅茶を飲みながら、リートはふっと息をついた。
ここに来るのは何度めだろう。なにかあるたびにこの部屋を訪れた。だが、こうしてメルヒオルと差し向かいで話すのは久しぶりだった。
「呼び出してすまなかったね」
「ううん、少しは身体を動かさないとどうにかなりそうだったから」
「もう大丈夫かな?」
リートは首を傾げた。メルヒオルにしては、ずいぶん漠然とした問いだった。普段の自分なら、それがどういう意味か聞き返したかもしれない。
しかし、今は違う。リートは苦笑しながら答えた。
「大丈夫だよ」
その言葉通り、あらゆる意味で今の自分は大丈夫だった。
リートが目覚めてからは大変だった。
エミリアには会った瞬間いきなり抱き締められるし、それだけではなく、ルイスもミヒャエルも同じことをしようとしたので、リートは丁重に断った。
自分のいた国と違って、こちらの世界の人間は身体接触をして感情を共有することは、ごく自然なことのようだった。しかし、リートはだれかに触られるのはどうにも苦手だったし、他人と気持ちを共有するという行為も不得意で、そのこと自体にあまり価値を見出していなかった。
しかも、それだけでは終わらず、医官たちに身体に異常がないか隅々まで調べられたせいで、リートは眠る前より具合が悪くなりそうだった。
「僕は一人でいるときのほうが元気なのに、みんな寄ってたかって世話を焼こうとするから困ったよ」
リートがため息交じりにそう言うと、メルヒオルが微笑んだ。
「みんな君のことが好きなんだよ」
「そうかなぁ? そうじゃない人のほうが多いと思うけど」
だがそうだとしても、もう自分は必要以上に落ち込まないだろう。
他人が自分のことをどう思うかは、自分では決められない。
いつだって、甘んじて受け入れるしかない。
「それで、僕に話って?」
話が終わり、リートが部屋を出ると、外で待っていたヴェルナーが身軽な動作でリートに近寄ってきた。
「ずいぶん早かったんですね」
しかしリートがなにも答えないので、ヴェルナーが首を傾げた。
「……どうなさったんです?」
リートは無理やり口元を上げて笑顔を作った。
「なんでもない。ユーリエのところに行こう」
リートは歩きながら、先ほどの会話を反芻した。
そのことをメルヒオルから聞いた瞬間、リートは混乱した。
「帰れるって……どういうこと?」
「エヴェリーンがリヒトに頼んでから亡くなったのでね。ユーリエに自分と同じだけの力を使えるようにと。だからユーリエが願えば、君は元いた世界に帰れる」
リートが黙っていると、メルヒオルが眉を上げた。
「どうしたんだい?」
「いや、なんだか拍子抜けして……もう帰れないと思っていたから」
「嬉しくないのかな?」
リートは曖昧に笑みを作りながら、首を傾げた。
「さあ、どうなんだろう」
元いた世界に帰る。
(……帰ってどうするんだろう)
リートはわからなかった。
きっとまた自分は独りになるのだ。周囲から浮いた存在になる。
でも、だとしても、今はそんなに怖くないとリートは思った。
今の自分は、ここに来る前よりも、幾らか自分のことを知っている。
周りに合わせられないことよりも、自分を知らないことのほうがよほど怖いことだ。
(でも不安だな。また逃げ出したくなるかもしれない)
螺旋階段を下りながら、不安な気持ちを振り払うように、リートは首を振った。
(そんな弱気じゃ、駄目だよね)
螺旋階段を下り、リートは聖殿に入った。
その時、ちょうどユーリエがこちらに歩いてくるのが目に入った。
「ユーリエ」
リートはユーリエに歩み寄ろうとした。
しかしユーリエは立ち止まり、リートの姿を認めた途端にくるりと背中を向けてしまった。
「ユーリエ!」
リートは反射的にユーリエを追いかけていた。なにかを考える暇もなかった。
ただそうしなければならないと思った。
ユーリエが祈り場に駆け込み、リートもそのあとを追って入ろうとしたが、結界に跳ね返されしまい、リートはあえなくその場にひっくり返った。
「いった……」
身体を強かに床に打ちつけ、リートは呻いた。
「リート様!」
慌ててユーリエが駆け寄ってくる。
「申し訳ありません……わたしのせいです」
そうだ。今この結界を維持しているのはエヴェリーンではなく、ユーリエだ。
彼女の意思に反応するのは当然のことだった。
額をさすりながら、リートは起き上がった。
「ユーリエ。僕、君になにかしたかな。僕は察しが悪いから、言ってくれなきゃわからない」
ユーリエがうつむいたまま口を開く。
「あちらの世界に帰られるのですか」
「うん。そのつもりだけど。すぐには帰らないよ? どこもバタバタしてるし、大変そうだから」
「……いやです」
「え?」
「いやなんです」
立ち去ろうとするユーリエの腕をリートはとっさに掴んでいた。
「ごめん」
リートはすぐに手を放した。
「でも、理由を教えてほしい。知りたいんだ。ユーリエがなにを考えてるか」
「……だって」
ユーリエがうつむいていた顔を上げる。
「だって、向こうの世界では独りだとおっしゃっていたではありませんか! ここのほうがいいと! なのに、どうして帰るなんておっしゃるんですか?」
ユーリエの剣幕に、リートは驚いて一歩後退った。
ユーリエがはっとしたような顔になり、うつむいた。
「……ごめんなさい」
リートは去っていくユーリエにかける言葉が出てこなかった。
見えない壁に跳ね返されたときよりも、リートは身体に衝撃を受けた気がした。
ユーリエとのことがあった次の日、リートはエミリアと会っていた。
エミリアは、今の王宮の状況がどうなっているのかを詳しく教えてくれた。
彼女はこのあいだずっと、父親について会議に参加していたのだという。
「メルヒオルは御前会議ですべて公表したわ。エヴェリーンが証言したの。ハインリヒは王権派だから、アウグストの非は認めず、神聖派の対応だけ糾弾するでしょうね。神聖派はなにも反論できない。でも、メルヒオルを弾劾したのは王権派で、彼らはこの事件をまったく解決できなかった。だから痛み分けね。それに、この一件が世間に広まれば、この国の信用と権威は失墜する。ハインリヒとしては頭が痛いでしょうね」
リートはハインリヒが少し可哀想になったが、一方では自業自得だとも思った。なにせ彼は、この機に乗じてメルヒオルを追い出すことばかり考えていたのだ。
「ひいお祖父様……アウグストはエヴェリーンに罪を着せたときに、エヴェリーンの事件に関する記録だけすべて改竄したみたい。会議の議事録も残っていない。大部分が破棄されてしまって、あとから検証することは不可能だとメルヒオルが言っていたわ」
リートは束の間言葉を失った。
アウグストは非道な行いをするだけでなく、すべてを隠蔽しようとしたらしい。
もしかしたら、側近たちがアウグストにそうすることを進言したか、記録を勝手に改竄してしまった可能性もある。しかし、すべてはリートの憶測でしかなかった。
リートは、エヴェリーンの記憶のなかで見たアウグストのことを思い出した。エヴェリーンの視点から見たアウグストは、そこまで残酷な人間には見えなかった。表情がほとんど変わらないので、なにを考えているのかはわからなかったが、エルフリードを止めようとするエヴェリーンを心配していた。
だがアウグストはエルフリードの母親を無理やり妊娠させ、父親であるにも関わらず、エルフリードを長年に渡って幽閉し、監禁していた。それは到底許されることではない。
絵に描いたような極悪非道な人間など、物語の中にしかいないのかもしれない。リートはそう思った。
「エルフリードの扱いはどうなるの?」
リートがそう言うと、エミリアが肩を竦めた。
「どうにもならないわ。なにせ彼は公式には存在していない人間だから。出生記録もなければ、お墓もない。遺体もどこにあるのかわからないし、存在を証明するものがなにひとつ無いの」
それではまるで幽霊ではないかとリートは思った。
なにか物的な証拠がなければ、自分がいたと証明できない。だがそれは逆に言えば、物的な証拠さえあれば、いくらでも存在を捏造できるということだ。
そう考えた途端、リートは自分の存在がとてもあやふやなもののように感じられた。
(自分って、いったいなんなんだろう?)
リートにはよくわからなかった。
「それより、リート。メルヒオルがリートはユーリエの力で帰れるようになったって言っていたけど、もう帰ってしまうの?」
「ああ、それなんだけど、まだ当分帰れないかも」
リートが手短に経緯を説明すると、エミリアは目をまん丸にした。
「ユーリエがあなたを帰らせたくないって言ってるの?」
「うん。僕はユーリエがいいって言ってくれるまで帰れないんだ」
「それは困ったわね」
「……本当にそう思ってる?」
リートが苦笑しながら言うと、エミリアが肩を竦めた。
「白状すると、少し楽しんでるわね。でも、ユーリエの気持ちもわかるわ。もう二度と会えないかもしれないんだから」
エミリアが帰ってから、リートはソファに寝転がって考え込んでいた。
そうだ。エルフリードはもういないのだから、向こうの世界に帰ってしまえば、おそらくここには戻ってこられない。
ユーリエはまた友達のいない生活に戻るのだ。その上、リヒトに祈る毎日が死ぬまで続く。
だがそれは自分も同じようなものだった。両親や同級生はいるが、だれにも心を打ち明けたことはない。向こうの世界では常に孤独だった。
王宮の敷地内から出られないユーリエよりできることはたくさんあるが、それがなんだというのだろう。便利な製品に囲まれ、金銭的になに不自由のない生活を送っていても、人間の価値がどんどん低くなっていくあの世界で、自分にできることなどあるのだろうか。
(でも、僕はずっと逃げていたんだ)
そうだ。あのままどうにかやり過ごそうとしても、いつか自分は追い詰められ、自分の無力さに打ちひしがれる日を迎えていた。
それがいやで、自分はこの世界に来たのだ。だが、自分はこちらの世界でも、現実のつらさに打ちのめされることになった。
苦しいことからは逃れられない。
わかっていたはずなのに、ずっと現実と向き合うことを先送りにしていた。
ならば、今度はその苦しさに立ち向かわなければならない。今ならその苦しみを受け入れ、立ち向かうことができる。そう思ったからこそ、帰ろうと思ったのだ。
だが、それを言ったところで、ユーリエが納得してくれるとは思えなかった。
ユーリエの言うとおり、帰っても自分は独りだ。独りでも平気だとユーリエに強がってみせたところで仕方がない。彼女にはきっと見抜かれてしまう。
(なんて言えば、君は不安じゃなくなるの?)
しかし、リートはもうわかっていた。
そんな魔法のような言葉は、この世界のどこにも存在しないのだということを。
