地下の聖殿で、ユーリエは地面に坐り込み、リートが供えた花束をじっと見ていた。薄紫色の瞳からは、相変わらず感情を読み取ることができなかった。
その時、螺旋階段を下りる音が辺りに反響した。現れた女性の影がユーリエを見下ろす。
「なにを考えているのです、ユーリエ」
少し神経質そうな高い声だった。
「ヴォルヴァがなにかを考えてよかった試しはありません。歴史がそれを証明してくれています」
女性が淡々と言葉を紡ぐ。
「エヴェリーンは、清純さよりも愛を取ってその身を滅ぼしました。愛とはそれほど愚かしく恐ろしいもの。あなたが俗世のことを考える必要はありません」
ユーリエは感情のない声で女性に答えた。
「はい、ゾフィー様」
朝食を摂ってすぐにノックの音が響き、リートは返事をしながらだれだろうと首を傾げた。ルイスが来る時間にはまだ早い。
「おはよう、リート」
現れたのはエミリアだった。相変わらずミモレ丈のドレスに深靴を履いている。
突然の訪問に驚きながらも、リートは挨拶を返した。
「おはよう、ミリィ様」
「ルイスはまだ来ないわ。ちょっと足止めするように担当の官吏に頼んだから」
リートがまた驚いていると、エミリアがふふっと笑った。
「ルイスのいないところであなたと話そうと思って」
椅子に腰掛けるなり、エミリアはじっとリートを見た。
「母がいろいろ言ったこと、気にしてる?」
「ううん、気にしていないよ。突然僕みたいな得体の知れない人間が現れて、自分の家で寝泊まりされたらだれだっていやだろうし」
「そんなこと。あなたは天啓者なんだから、そんなに気を使わなくていいのよ」
天啓者。だからなんだというのだろうとリートは思った。未だに自分はその概要を知らない。
(それはあなたが考えることだからです)
ユーリエにはそう言われたが、それがどういう意味なのかリートにはよくわからなかった。
「それに、あなたが天啓者でもそうでなくても、わたしはあなたが来てくれて嬉しいと思ってるわ。わたしは兄弟も姉妹もいないから、話し相手がいなくて退屈してたの」
そう言って屈託なく笑うエミリアを見ながら、リートも微かに笑みを返した。
「だったらいいんだけど」
「それで、本題なんだけど」
そう前置きして、エミリアは真剣な目つきでリートを見た。
「ルイスのことをどう思う? あなたの本心を聞きたいの。彼はなんというか、とても誤解を招きやすい性格だから。みんなルイスを善い人だと言うけど、だれも仲良くなろうとは思わないの。だから直接聞いておきたくて。あなたが彼をどう思っているか」
問われてリートは考え込んだ。
真面目、誠実、真摯、率直、頑固。ルイスの人柄を表すとしたら、そんな言葉が妥当だろうか。
だが、リートはルイスのそういうところを気に入ったわけではないと思った。
それはきっと、表に出ている部分にすぎない。
しかし、彼の本質がなにかは、リートにはよくわからなかった。
「僕にはうまく言えないけど……彼はとても優しい人だと思う」
リートがそう言うと、エミリアは嬉しそうな顔になった。
「わたしもそう思う。でも、ルイスは昔から一度こうだと決めると他人がなにを言っても聞かないし、ひどく感情的になることがあって……とにかく自分に素直なの。そのせいであの夜みたいに、ときどき突拍子もないことを平気でしでかすの。悪気はないんだけどね」
「よくわかってるんだね、ルイスのこと」
「そりゃもう。十年近く一緒にいるもの」
うんざりした口調だったが、エミリアの顔は笑っていた。
「そういえば、初めて会ったときにルイスが有名人だって言ってたけど、あれはどういう意味?」
リートがそう訊ねると、エミリアは意味ありげに微笑んだ。
「言葉通りの意味よ。彼は国一番の賢者メルヒオルと、同じく国一番の剣士アルフレートの教えを受けていて、大学は首席卒業、騎士団試験も首席合格。そういうことを並べはじめたらキリがないの」
リートは、彼女の並べるルイスの情報に呆然とするしかなかった。
彼は高水準の教育を受けて育ち、しかも結果を出している人間なのだ。
そんな優秀な人間が自分の護衛をしていたなんて。
それにも関わらず、当のルイスはまるでそのことを鼻にかけていなかった。ルイスの普段の態度から推察するに、彼にとってそれは普通に努力して得られた結果というだけで、誇ることでもなんでもないのだろう。
「それから、あなたにはお礼を言いたかったの。ありがとう。ルイスを連れ戻そうとしてくれて」
エミリアに真剣な声音でそう言われ、リートは言葉に詰まった。まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
エミリアが微笑む。
「木の上で全部見ていたから。あの時はわたしがいたからよかったけど、ルイス一人なら大問題になってた」
「でも、僕が行ってもなんの役にも立てなかったよ。足手まといになっただけで」
リートがそう言うと、エミリアは首を振った。
「それは関係ないわ。たとえルイスが彼らを倒していたとしても、私闘をしたせいで処分を受けることになったもの。もともと、クラウスはルイスとやり合う気なんてこれっぽっちもなかったの。騒ぎを起こして停職処分になるのを狙ってたんでしょうね。大貴族出身のくせにやり方が汚いでしょう? クラウスはいつもそうやってルイスの評判を落とそうとするの。当の本人は、評判なんて全然気にしていないんだけど」
リートは同感だった。確かに、ルイスは自分の評判を気にする人間には見えなかった。そんな暇があったら、剣術の鍛錬でもしていそうだ。
「だからね、自分が行かなければよかったなんて考えないで。反省すべきはルイスのほうなんだから。彼が行かなければ、クラウスは地団駄踏んで悔しがったし、わたしは賊を倒せて退屈凌ぎができたし、あなたは安心して眠れたの」
それはどうなのかという想像も混じっている気がしたが、リートはあえて聞かなかったことにした。
「もし反省することがあるとしたら、あなたが一人で行動してしまったことね。こういうことがあったら、一人で悩まずに、だれかに相談すること。例えばわたしとか、メルヒオルとか」
「うん。これからはそうする」
リートがそう言うと、エミリアがにっこり笑った。
「よろしい」
その時、ちょうどノックの音が響き、ルイスが入ってきた。
「おはよう。遅れてすまない、話が長引いて――」
「おはよう、ルイス」
エミリアがひらりと優雅に手を振ると、途端にルイスが不機嫌な顔になった。
「なぜ君がいるんだ」
「あなたが遅れてくるのが悪いのよ。おかげでいろいろ話せてよかったけど」
エミリアはそう嘯くと、にこっと笑った。
「あなたが馬鹿で無鉄砲でどうしようもないって話とか。ね、リート」
「リートがそんなことを言うはずないだろう」
「冗談じゃないの。本当にあなたって面白みに欠ける人ね」
エミリアが呆れた口調で言うと、ルイスが憮然とした表情になった。
「なぜ面白い必要があるんだ」
「わたしはともかく、ルーツィアが可哀想じゃない」
エミリアがそう言ったあとのルイスは見ものだった。危うく卓上に置いてある水差しをひっくり返しそうになり、中身をぶちまけるところだった。
リートは彼らしからぬ動揺ぶりに目を丸くした。
「君には関係ないだろう」
「そうね」
なんとか冷静になろうと努めているルイスとは対照的に、エミリアは涼しい顔をしていたが、リートにはそれがなんだか不自然に思えた。
リートの視線に気づいたのか、エミリアがにっこり笑った。
「それよりリート、今度あなたのために宴を開くんですって。まだ日付は調整中だけど」
「そ、そんなのいいのに……」
「気にしなくていいのよ。みんなあなたにゴマをすっておきたいだけだから。有り体に言えば閣僚たちへのお披露目ね」
「リート、気にするな。ミリィは君を怖がらせて遊んでいるだけだ。普通にしていればなにも問題はない」
「でも――」
「他人の思惑を君が気にする必要はない」
断固とした口調のルイスにエミリアもうなずいた。
「そうよ、リート。ルイスはともかく、わたしがついていれば安心だから。でもハインリヒには気をつけたほうがいいわね」
「だれ?」
「ハインリヒ・フォン・シュヴァルツバッハ。この国の宰相よ」
「もしかして、黒い服を着てて、背が高くてここに髭を生やした人?」
リートが鼻の下を指しながら言うと、エミリアがそうそうとうなずいた。
「ここに来た日に会ったんだ」
リートがそう言うと、エミリアが低い声で言った。
「あの人はメルヒオルが大嫌いなのよ」
「ミリィ、あまりそういうことを口にするな」
「わかっているわよ。でも、彼はなかなかやり手だから。油断しないほうがいいわ」
リートは、ハインリヒに会った日のことを思い出した。
メルヒオルとは対照的な、居丈高で高慢な振る舞いをする男。彼がメルヒオルを嫌っている。それはなぜなのだろう。リートはエミリアに訊ねたかったが、やめておいた。ルイスはそういう政治的なことはリートに聞かせたくないようだった。
「それより、宮殿が騒がしいようだが、なにかあったのか?」
ルイスがエミリアに訊ねると、エミリアがうなずく。
「それがね、今ちょっと問題が起きてるみたいなの。ユーリエの力が弱まっているとかで」
「ユーリエが?」
リートは驚いた。いったい彼女になにがあったのだろう。
「原因はわかったのか?」
「それがまるでわからないの。身体はどこも悪くないから、医官たちの出る幕じゃないし。ゾフィーたちは必死で原因を探っているけど、打つ手がないみたい。このままじゃ、ハインリヒがまた聖殿不要論を唱えてくるのも時間の問題ね」
二人が話している横で、リートは考え込んだ。ユーリエの力が弱まっている。どうして急にそんなことになったんだろう。
ユーリエに謝らなくてはと思いながら、リートはあの日から聖殿に足を踏み入れていなかった。
聖殿に行くと、どうしてもライナスのことを思い出してしまう。
感情的に言葉をぶつけた記憶がよみがえり、リートは今更ながら恥ずかしくなった。
あの時は、言いたいことだけ言って帰ってしまった。さすがのユーリエも気を悪くしたかもしれない。
ユーリエの感情のこもらない瞳を思い出して、リートはなんとも言えない気持ちになった。彼女がだれかの言葉に傷つくなんてことがあるのだろうか。
もしあんなふうになれたら、つらいことや悲しいことはなくなるのだろうか。リートにはわからなかった。
エミリアが帰ってから、リートはルイスに訊ねてみた。
「ねえルイス、ヴォルヴァってこの国にとってどういう存在なの?」
王宮を見学したときにヴォルヴァのことはライナスから聞いたが、リートはまだよくわかっていなかった。
「改めて問われると難しいが……ヴォルヴァはリヒトとわたしたちのあいだに立って、両者を繋いでくれる存在だ。この国と、この国に住んでいるすべての人々のために祈るのがヴォルヴァの役目だからな。どうしたんだ?」
リートが突然顔を手で覆ってしまったので、ルイスが心配そうな声を出した。
「なんでもない、気にしないで」
リートは答えながら、自分の言ったことを思い出して後悔した。
祈りなんて役に立たない。あろうことか、自分はユーリエにはっきりそう言ってしまった。これでは彼女の存在意義を否定したも同然だ。
「リートのいた世界にそういう存在はいないのか?」
「昔はいたけど……今はもういないから、僕にはよくわからなくて」
自分の世界に巫女がいたのは、占いや託宣で国を治めていた古代や中世の頃の話だ。今はどんなことでも、科学的思考や合理的思考で物事を決めるのが当たり前だったし、どんな宗教的指導者も政治に口出しすることはできない。
祈ることだけが仕事なら、それはユーリエも同じはずだ。
それなのに、なぜ彼女はここにいなければならないんだろう? それがリートにはよくわからなかった。
だがライナスのことがなければ――自分は彼女と平和に話をしていたのだろうか。リートは考えながら、ふとそう思った。
「ルイス。前みたいに、僕がユーリエと話をすることってできる?」
リートがそう言うと、ルイスが思案するような顔になった。
「あれから警備が一段と厳しくなったからな。ゾフィー殿は決まりを守ることにうるさいから、頼んでも許してくれるかどうか……」
「ゾフィー殿って?」
「今の聖殿の責任者で、ユーリエを監督している女性だ。ユーリエはわたしたちにはない特別な力を使うことができるが、彼女は未成年で、まだ保護者が必要な年齢だ。だからゾフィー殿が保護者兼教育者として彼女の面倒を見ている」
それを聞いて、ああそうか、とリートは納得した。
彼女には特別な力があるから、それをだれかに悪用されないようにここで保護されているのだ。しかしいくら力を使うことができるとはいえ、まだ十四歳なのに、毎日仕事をしなければならないなんて可哀想だとリートは思った。
彼女の自由は保障されているのだろうか。それともこの世界では、ヴォルヴァに自由など必要ないと考えられているのだろうか。
そんなことを考えながら、リートは一日を過ごした。
その晩のことだった。
リートは薄暗い部屋に閉じ込められていた。部屋には粗末な寝台が一つあるだけで、ほかにはなにもない。
だれもいない。
なにも聞こえない。
しかし、リートは知っていた。もうすぐここにだれかがやって来ることを。
ノックの音に続いて、古びた扉がゆっくりと軋んだ音を立てて開く。差し込んだ光の眩しさにリートは目を細めた。入り口にだれか立っている。リートはその姿をはっきり見ようと目を凝らした。
あと少し、あとほんの少しでいい。
しかし、リートの意識は確実に覚醒に向かっていた。
世界が揺らぐ。
小舟が転覆する瞬間のように、リートの意識は覚醒した。
リートはぼんやりと瞼を開けた。
(またあの夢だ)
ここのところ、リートは安定して眠れるようになっていた。もう悪夢に魘されることもなかったが、その代わりに同じ夢を繰り返し見ることが多くなっていた。
(向こうの世界じゃ嫌な夢はよく見たけど、閉じ込められる夢なんて見なかったのに)
リートはそう思いながら、寝直す前に一度手洗いに行こうと寝台から降りた。
目的を達してリートは寝室に戻ろうとしたが、ふときちんと施錠したか気になって、扉のほうに歩み寄った。さっき見た夢のせいで神経が過敏になっているのかもしれない。
鍵が閉まっていたので、リートはほっとして寝室に戻ろうと振り返ったが、その瞬間危うく叫び声をあげそうになった。
限りなく白に近い金色の長い髪。相変わらず表情のない人形のような顔。
「……ユーリエ?」
リートは呆然と彼女の名前を呼ぶと、ユーリエが無表情に頭を下げた。
「申し訳ありません。勝手に入ってしまって」
リートは驚いてユーリエを見た。
「君、どこから入ってきたの?」
「力を使って直接ここに移動しました」
いわゆる瞬間移動と呼ばれるものでユーリエはここに来たらしい。リートはどういう反応をすればいいのか迷った。ここは不法侵入されたことを怒るべきなのだろうか。
いや、それよりも今はやらなければならないことがある。
「と、とりあえずだれか呼んでくるから、ここで待ってて」
リートは慌てて部屋を出ようと扉の取っ手を掴んだが、ユーリエに服を掴まれた。
「だれも呼ばないでください」
「そ、そんなこと言ったって」
そういうわけにもいかない。なにかあったら必ず相談するとエミリアと約束したばかりなのだ。
しかし、今は真夜中だ。ルイスもエミリアもメルヒオルも、この時間帯では寝ているだろう。
だれかに来てもらうには宿直中の騎士か侍女を呼び、そこから本人に連絡が行くのを待たなければならない。夜中に三人のうちのだれかを叩き起こすのは忍びなかった。
あと数時間待って朝になれば、ルイスが来る。それまでは下手に騒がずにユーリエと部屋で待っていればいい。リートはそう結論づけた。
(ごめんなさい、ミリィ様)
リートは心の中でエミリアに謝った。
取っ手から手を放し、リートは恐る恐る口を開いた。
「あの、僕になにか話があって来たの?」
ユーリエは首を振った。
「……わかりません」
「じゃ、じゃあどうしてここに?」
しかし、ユーリエはうつむいたまま答えようとはしなかった。
リートは困った。相手から反応があれば対策も練れるが、なにもないのではどう対応していいのかまるでわからない。向こうの世界では自分もそう思われていたのだろうか。だとしたら悪いことをしたとリートはこの時反省した。
もし今度話しかけられることがあったら、もう少しマシな対応をしよう。もし帰ることができればの話だが。
そこまで考えてから、リートは思考を中断した。こうして考えていてもなにも始まらない。それに朝まで寝ないで待つわけにもいかない。しかし、リートの部屋は広かったが、残念ながら寝室は一つしかなかった。
「君は僕の寝室を使って。僕はここで寝るから」
そう言ってリートはソファに坐ったが、ユーリエは動こうとしなかった。
「どうしたの?」
「別々の部屋で寝るんですか?」
「そうだけど。……一人で寝たくないの?」
ユーリエがうなずく。
リートは悩んだ。異性と同じ部屋で寝るのはこの世界でも咎められることなのだろうか。
倫理観と常識がリートの中で主張を戦わせてどちらも譲ろうとしない。この場合はどちらを優先させればいいのだろう。世間の常識か、それとも彼女の願いか。
仕方ない。リートは腹を括ることにした。同じ部屋で寝るだけだ。べつにやましいことがあるわけではない。
「じゃあソファを使って。僕は床で寝るから」
「わたしが床で寝ます。無理を言っているのはわたしですから」
「そ、それは駄目だよ。君は女の子なんだし……」
リートが慌てて言うと、ユーリエが不思議そうに首を傾げた。
「女は床で寝てはいけないのですか?」
「なんていうか……うん、僕の世界ではそうするのが礼儀というかなんというか」
しどろもどろにそう言いながら、リートは自分の対応のまずさに落ち込んだ。
なぜ自分はこんなに気を使うのが下手なんだろう。
絨毯の上に寝転がって、毛布をかぶりながら、リートはべつにやましいことじゃないと何度も自分に言い聞かせた。自意識過剰な自分が嫌になる。絶対にユーリエは気にしていないのに。慌てふためいているのが自分だけだなんて、とてつもなく不公平だ。
でも、それで彼女の不安が和らぐならそれでかまわない。そんなことを考えているうちに、リートはいつの間にかうつらうつらと浅い眠りに落ちていた。
