だれかが自分の肩を揺すっている。
「リート様」
うつらうつらしていたリートは、その声で飛び起きた。慌てて時計を見ると、もうすぐ侍女が来る時間だった。
リートは急いで支度をすると、ユーリエを寝室に連れていった。
「ここに隠れてて。僕がいいって言うまでここから出ちゃ駄目だからね」
そこからはいつもと同じように時間が過ぎた。朝食の時間も終わり、リートはほっと息を吐いた。あとはルイスが来るのを待つだけだ。
ルイスはいつも時間きっかりにやってくる。一分一秒たりとも遅れることはないし、逆に早く来すぎるということもない。
例外はエミリアが自分と話すために足止めしたときだけだ。
しかしこの日は違った。五分経っても、十分経ってもルイスは現れなかった。
三十分ほど経ってからやっと現れたルイスにリートはほっとした。
「おはよう、ルイス。実は――」
「遅れてすまない。だが問題が起きたんだ」
「ルイス、それは――」
「ユーリエがいなくなったんだ。この事は一部の閣僚たちしか知らない。今密かに近衛騎士たちがユーリエを探している」
我慢できずにリートは声を張り上げた。
「ルイス、僕の話を聞いてってば!」
言うのと同時にリートは椅子から立ち上がり、寝室の扉を開けた。
「ユーリエ、出てきていいよ」
現れたユーリエの姿を見て、この時ばかりはルイスも驚きの表情を見せた。
「自分の部屋に帰りたくないって言うから、泊めてあげたんだ。夜中に抜け出してきたみたいで」
リートがルイスに経緯を説明していると、いつの間にかユーリエが寄ってきて、なぜかお茶を出しはじめた。
出されたカップを見ながら、つくづく彼女の行動は予測不能だとリートは思った。
「ありがとう」
ルイスは特に気にしたふうもなくユーリエに礼を言ったが、ユーリエはいえ、と言っただけでさっさと向こうに行ってしまった。
「それで、なぜ彼女は部屋に帰りたくないんだ?」
「それはこっちが訊きたいよ。どうしてこんなことになってるのか僕にもわからないんだ。ルイスはユーリエについてなにか知ってる?」
「いや、わたしは彼女の個人的なことはなにも知らない。話したのはさっきが初めてだ。彼女は聖殿の関係者以外の人間とは、話すことを禁じられているからな」
リートは驚いた。
「禁じられているって――どうして?」
「そういう決まりなんだ。人道的には褒められたことではないが、ヴォルヴァはわたしたちとは違う理の中で生きている存在だ。わたしたちの価値観や基準をそのまま当てはめるわけにはいかない部分がある」
「それはそうだけど……」
(彼女だって、僕らと同じ人間なのに。可哀想だって決めつけるのがよくないのはわかってるけど……)
リートが黙り込んでしまったので、ルイスが心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ?」
「……だれも呼ばないでくれって言われたのに、本当にいいのかなって。なにも問題がないなら、真夜中に僕の部屋まで来たりしないよ」
「しかし、このままでは騒ぎが収まらない。ユーリエが見つかったことは報告しなければ。話はそれからだ」
「うん……」
リートは力なくうなずいた。納得できずとも、確かにそれが最善の判断だ。
ルイスがソファに坐っているユーリエの前に屈み込む。
「ユーリエ。すまないが、ここにいることは連絡させてもらう。メルヒオルなら穏便に取り計らってくれるだろうから、なにも心配しなくてもいい」
ユーリエはなにも反論せずうなずいた。
「わかりました」
しかし、ルイスが外に出る前にノックの音が響いた。
「失礼しますよ」
入ってきたのは、紺のドレスに身を包んだ、四十代前半くらいの女性だった。知性を感じさせる切れ長の瞳が、眼鏡越しに鋭く二人を一瞥する。
「ゾフィー殿。なぜここに」
「ほかの部屋はすべて調べましたから。残るはこの部屋だけです」
リートは緊張しながらゾフィーと呼ばれた女性を観察した。どうやら、この人がルイスの言っていた監督官らしい。そのどこか高慢で威圧的な態度は、リートの通っていた学校にいる四角四面の教師たちに似ていた。
自分のしていることは絶対的に正しい。そう信じて疑わない人間の取る態度だ。
ゾフィーはリートたちの横をすり抜け、応接間のソファに坐っているユーリエにつかつかと歩み寄った。
「帰りましょう、ユーリエ」
しかしユーリエは動かなかった。下を向いたまま、ゾフィーのほうを見ようともしない。
「ユーリエ、わたしの言うことが聞けないのですか」
平静になろうと努めていたが、ゾフィーの声には隠しようのない苛立ちが滲んでいた。それでもユーリエは下を向いたまま動こうとしなかった。
ユーリエのことがだんだん可哀想になってきて、リートは口を挟んだ。
「あの、どうしても今じゃないといけないんですか?」
リートがそう言うと、ゾフィーが眉を吊り上げた。隣にいるルイスも少し驚いた顔をしていた。
「だって……どう見ても嫌がってるし」
「あなたには関係のないことです。それより、あなたはなぜすぐに人を呼ばなかったのですか」
ゾフィーにそう詰問され、リートはその剣幕に怯えた。
「そ、それは、ユーリエにだれも呼ぶなと頼まれたので……それに真夜中だったし、宿直はルイスじゃなかったし……」
リートがしどろもどろに理由を並べると、ゾフィーが腹立たしげな顔になる。
「だとしても呼ぶべきでした。あろうことかヴォルヴァを部屋に泊めるなんて」
「僕はなにもしてません。一緒の部屋で寝てほしいって言われたから、そうしただけで」
リートがむっとしてそう言うと、ゾフィーが顔色を変えた。
「なんですって? それは本当なのですか? 異性と同じ部屋で寝るだなんて」
「そうなのか、リート」
ルイスにまで問い詰められ、リートは慌てた。
「そ、そういう意味じゃなくて! ユーリエがソファで、僕は床で寝たんです。誓ってなにもしてません」
必死に弁明しながら、リートは心の中で憤慨した。なぜ部屋に一泊させただけで性犯罪者扱いされなくてはならないのだ。理不尽すぎる。
(それより、僕は部屋に不法侵入された被害者なんだけど!)
だが、その言い分はどの世界に行っても通用しないような気がした。
(……僕の対応が悪いんだろうな、たぶん)
「すみませんでした……」
リートは釈然としない気持ちでそう言ったが、ゾフィーはリートを無視してユーリエに近寄ろうとした。
しかし、ルイスがゾフィーの前に立ちはだかった。
「そこを退きなさい、ルイス。騎士であるあなたには関係ないことです」
「確かに関係ない。だが、本人の意思を無視して無理やり連れていくのを黙って見ていることはできない」
ルイスのどこまでも率直な言葉に、ゾフィーが目を剥いた。神経質そうな声音が一段と高くなる。
「意思ですって? ヴォルヴァに意思などありませんし、これからも必要ありません。大学でそう学びませんでしたか?」
「確かにそう習った。だがわたしはそうは思わない。彼女は自分の意志でリートのところに来たんだ」
ルイスがゾフィーを見つめた。
「そもそも、リヒトはユーリエに力を使うことを許している。それは、リヒトがユーリエにとって必要なことだと考えているからだ。そうでなければリヒトは力を使わせたりしない。あなたはリヒトの意向に逆らうというのか?」
ルイスの反論に、ゾフィーはぐっと押し黙った。
リートは意味がわからず首を傾げた。リヒトの意向とはどういうことだろう。
「リヒトの意向などと大層なことを――それは論理のすり替えです。わたくしが問題にしているのはユーリエが無断で、それも夜中に部屋を抜け出したことです」
「それを咎めるのは筋違いだ。そんなことをしてもなにも解決しない」
「抜け出した理由はこちらで聞きます。あなた方の指図は受けません」
二人が言い合っている最中、リートは勇気を出して口を開いた。
「あの、ユーリエの力は戻ったんですか?」
リートがそう訊ねると、ゾフィーの顔が一瞬強張ったが、すぐに戻った。
「それもあなた方には関係ないことです」
「……戻りません」
リートたちは声のしたほうを振り向いた。答えたのはユーリエだった。ゾフィーが動揺した顔になる。
「ユーリエ、なにを――」
「でも、あなたの部屋には入れました」
そう言ってユーリエは、じっとリートを見つめた。
リートは返答に困った。そう言われても、自分はなにもしていない。
困惑しているリートの横で、ルイスが口を開く。
「これはわたしの私見でしかないが……今回のことは、ユーリエの力が戻らないことと無関係ではないように思える」
気を取り直したゾフィーが冷たく笑う。
「愚かなことを……ユーリエを彼に預けたとして、それで力が戻るとでもいうのですか?」
「それはわからない。だが、ユーリエがリートを必要としているのは確かだ」
「必要としているですって? 彼になにかができると思っているのですか?」
「それはやってみなければわからない」
真面目な顔で答えるルイスに、ゾフィーが呆れた表情になる。
「人には最初からできることとできないことがあるのです。己の分を弁えない人間は、いつか痛い目に遭うもの」
「そうかもしれない。だがそれは、あなたが決めることではない」
ルイスになにを言っても無駄だと思ったのか、今度はゾフィーがちらりとリートのほうを見ながら言った。
「わたくしには、彼も迷惑しているように見えますが?」
痛いところを突かれ、リートは返答に窮した。
確かに、この状況に自分だけがついていけていなかった。
ユーリエの力が戻らないことに自分が関わっているなんて、そんなことは考えたくなかったし、自分になにかができるとは到底思えなかった。
それに、メルヒオルに連絡すると言っていたのに、自分を差し置いて勝手に話を進めてしまうルイスを恨んでもいた。
ゾフィーが勝ち誇った顔になる。
「悪いことは言いません。ユーリエを渡してください。これ以上の勝手を許すわけにはいきません」
「それは――」
できないとリートは思った。だが自分が一緒にいたからといって、ユーリエの役に立つとは思えない。
リートがなにも言えずにいると、ゾフィーがまた口を開いた。
「ヴォルヴァと普通の人間が生きる世界は違います。価値観も物事の見方もまるで違う。意思疎通を図るのも難しい。すぐに面倒を見きれず放り出したくなります」
眼鏡越しの切れ長の瞳がリートを睨む。
「あなたはいいかもしれませんが、傷つくのはあの子です」
あんまりな言いように、リートは自分でもなにを言うか決めないまま口を開こうとしたが、別の声が割り込んだ。
「それはそれでいいんじゃないかしら、ゾフィー。この世には絶対にわかり合えない人間がいるということは、知っておいて損はないもの」
声の主はエミリアだった。相変わらず、ミモレ丈のドレスに深靴を履いた姿で、開いたままの扉の外側に立っている。腕に教材を抱えているところを見ると、これから授業があるのだろう。傍らにはレーネを従えている。
エミリアが微笑んでゾフィーを見た。
「それならそれ用のつき合いをすればいいんだから。だれのこととは言わないけど」
エミリアの言葉にゾフィーが顔をしかめ、なんと不謹慎なという表情を作った。
「話は聞かせてもらったわ。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、扉が開いていたから」
そう言うとエミリアは部屋の中に入り、ゆったりとした足取りでゾフィーに近寄った。彼女が歩くたびに、ミモレ丈のドレスから白い足が覗き、それを見たゾフィーはなんとはしたないとばかりに眉をひそめた。対するゾフィーの格好はといえば、露出のまったくない地味な紺色のドレスで、まるで制服を着ているみたいだとリートは思った。
「殿下、女王になろうという方が、そのように傲慢な態度を取り続けるのはいかがなものでしょうか。人の上に立つ人間は常に謙虚で、慈悲深くあらねばなりません。人々に尊敬される人間は、いついかなる時も、どんな相手であろうと――」
「べつに尊敬されなくてもいいわ」
ゾフィーの苦言をエミリアはあっさり退け、空色の瞳をゾフィーに傲然と向けた。
「でも、わたしはこの国に住んでいる人たち全員の暮らしを守るためならどんなことでもするつもりだし、時にはそれを邪魔する敵と戦うことも恐れない」
そう言って不敵に笑うエミリアにゾフィーは顔をしかめたが、それも束の間、エミリアは一転してまたいつもの愛想のいい笑顔に戻った。
「ゾフィー、ここはいったん引き下がって、メルヒオルに意見を聞いてはどう? ユーリエが聖殿に帰りたくないのは明らかだし。彼女だって一日くらい、あなたの顔を見ずに過ごす時間が――いえ、お休みが必要よ。ここにはルイスもいるし、警備の面は安全だと思うわ。心配なら騎士を増やして強化すればいいし。それとも、聖殿を絶対空けてはいけない理由でもあるの?」
「殿下、あなたに直接の命令権は――」
「ないのはよくわかっているわよ。だから提案しているんじゃない。指揮系統を乱したくないのは共通しているんだから、お互い妥協しなくちゃ。それとも、今ここでメルヒオルを呼んで、事態を収拾してもらいましょうか。でもそうなったら、王宮は大騒ぎになるかもしれないわね。ユーリエが真夜中に部屋を抜け出して、リートの部屋に行ったことも公になってしまうかも」
ゾフィーが険しいという言葉では表現しきれないほど強張った顔で、エミリアを見据えた。
「わたくしを脅しているのですか」
エミリアが大真面目な顔になる。
「まさか。それならもっと直接的に言うわ。わたしはただ、ユーリエとリートのことを心配しているだけ。ユーリエのことは脱走じゃなくてただのお休み。そうしたほうが丸く収まるでしょう?」
エミリアの交渉の仕方にリートは内心舌を巻いた。ルイスの件といい、エミリアだけは敵に回したくないとリートは思った。
長い沈黙の末、ゾフィーは渋々といった表情で口を開いた。
「メルヒオル様に意見を伺って参ります」
「さすが、王宮一の才媛は決断が速いわ」
エミリアはにっこり笑うと、レーネのほうを見てうなずいた。レーネがさっと扉を開ける。
「というわけで、講義の時間だからわたしは行くわね。時間を守ることは相手への礼儀なんでしょう、ゾフィー?」
ゾフィーは顔をしかめ、足早に部屋を出ていった。
エミリアがリートに片目をつむってみせる。
「じゃあね、リート。休憩時間になったらまた来るわ」
ミモレ丈のドレスをひらりと翻し、颯爽と去っていくエミリアの後ろ姿を見送りながら、リートはほっと息をついた。
しかしそのせいでゾフィーを敵に回してしまったらしいと気づいて、リートは気が重くなった。
向こうの世界では、教師どころか両親と対立したこともなかったのに。
リートが部屋に戻ると、相変わらずユーリエは、ソファに坐ったままなにをするでもなく、ひたすらにうつむいていた。
「ユーリエ。ゾフィーは帰ったよ」
ユーリエが目を伏せる。
「申し訳ありません。わたしのせいで……」
「いいよ、そんなこと。それより、これ」
そう言ってリートは卓上から紙ナプキンに包んだパンを手に取り、ユーリエに差し出した。
朝食のときに、幾つか余計に貰っておいたのだ。
「朝からなにも食べてないよね?」
ユーリエは数秒じっとリートを見上げてから、ゆっくりとパンを受け取った。
「ありがとうございます」
パンをかじるユーリエを、リートはなんとなく観察した。食事をしているユーリエは、普通のどこにでもいる少女のように見えた。
「どうしてゾフィーと話したくないの? 君の保護者みたいなものなのに」
ユーリエはパンを手に持ったまま、しばらく考えているようだったが、小さく首を振った。
「わたしにもわかりません」
「わからないって……」
リートは困惑した。
「でも、ずっとこうしてるわけにはいかないよ」
リートはそう言ったが、ユーリエはまたうつむいて黙り込んでしまった。
