第27話 ルーツィア

「こっちだ」
 ルイスに導かれた先には、くりいろの髪を結い上げ、ラヴェンダー色のドレスを着た痩身の若い女性が待っていた。
 彼女のはかなげで繊細な面立ちを目にした瞬間、リートはまるで月のような人だと思った。
「リート、彼女がルーツィア・フォン・シュネーベル。わたしの婚約者だ」
 ルーツィアが静かにお辞儀した。
「お初にお目にかかります、リート様。お会いできて光栄です」
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです」
 リートが緊張しながら言うと、ルーツィアが不意にじっとリートの顔を見つめた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
 唐突な言葉にリートはどきりとした。
「ずいぶん緊張なさっているようなので」
 失礼を、と断りを入れてから、ルーツィアはリートの手を取った。
「手がずいぶん冷たいですし、まばたきの数も多いです」
「彼女には医術の心得があるんだ」
 ルイスの言葉に、リートは驚いた。
「父が王宮で医官をしておりましたので」
 そう説明してから、ルーツィアはそっとリートの手を離した。
「申し訳ありません、仕事柄、観察するのが癖になってしまっていて」
「気にしないでください。本当に緊張してたし。こういう人がたくさんいる場は苦手だから」
 リートがそう言うと、ルーツィアが淡く微笑んだ。
「わたくしもどちらかといえば苦手ですが、今日は楽しみにしていました。それなのに、遅刻してしまって申し訳ありません。時間通りに着きたかったのですが、急患ができてしまって。せっかくルイス様がメルヒオル様に頼んで馬車を手配してくださったのに、申し訳ないことをしてしまいました」
「気にしないでくれ。無理を言って来てもらったのはわたしだ。本来ならわたしが迎えに行かなければならなかったんだが」
 ルーツィアが慌てて首を振る。
「いいえ、そんな。ルイス様の役目は替えの利かないものですもの。そちらが優先なのは当然のことです」
 そう言ってから、ルーツィアはリートに柔らかく微笑んだ。
「ルイス様は、会うたびにいつもあなたのことを話してくださるんですよ」
 リートは少し恥ずかしくなった。彼はいつも自分のことを、どんなふうにルーツィアに話しているのだろう。
 いろいろおおに言われていたらどうしよう。ただでさえ、彼は思い込みが激しいのに。
「あの、ルイスの話は話半分というか、あまり信じないほうが」
「それはわかっているつもりです」
 ルーツィアの言葉にリートは思わず彼女をまじまじと見つめた。
「冗談です」
 そう言って控えめに笑うルーツィアに、ルイスとリートは思わず顔を見合わせた。
 舞踏に興ずる人々を眺めながら、ルーツィアが口を開く。
「殿下はシェーンドルフ卿といらっしゃるのですね」
「ああ、まだ正式にではないが、二人は婚約することになったそうだ」
「そうでしたか」
「このままミリィが大人しく結婚するとは、わたしには到底思えないが」
 渋い声を出すルイスに、ルーツィアが静かに微笑む。
「シェーンドルフ卿なら、殿下もお気に召すのではないでしょうか。けいは女性の扱いにけていると評判ですから。王宮の侍女にも愛好者がたくさんいるんだとか」
「やっぱりそうなんだね……」
 リートは衣装選びのときにいた侍女たちを思い出した。あれほど目を引く容姿をしていて、女性たちが放っておくはずがない。
「それにハーナル騎士団の中でも特に優秀だそうですし、女性だけでなくだれもが一目置く方だと。その上、室内遊戯では右に出る方がいないそうです」
 ルーツィアの言葉を聞きながら、リートはむなしくなってきた。彼と比べて自分に一つでもいいところがあるのだろうか。つくづく世の中は不公平だ。
「ずいぶん詳しいんだな。君は人のうわさ話には興味がないと思っていたが」
 ルイスが不思議そうな顔で言うと、ルーツィアは少し慌てた表情になった。
「わたくしではなく、診ている患者の方が皆さんそうおっしゃっていたので……申し訳ありません」
「どうして謝るんだ?」
「だって……ルイス様の前でほかの男性を褒めるなんて、不適切でした」
 ルーツィアが気まずげに両ほおに手を当ててうつむくと、ルイスが珍しくくすりと笑った。
「わたしが嫉妬したと思ったのか? そこまでわたしは狭量ではないのだが」
 ルイスがまったく意に介していないのを見て、安心したようにルーツィアは顔を上げると、はにかむように微笑んだ。
 リートがこの空気に耐えきれず咳払いすると、二人ははっとしたように黙り込んだ。
 リートはここにいても二人の邪魔にしかならない気がしてきた。
「しかし、わたしは彼にからかわれてばかりだ。わたしに嫌われたがっているとしか思えない」
 ルイスが顔をしかめて言うと、ルーツィアが驚いた顔になる。
「まあ、なんのためにです?」
「さあ、それがわかれば苦労はしないが。なんだ、やけに気にするんだな」
「心配なのです。ルイス様はすぐ敵を作ってしまわれますから…………」
 ルーツィアが神妙な面持ちでそう言うと、ルイスが苦笑した。
「大袈裟だな。命のやりとりをしているわけでもないのに。自分の意思を表明すれば、だれかと対立するのは当たり前のことだ。だからと言って、対立を避けているだけではなにも前に進まない」
「あなたがそういう人だということはわかっています。それが仕事のためだということも。ですが、今はリート様のためにもできるだけ余計なごとは――どうなさいました?」
 リートたちが微妙な顔をしたので、ルーツィアは首を傾げた。
 リートは慌てて口を開いた。
「ルーツィア、ルイスはよくやってくれてるよ。ルーツィアが心配するようなことにはなってないから。安心して」
「ならいいのですが」
 まだルーツィアは納得していないような顔だったが、それ以上は追及してこなかったので、リートは内心でほっとため息をついた。
「ルイス」
 声がしたほうをリートが振り返ると、そこにいたのはルイスと同じ上下白の礼服に身を包んだ、金髪に青い目を持つ壮年の男だった。
「アルフレート」
 そう男の名前を呼んだルイスの声は珍しく弾んでいた。
「リート、ソリン騎士団の団長を務めているアルフレート・フォン・ジングフォーゲル様だ。わたしに剣術を教えてくれた師でもある」
 アルフレートがお辞儀をした。彼はルイスよりもさらに背が高く、屈強な体つきをしていた。国一の剣士。エミリアはそう言っていた。
「あなたが噂の天啓者殿ですね」
 リートがうなずくと、アルフレートがルイスを見て微笑んだ。
「なにぶん前例がないことで、メルヒオルから話を聞いたときは驚いたが……彼のすることだから、なにか意味があるんだろうな」
「それはわたしにもわからない。だがわたしはメルヒオルを信じている」
 ルイスがそう答えると、アルフレートが神妙な表情になった。
「気をつけろ、ルイス。今もなにか不穏な事態が水面下で進行しているともかぎらない。原理主義者のこともあるし、警戒を怠るな」
「わかった」
 真剣な顔でルイスがうなずくと、不意にアルフレートが笑顔になった。
「それからまだ言っていなかったが、婚約おめでとう。わたしに勝つまでは求婚はしないと言っていたから、いつになることかと思っていたんだがよかった」
 ルイスが珍しく慌てた顔になる。隣ではルーツィアが驚いたように目をまたたかせていた。
「アルフレート、その話は今ここでしなくても――」
「今言わなくていつ言うんだ。なんだ、彼女に秘密にしていたのか?」
 アルフレートは演技ではなく、素で不思議がっているようだった。彼はからかうためではなく、真面目に祝福したつもりだったらしい。アルフレートはルイスよりもこういった人の心の機微に疎いようだとリートは思った。
「そういうわけではないが……」
 そういったきり、ルイスはきまり悪げに横を向いてしまった。
 そんなルイスを見ながら、彼にこんな顔をさせるなんて、さすが彼の師匠なだけはあるとリートは思った。
「こんばんは」
 また背後からかかった声にリートたちは振り向いた。
「メルヒオル」
 メルヒオルはいつもと同じような白いほう姿だったが、今日は肩に帯状の青い布を下げていた。
 メルヒオルはルーツィアに挨拶をしたあと、ルイスに向き直った。
「ルイス、少しリートと話がしたい。外してくれないか」
「わかった。行こう、ルーツィア」
「はい」
「二人で踊ってきたらどうだ?」
 アルフレートが二人のほうを見てからかうように言うと、ルイスは動揺したように一瞬動きを止めたが、咳払いしてから言った。
「……まだ仕事中だ」

「さっきはありがとう。いつも深靴ブーツだから感覚が狂ったみたい」
 エミリアがそう言うと、ミヒャエルが鷹揚に笑った。
「だれも気づいていないさ。ついでにリートの特訓の成果も拝見できればよかったんだが」
「昨日誘ったんだけど、残念ながら拒否されたの。身長差が気になるみたいでね。わたしのほうがリートより背が高いから」
 そのときのことを思い出したのか、エミリアがふふっと笑う。
「リートは面白いわ。最初はただの大人しい子だと思っていたけど、全然違うの。意外と気持ちをはっきり言うし、ルイスやユーリエのためにはいつも一生懸命だし、練習だって途中で投げ出さなかった。リートを見てるとね、ときどきとてもまぶしい気持ちになるの」
「わたしにとっては、あなたもじゅうぶんすぎるほど眩しい」
 そう笑顔で言うミヒャエルに、エミリアは肩を竦めただけだった。
「ほかの人が言ったらだとしか思わないけど、あなたが言うと、信じてしまいそうになるわね。でも、あいにくわたしは普通の女じゃないから――」
 そう言いかけたエミリアに、ミヒャエルがさりげない動作で顔を近づけ、囁いた。
「いや、あなたはとても女性らしい。気を引くために、わざと躓いた」
 エミリアは一瞬表情を硬くしたが、すぐににっこり笑った。
「どうしてそうだと?」
「最初はわたしに恥をかかせるつもりなのかとも思ったが、視線の先を辿ってみてわかった。あなたはいつもルイスを見ている。だからだれとも婚約せず、決闘して負けた相手と結婚するなどと言い出したんだ」
「それでわたしの弱みを握ったつもり?」
 エミリアが鋭い口調で言うと、ミヒャエルの口元からすっと笑みが消えた。
「やはり、わたしは信用されていないようだな」
「ええ。なにか目的があってリートに近づいたんでしょう?」
 しかし、エミリアに探るような視線を向けられても、ミヒャエルは微笑んだだけだった。
「そんな大それたものはないさ。それはあなたが一番よくわかっているだろう。わたしに声がかかるのは、名門出身なのに、どこの派閥にも属していないからだ。だが、わたしのような後ろ盾のない人間は、力のある人間にすがるしかない」
「それが本心だとは到底思えないわね」
「なら、わたしを排除するか?」
「いいえ。リートはあなたを気に入ってるもの。そんなことはしないわ。ただ残念だと思うだけ。だれかの力を借りなくても、あなたのことはわたしが守ってあげるのに」
 ミヒャエルが虚を衝かれた顔になる。
「わたしを? あなたが?」
「だって、わたしは女王になる人間ですもの」
 あっさりと言ってから、エミリアが首を傾げる。
「あら、わたし変なことを言った? それとも、女から男に言われるのは複雑?」
 ミヒャエルが苦笑いする。
「いや、ただ面食らっているだけだ。そんなことを女性から言われたのは初めてだから」
「わたしは本気よ」
「わかった。覚えておこう」
 エミリアはしばらく黙ってミヒャエルを見つめていたが、ふと口を開いた。
「さっきのことだけど、気を引くためというのは間違ってるわ」
 ミヒャエルがわずかに片眉を上げる。
「では、なんだと?」
「さあ。あなたを利用したのは確かだけど……自分でもよくわからない」
 言いながら、エミリアは自分の履いているハイヒールに目を落とした。空色の瞳に影が差す。
「やっぱりみっともないわね。大人の世界に足を踏み入れてから、わたしはとても嫌な人間になってしまった気がする」
「だれもが経験することだ」
 ミヒャエルが静かに答えると、エミリアがそっと目を伏せた。
「そうね。でも、彼はいつも変わらないの」
 彼と言う言葉に、エミリアを見つめていたミヒャエルの瞳がかげり、ふっと遠くを見つめた。その視線の先には、談笑しているルイスとルーツィアの姿があった。
「……変わらないものなど、どこにもありはしないさ」