第49話 越えられない壁

「トリスタン!」
 ハーナルの騎士が数人、トリスタンを取り囲んでいる。今にも連行されそうな様子だった。トリスタンが主人の姿を認め、驚いたように振り返る。
「王女」
「トリスタンはわたしたちとずっと一緒にいたわ。彼には無理よ」
 答えたのはエドゥアルトだった。
「舞台を警備していた兵士が、現場から近衛騎士が立ち去るのを見ているのです」
「持ち場を離れた近衛騎士は彼一人です。しかも彼は、爆発が起きたとき貴賓席にいなかった」
 リートは申し訳ない気持ちになった。
 それは自分がユーリエのところに行きたいと言ったからだ。自分の取った行動のせいで、まさかこんなことになるとは思わなかった。
 しかし、エミリアは騎士たちを相手に一歩も引かなかった。
「ごく短い時間よ。その間に舞台に仕掛けるなんて不可能だわ」
「ほかの貴族の証言によると、殿下も途中で席を外されたそうですが?」
 エミリアが言葉に詰まる。
「それは――」
「わたしが一緒にいた」
 そこにいたのは、驚いたことにミヒャエルだった。エドゥアルトがミヒャエルを訝しげに見る。
「二人でなにを?」
「なにを? なことを訊くんだな。婚約関係にある男女がすることなんて決まっているだろう」
 そう言ってミヒャエルがするりとエミリアの腰に手を回したので、リートは思わず赤面した。エミリアが隣で不服そうな顔をしていたので芝居だとわかっていたが、彼の仕草があまりに自然なので、それが事実に聞こえてしまう。
「だが失敗した。わたしたちは見張られていたからな。そうだろう、トリスタン」
 ミヒャエルがそう言うと、トリスタンが静かに息を吐いた。
「気づいていたのか」
 事の成り行きに不満そうにしていたエミリアが、一転して信じられないという顔でトリスタンを見る。
うそでしょ?」
 トリスタンが静かに頭を下げる。
「申し訳ありません。王妃様のご命令でしたので」
 エミリアが額に手を当て、お母様ったら信じられない、ありえないとぶつぶつ文句を言っている横で、トリスタンがまた口を開く。
「王女たちと同じ場所で、わたしも爆発音を聞きました」
「というわけだ。残念だったな、エドゥアルト。わたしを出し抜きたかったら、もっとうまくやることだ」
 そう言ってにこやかに笑うミヒャエルを、エドゥアルトは憎々しげに見つめたあと、ほかの騎士たちを連れて去っていった。
 彼らが立ち去ってしまってから、エミリアが渋々と言った様子で口を開いた。
「すごく不本意だけど、ありがとう」
「借りを返しただけだ」
 ミヒャエルが穏やかな表情でエミリアを見る。ほんの一瞬、グレーの瞳と空色の瞳が無言で語り合った。
「話をしてもいいか? 今度は、だれにも見られていないところで」
「ええ」
 二人のやりとりをまるで観客のように見守っていたリートは我に返り、慌てて言った。
「じゃあ僕は部屋に戻ってるね」
 エミリアが微笑む。
「あなたと話せて楽しかったわ。トリスタン、リートを部屋まで送ってあげてくれる?」
 トリスタンがうなずく。
「承知しました」

 廊下を歩きながら、リートは口を開いた。
「あの、ごめんなさい。僕が頼んだせいで、あなたが疑われるなんて思わなくて」
 トリスタンは少し驚いたような顔になったが、その場で立ち止まると、真剣な表情でリートを見つめた。
「あなたのせいではありませんよ。それにもし連行されていたとしても、わたしはあなたを恨むような狭量な人間ではありません。ルイスも同じです。それがわたしたちの仕事なのですから」
「うん、ありがとう」
 そうやって、いつでも自分は悪くないと言ってくれることがリートはうれしかったが、同時に不安にもなった。今の自分にそんな価値があるのだろうか。自分は勝手なことをして、周りを振り回してばかりなのに。
 リートの部屋の前に着くと、トリスタンが一礼した。
「わたしはこれで失礼いたします」
 リートはトリスタンに礼を言い、扉を開けた。

「リート」
 椅子にすわっていた影が立ち上がる。リートの予想通り、そこにいたのはルイスだった。
「おはよう。レーネさんの書き置き、見てくれた?」
 リートがなるべく普段通りに話すと、ルイスがうなずいた。
「ああ。ミリィの部屋に行っていたのか?」
「うん。ちょっと話をしてたんだ」
「そうか」
 それきり、二人のあいだに沈黙が流れた。
 先に口を開いたのはルイスだった。
「リート。確かに昨日のわたしは冷静さを欠いていた。だが、わたしは君の言っていた言葉の意味がわからない。だからそのことはミリィに謝れない」
 リートはなんと言っていいかわからず、下を向いた。
「……そう」
 わからないと言う彼の瞳は子どものように純粋で、その率直さがリートの心を深くえぐった。形だけの謝罪をすることには意味がない。むしろ相手に不誠実になる。彼はそう考えているのだ。
 だったら黙っていればいいのにとリートは心の片隅で思ったが、すぐに思い直した。
 そうすることを選ばないからこそ、彼は彼でいられるのだ。
 ルイスは正直だ。だからこそ、こんなにも自分は打ちのめされている。
 嘘偽りがないということは、時には残酷なことでもあるのだと、リートはこの時初めて知った気がした。
 ここにいるのが自分ではなくエミリアだったら、彼女はなんと答えただろう。
 リートは顔を上げてきっぱりと言った。
「ルイス。なら、もうこの話はしない。君も困るし僕も困る。だからもうやめよう」
 わかり合えることばかりじゃない。
 傷つくだけなら、距離を置かなければ。
 たぶん、人とつき合うにはそういうことが必要なのだ。リートはそう思った。
 その時、ルイスの瞳がかすかに揺れた気がしたが、リートは気づかないふりをした。
 青に金のこうさいが散った瞳がふっと閉じる。
「……君がそれでいいなら、わたしもそれでいい」
 リートは片手をぎゅっと握りしめた。
 彼とのあいだにある越えられない壁を、リートはこの時はっきりと突きつけられた気がした。

 その頃、エミリアの自室では、リートが掛けていた椅子に今はミヒャエルが坐っていた。向かい側の椅子に坐っているエミリアが菓子を食べる手を止め、ミヒャエルを見る。
「それで、なんの話?」
「仲直りをしようと思って」
「隠し事を話してくれる気になったとか?」
 口調は気軽だったが、エミリアの視線は鋭かった。
 ミヒャエルは真っ向からその視線を受け止めた。
「君はなにが知りたい?」
 少し考え込んでから、エミリアが口を開く。
「昔の話を聞かせて。あなたが子どもの頃の話」
 ミヒャエルが片眉を上げる。
「聞いても面白くないぞ」
「それはわたしが決めることだと思うけど?」
 エミリアがそう言っておどけたように口元を上げたが、目は真剣だった。
 ミヒャエルはしばらく黙っていたが、観念したように息を一つ吐いた。
「昔のわたしはとても大人しい人間で、外で遊ぶより部屋の中でガブリエレと遊んでいるほうが好きだった。それに容姿のせいで小さい頃は女の子みたいだと馬鹿にされた。だが成長したと思ったら、今度は年上の女性に迫られて大変だった」
 エミリアが目を丸くしている横で、ミヒャエルが続ける。
「それをかわすために今の振る舞いを身につけただけのことだ。べつに好きでやっているわけじゃない。仕方なくだ。まあ、愛想がいいほうがなにかと便利ではあるんだが。それに昔からたいして努力をしなくてもなんでもできるのが嫌だった。なにをしてもつまらなくて冷めていた」
 そこで言葉を切ると、ミヒャエルは口の端を上げてエミリアを見た。
「共感できないだろう?」
 エミリアがほお杖をついて笑う。
「そうね。でも想像はつく。確かにそれってとてもつまらない。努力が報われたって感じることもないし、達成感も味わえないってことでしょう? もし最初からうまくできたら、わたしは今もこうやって剣を握っていなかったと思う。できるかできないかはともかく、やってみたくてわたしは剣を握ったから」
 ミヒャエルが自嘲するように笑う。
「そんなものさ、わたしは。人が言うほどたいした人間じゃない。むしろつまらない人間なんだ。だからときどき君たちがうらやましくなる」
 エミリアを見つめるミヒャエルのグレーの瞳がまぶしそうに細まった。
「君たちはいつも自由だ」
「それはどうかしら。自由でも欲しいものを手に入れられるかはべつによ。最近よくそう思うの。思うとおりにやっても届かないものはある」
 そこまで言ってエミリアは首を振った。両耳の青い耳飾りが揺れる。
「いや、逆ね。きっと、思うとおりにやってしまうから届かないの。悲しいかな、それがわたしの性」
 そう言いながらエミリアは遠い目をしたが、またミヒャエルを見た。
「もう一ついていい?」
「なんでも」
 そう言ってミヒャエルは、優雅な仕草で一口紅茶を飲んだ。
「好きだったのに、どうして別れたの?」
 その瞬間、ミヒャエルがすべての動きを止めた。
 それはたった数秒のことだったが、おそろしく長い数秒だった。
 持っていたカップをゆっくりと受け皿に戻し、ミヒャエルが口を開く。
「……彼女に好きな人ができたんだ」
 エミリアが首を傾げる。
「それは相手の理由でしょう? あなたはそれでどうして別れようと思ったの? ……答えたくないならいいんだけど」
 深入りしすぎたと思ったのか、エミリアは最後にそうつけ加えた。
 ミヒャエルはしばらく考えているようだったが、やがてぽつりと言った。
「一緒にいても、わたしは彼女を傷つけることしかできないと気づいたからだ」
「愛していたのに?」
 ミヒャエルが静かに首を振る。
「わたしは愛するということがどういうことなのかわかっていなかった。正直に言えば今もよくわからない」
 ミヒャエルは自嘲するようにふっと笑ってから、エミリアに視線を向けた。
 そのまなざしはいつもと違って真剣だった。
「……やめておくなら今のうちだぞ、エミリア」
 エミリアはしばらく黙ってミヒャエルを見つめていたが、下を向いた。
「だとしても、あなたが女王の配偶者にさわしいのは変わらないわ。能力だけで評価されてもあなたは複雑なのかもしれないけど」
「いや、いいんだ。それがわたしの役割ならわたしはそれに応える」
 そう言ってミヒャエルがいつも通り穏やかに微笑むと、エミリアの瞳が微かに揺れたあと、そっと閉じられた。
「……ありがとう」