ミヒャエルの聴取が終わったあと、リートの部屋では、例によってまた四人が集まっていた。
「議会が荒れているようだ。ハインリヒと連絡を取るのをやめてしまったから、わたしも正確なところはわからないが、どうも状況は芳しくなそうだ」
ミヒャエルがそう言うと、エミリアがつまらなそうな顔で皿から菓子を一つ摘んだ。
「どうせ、メルヒオルのせいにするんでしょう。ハインリヒって手堅いけど、面白みに欠けるわよね。それで、メルヒオルを追い出したあとでベギールデを潰して、全部自分の手柄にするつもりなのよ」
エミリアの話を聞きながら、リートはそれはありえそうなことだと思った。
ブロスフェルト卿だって、きっとベギールデを利用したあとで切り捨てるつもりだったに違いない。
「それはそうと、聖殿に押し入ったのはいったいだれだったのかしら」
エミリアはそう訊ねたが、だれも答えを返そうとしなかった。
男の顔を見たのはリートとユーリエ、それにルイスだけだったが、それだけだ。
男は名乗らなかったし、身元がわかるような物も落としていかなかった。
「今のところわかっているのは、二十代前半の男で、金茶の髪に目が琥珀色。そしてソリンの現役騎士を破るほど剣術が達者というだけだからな。探しているが、今のところそれらしい目撃情報はない」
ミヒャエルがそう言うと、ルイスがぴくりと眉を上げた。
「それはわたしへの嫌味か、ミヒャエル」
「わたしは事実を言っただけだ」
「きっと、聖殿の件はベギールデじゃなくて、ハインリヒがメルヒオルを陥れるために仕組んだのよ。その男は金で雇われていたの」
エミリアが二人のやりとりを無視して自分の推理を披露したが、リートは首を捻った。
「それは違うと思うな。彼は祝日で王宮の警護が手薄なのを知ってたから忍び込んだんだ。たまたまユーリエの千里眼に引っかかったから発覚したけど、それがなければだれも彼の存在に気づかなかったんじゃないかな。だって、入り口の近衛騎士は気絶させられてただけだったし」
「だとしたら、その男には明確な目的があったということになるな。でなければわざわざ忍び込もうとはしない」
ミヒャエルがそう言うと、エミリアが怪訝な顔になった。
「どうして忍び込む必要があるの? あそこにはお金になるような物はなにもないのに」
「それはわからないけど……それより僕が知りたいのは、彼がどうやってエヴェリーンの結界を破ったのかってことと、どうしてあそこに隠し通路があると知ってたかってことだよ」
リートはそのことが気になって仕方なかった。
あれからいろいろ考えてみたが、未だに納得のいく答えは出ていない。
「失礼いたします」
その時、部屋に入ってきたのは法衣を着たメルヒオルの秘書だった。
「メルヒオル様からです」
「ありがとう」
そう言って、リートは差し出された本を受け取った。
秘書が退出してから、エミリアが興味津々という顔でリートの手にある本に視線を注いだ。
「それはなに?」
「メルヒオルに今年のユストゥスとエヴェリーンの結末を知りたいって頼んだら、台本を手に入れてくれたんだ」
「そうだったの」
「でも僕、文字は覚えたんだけど、まだ文章が読めなくて……」
リヒトガルテンで用いられているリヒタール語は、リートの世界の共通言語と同じ二十四文字(大文字と小文字を合わせると四十八文字)で、それらを組み合わせて単語にする表音文字だった。
そう、覚えるのはたった四十八文字でいい。
しかし、リートは表音文字そのものが苦手だった。母国語は表意文字だったから、その文字を見ればある程度意味がわかったが、表音文字は、単語の綴りと意味の両方を覚えなければ言葉として使うことができないのだ。
不幸なことに、リートはそれがどうにも不得意なようだった。
その上、この世界にはリートの母国語で書かれた書物が存在しないため、わからない単語があっても辞書を引くことができない。
「じゃあ、せっかくだからわたしたちで続きをやりましょうよ。あの時はどこまでいってたかしら」
エミリアがそう言うと、ルイスが即座に答えた。
「第二幕第四場までだ。エヴェリーンがユストゥスの手を取ろうとすると、そこにフリーデリケとゴットフリートが登場する」
三人が台詞を読んでいる横で、リートは、登場人物たちが話す場面を思い浮かべながら聞いていた。
大貴族の令嬢フリーデリケが、敵意に満ちた冷たいまなざしをエヴェリーンに向ける。
「わたくしは知っているのよ、エヴェリーン。おまえが聖女のふりをした悪女だってことをね。みんなわたくしを悪女呼ばわりするけれど、わたくしはいつだって自分の望みに忠実なだけ。でもおまえにはそうする勇気がない。おまえはなにもせず、なにもかも失うのよ」
「フリーデリケ様。わたしは最初からなにも持っていません。ですから失うこともありません」
エヴェリーンが静かにそう言うと、フリーデリケが狂ったように高笑いする。
「それを聞いてこの男はどう思うかしら! おまえは残酷な女だわ、エヴェリーン!」
隣にいたゴットフリートが優しい口調で語りかける。
「エヴェリーン、この男は君を騙して自分だけのものにしようとしているんだ。君はだれのものでもない。この国のヴォルヴァだ。わたしは王太子として君を守りたいんだ」
「まあ、心にもないことを! あなたはいつもこの女のことしか見ていないというのに!」
フリーデリケが軽蔑した目つきで嘲ると、ゴットフリートが苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「それは誤解だ、フリーデリケ」
「ならばこの男を今すぐ牢屋に放り込んでください」
「わかった。この男を連れていけ」
「離せ! エヴェリーン!」
「ユストゥス!」
場面が変わり、侍女テレーゼの導きで、エヴェリーンが牢屋に入れられたユストゥスに面会していた。
「ユストゥス、わたしは本当は残酷な人間なのかしら。わたしはあなたを傷つけることしかできないの?」
「そんなふうに思ったことは一度もない。君と離れるほうが傷つく。悪いのはわたしだ。君を愛したわたしのせいだよ」
「それは違うわ、ユストゥス。それに、わたしはまだあなたに大事なことを言っていないの……」
「言わなくていい。君がそれを選んだなら、わたしは君の意思を尊重する。わたしは君を思うことができればそれでいいんだ」
「やっぱりわたしは残酷な人間なのね、ユストゥス。わたしは正しいかもしれないけれど、あなたのためになにもしてあげられない……わたしには、間違う勇気がない……」
「目を開けて、ユストゥス。こんな形であなたに言いたくなかった。あなたに届かないなら意味がないの。あなたが生きていないなら……どうしてわたしだけが生きているの? 残酷なわたしだけが」
「これで終わり?」
リートが拍子抜けしていると、エミリアがうなずいた。
「ええ。それにしても、あなたってほんとに演技力がないわね。格好良いユストゥスが台無し」
「仕方ないだろう。台詞に共感できないのだから演じようがない。なぜユストゥスは言わなくていいと言いながら、エヴェリーンと離れようとしないんだ? それでは死んでしまうのに」
エミリアが呆れた顔でルイスを見る。
「共感できなくても、それっぽく演じればいいでしょう? 想像力を働かせなさいよ」
「ミヒャエルがユストゥスをやればよかったのに」
リートがそう言うと、ミヒャエルが盛大に顔をしかめた。
「やめてくれ。そんな歯の浮くような台詞は真顔で言える気がしない。むしろ笑いが止まらなくなりそうだ」
台詞を言いながら息も絶え絶えに笑うミヒャエルを想像して、リートは納得した。
役を割り振るとき、ミヒャエルがすぐさまゴットフリートを取ったのはそれが原因だったらしい。
「普段わたしに散々言ってるじゃない」
「わたしはいつも事実を言っているだけだが?」
ミヒャエルがそう言って微笑むと、エミリアが困ったように肩を竦めた。
リートは二人のやりとりを丸ごと無視することに決め、なにも聞いていなかった体裁で口を開いた。
「ミリィ様は上手だね」
リートは感心しながらエミリアの演技に聞き入っていた。エミリアは聖女エヴェリーンと悪女フリーデリケを見事に声で演じ分けていた。
「女はみんな俳優なのよ」
そう言ってエミリアがリートに片目をつむってみせると、ミヒャエルが苦笑した。
「確かにそうだな。そして男は馬鹿だから、演じているのは自分だけだと思っているんだ」
「もしくは、そうとは知らず踊らされているのよ」
舞台俳優並みに容姿の整った二人のやりとりを見ていると、リートはいつの間にか自分が、劇場の客席から舞台を眺めている観客になったような気がした。
「……そういうものかな」
男女の関係がリートにはまだよくわからなかった。
「なら、あなたはまだ舞台に上がっていないということよ」
そう言って微笑むエミリアに、リートは首を傾げた。
「それってなんの舞台?」
しかし、エミリアもミヒャエルも意味深に笑うだけで答えてくれなかった。
「それにしても、今年は面白い解釈だな。エヴェリーンの優柔不断さを前面に出して、フリーデリケをただの悪女に描かないとは」
ミヒャエルがそう言うと、ルイスがうなずいた。
「確かにそうだな。いつもなら、エヴェリーンは信仰心の厚い高潔な女性として登場する」
「毎年よく違う解釈を思いつくわよね。それだけ救いようのない関係だったってことかもしれないけど」
「おめでたい行事なのに、どうして悲劇をやるのかな」
リートはふと疑問に思ってそう言うと、ルイスが首を傾げた。
「エヴェリーンは個人的な恋愛感情より、リヒトへの信仰を選んでいるのだから、降臨祭には相応しいんじゃないか?」
エミリアが皮肉っぽい笑顔をルイスに向ける。
「いかにもあなたの言いそうなことね。でも、恋愛か信仰か選ばなきゃいけないなんて、そんなの古いと思うわ」
「僕もそう思うな。リヒトは心が狭いよ」
リートがそう言うと、ミヒャエルが笑った。
「リート、それはリヒトの心が狭いんじゃない。脚本を書いた人間の心が狭いんだ」
ルイスが不可解だという顔になる。
「なぜどちらか選ばせることが、心が狭いことになるんだ? 結局どちらかしか選べないだろう」
「あなたは迷わずどちらか選べるものね。どうせあなたは、ユストゥスもエヴェリーンも馬鹿だと思っているんでしょ」
「そんなことは思っていない。ただわからないだけだ」
エミリアとルイスの応酬をリートはひやひやしながら聞いていた。
エミリアの言い方は明らかに棘があったが、ルイスはまるで気づいていない。
ミヒャエルがなにも言ってくれないので、リートは話題を変えることにした。
「この話って、登場人物の名前以外はほとんど創作なんだよね」
「ええ。だって本当に起きた事件は悲劇だし。でも、エヴェリーンがリヒト原理主義者に襲撃されたのは本当よ。そのときに助けた騎士の名前がユストゥスだったんですって。それでこの話を思いついたんじゃないかしら」
エミリアが気を取り直してそう言うと、ルイスもうなずいた。
「わたしもメルヒオルからそう聞いた。実際の記録にもユストゥス・フォン・グライムというソリンの騎士は存在する」
ミヒャエルがルイスに向かって肩を竦めた。
「おまえの大先輩というわけだな」
三人の話を聞きながら、リートは違和感を覚えていた。
なんだろう。なにかが自分の中で引っかかっている。
しかし、リートがそのなにかに手を伸ばす前に、エミリアが口を開いた。
「でも、ゾフィーが反対している理由がまさかエヴェリーンにあったとはね。もう百年も前の話なのに」
「メルヒオルもそう言ってたよ。それに、エヴェリーンが死んだあとも人と関わったヴォルヴァはみんな心を病んでしまったって」
「教訓を生かさないからそうなるのよ。エヴェリーンの事件があってから、国は聖殿と距離を取るようになったけど、聖殿は前よりも監視の厳しい閉鎖的な場所になってしまった。人との関わり方がわからないんだから、心を病むのは当然よ。わたしが女王になったら、聖殿をもっと人と交流のある場所にしたいわ」
しかし、リートはエミリアの話をほとんど聞いていなかった。
リートはもう一度さっきの状態に戻ろうと試みたが、うまくいかなかった。
あの時自分の前にあった光は、嘲笑うようにするりと消えてしまった。
