リートは、ユストゥスとエヴェリーンの復元された台本を読みながら、ぼんやり考え込んでいた。
それは、ルイスの暗誦する内容をリートが母国語で書いたものだった。
いつもの自分なら、だれかの記憶に頼ったものなど信用しなかった。
人間の記憶など、主観だらけな上にあやふやで、まったく頼りにならない。今まではそう思っていた。
だがルイスは違う。ルイスの記憶は正確だ。台本の一言一句に至るまで、リートはルイスの言葉を信じていた。
そうだ。自分はルイスを信頼している。
どうして自分はいつもミヒャエルではなく、ルイスを選んでいるのだろう。
リートは、興味を持ったことについては常に絶え間なく思考を巡らせるのが常だったが、自分のことに関しては深く考えず、忘れてしまうことのほうが多かった。
しかし、この問題に関しては沈思していた。
どうしても、答えを出さなければならない気がした。
今まではどちらかといえば、リートはミヒャエルの考え方に共感することのほうが多かった。リートはミヒャエルの隙のない言動や、頭の回転の速さや、予測の正確さに憧れていた。それにひきかえ、ルイスとはいつも対立したり、諌められたりしてばかりで噛み合わなかったし、彼の融通の利かなさに呆れてもいた。
(でも、それがよかったのかな?)
だが、なぜそれがよかったのだろう。
これではまだ事実を並べただけだ。
そこからもう一歩踏み込まなければ、答えは出ない。
(そこからなにが言える?)
ルイスの凛とした声が、まなざしが、リートの胸の裡に問いかける。
(僕にとって、君は――)
その時、ノックの音が響いてリートは我に返り、慌てて返事をした。
入ってきたのはエミリアだった。
「こんにちは、リート」
「……こんにちは」
挨拶を返しながら、リートはこうして自分の部屋で彼女と二人きりで会うのはずいぶん久しぶりだと思った。
いつものように、レーネが用意してくれた焼き菓子を食べながら、リートとエミリアはお茶を飲んでいたが、二人とも長いあいだ無言だった。
ここにルイスがいないのは、やはり変な感じだとリートは思った。いつもなら傍らにはルイスがいて、エミリアが過激な発言をするたびに諫めるのが常だったし、彼女はそんな真面目なルイスの反応をからかって遊んでいた。
「ルイスをクビにしたってほんと?」
不意にエミリアに訊ねられ、リートは鼓動が一瞬跳ねるのを感じた。
彼女はそのことを問い詰めにきたのだろうか。
「……うん。したよ」
リートが慎重に言うと、エミリアがにやりと笑った。
「やるわね、リート」
思いがけない言葉に、リートは思わず笑みを漏らしてしまった。エミリアにそう言われると、心が軽くなるような気がした。
「僕らは仲良くなりすぎたからね」
「そうね。あなたたちって、主人と騎士っていうより年の離れた兄弟みたいだもの」
「だから一緒にはいられないんだ。僕にとってルイスは、騎士よりもっと大切な存在だから」
リートは言葉を続けようとして一瞬ためらった。この言葉を言うのは少し勇気がいった。
「……好きだから、一緒にいるのがつらいんだ」
リートの言葉をエミリアは黙って聞いていた。
笑顔を消し去った彼女を見るのは、なんだか変な感じだとリートは思った。
エミリアの楽しげな表情が演技ではないとリートは知っていた。リートの前で、エミリアは決して暗いところを見せない。おそらく、彼女はだれかに気を使われるのがいやなのだ。それよりも、彼女は周りに気を配っていたい性格なのだから。
ルイスとミヒャエルが反目し合っていても、部屋の中がギスギスした雰囲気にならないのは、エミリアがいてくれたおかげだとリートは信じていた。
リートはふと気になって、エミリアの足元を見た。彼女はいつもの深靴ではなく、ハイヒールを履いていた。
エミリアはこれからどうするのだろう。リートはなぜかそんなことを思った。
「もう深靴は履かないの?」
リートがそう訊ねると、エミリアが小さく笑った。
「いつまでも走り回っていられないから。王女は王女らしくしないとね」
リートはしばらく考えたあと、ぽつりと言った。
「……そういうものかな。らしいとからしくないって、そんなに大切なことなのかな」
リートはエミリアのほうを見た。
「ミリィ様。僕はね、自分らしさについては、あまり悩んだことがないんだ」
自分はあまりにも周りの人たちと違っていて、だれも自分に似ていなかったから、たいして悩む必要がなかった。
だが、そのせいでリートには居場所がなかった。
「それよりも、僕は普通になりたかった。悪目立ちしたくなかった。だから、向こうではなるべく目立たないように、ずっと優等生らしく見えるように振る舞ってた。でも全然駄目だった。そのせいで、僕は前より孤独になった。作りものの自分を維持するのに必死になってるうちに、気づいたら僕はどこにもいなくなってた。自分でいるのが怖くて、だれにも素の自分を見せられなくなってた」
だからきっと自分はだれとも話せなかったのだと、リートは思った。
話したら、自分が普通ではないことがわかってしまうから。
そんな自分を知られることが怖かったから。
「でも、こっちに来て気づいたんだ。僕はみんなが持ってるようなものは、なにも欲しくなかったんだって。自分でも呆れるけど、考えることさえできれば、僕はほかになにもいらないんだ。でも、普通じゃなきゃ駄目なんじゃないかって、自分で勝手に思い込んでた」
「勝手に……?」
エミリアが繰り返すと、リートは深くうなずいた。
「そう。ただの思い込みだったんだ。大事なのはミリィ様の言ってたとおり、自分がどういう自分でいたいかってことだったのにね」
リートはそう言いながらうつむいた。
そのことに気づくのに、自分はずいぶん時間を費やしてしまった。
「ミリィ様は王族だし、僕と違って自由にできないことも多いと思うけど……でも、ミリィ様は今の自分に納得してるの?」
リートはそう言って、エミリアをじっと見つめた。
エミリアは答えなかった。
言いすぎたかもしれない。そう思って、リートはそれ以上追及するのをやめた。
「僕は、大人しくお姫様をやってるミリィ様より、いつも元気で言いたいことを言ってて、細かいことを気にしないミリィ様のほうが好きだよ」
リートがそう言うと、エミリアが少しだけ口元を上げた。
「お節介じゃなかった?」
リートは首を振った。
「そういう人もいるかもしれないけど、僕はそういうところにいつも助けられたよ」
「ありがとう」
エミリアが微笑んだ。それはいつもの愛想のいい笑い方ではなく、柔らかで自然な微笑み方だった。しかし、晴れた空が急に曇ったときのように、エミリアの瞳にふっと影が差した。
「……でも、わからないの。どうすればいいのか」
「ミリィ様がしたいと思うことをすればいいんじゃないかな。ここに来てすぐの頃、ルイスに言われたんだ。仕事のために仕事をする、助けたいから助ける、優しくしたいから優しくする。なぜそれ以外の理由が必要なんだって」
リートはその言葉が気に入っていた。
そうしたいと思う気持ちに、理由なんて必要ない。
今までずっと自分は、あれこれ理由をつけてやらないですむように言い訳をしていた。これ以上傷つかなくてすむように、自分に嘘をついていた。
「それで拒絶されてしまったらつらいけど、後悔はせずにすむと思うんだ」
エミリアはしばらく考えている様子だったが、静かに微笑んだ。
「……そうね。ありがとう、リート」
菓子をすべて食べ終えてから、エミリアは立ち上がった。
「そろそろ行くわ。勉強しないと。ゾフィーは人が悩んでようが、宿題を減らしてくれるような人じゃないし」
「明日もこの時間に来る?」
リートがそう問うと、エミリアが首を傾げた。
「どうして?」
「明日は月命日だから、朝からライナスのところに行くんだ。すぐに帰ってくると思うけど」
ライナスの名前が出た瞬間、エミリアの表情が硬くなったのがリートにははっきりわかった。
この王宮で、リートの前でライナスの話をする人間はいない。
だれが決めたわけでもないが、そういうことになってしまった。
「そう。なら、ライナスに伝えておいて。あなたとは話したこともあるのに、葬儀に出られなくてごめんなさいって」
「うん、わかった」
エミリアを見送りながら、リートはふと思った。
たとえ自分が傷ついても言い訳しない。ルイスのそういうところが自分は好きなのかもしれない。
たとえうまくいかなくて自分が傷ついたとしても、相手を思う。
それは覚悟がなければできないことだ。
(でも、僕にはそれができていない)
そんな自分が、あんなことをエミリアに言ってよかったのだろうか。
自分はそんな、だれかに説教できるような偉い人間ではないのに。
(でも、僕はいやだったんだ)
自由闊達な彼女が、昔の自分のように、本来の自分を押し込めて過ごしている姿を見たくなかったのだ。
