次の日の朝、リートはエミリアに言ったとおり、ライナスの眠る墓地を訪れていた。
「久しぶり」
あのときにはなかった真新しい墓石の前に、リートは花を手向けながらその場にしゃがみ込んだ。墓石には、彼の名前と生没年がリヒタール文字で刻まれている。
「ミリィ様が君に謝ってたよ。葬儀に出られなくてごめんなさいって」
リートはそう言ったあと、すぐにうつむいた。
「なら、僕も謝らなきゃね。守ってもらったのに、君を見送れなかったから」
あの時の自分は、ライナスの死を受け入れることができなかった。
そんなことができるほど心に余裕がなかった。
「ルイスが心配だよ、ライナス。でも僕にはなにもできないんだ。君はどうすればいいと思う?」
リートはそう問いかけ、しばらく黙り込んだ。しかし、当然ながら答えはなかった。
「わかってるよ。自分で考えなきゃいけないんだよね、きっと。でも苦手なんだ。君は僕を励ましてくれたけど、僕にはそれができない」
こんなときになにを言っても仕方ない。救う言葉などあるはずがない。
どうしても、そんな乾いた考え方をしてしまう。
ライナスが死んだときだってそうだった。
大切なだれかがいなくなった悲しみを癒やせる言葉など、どこにも存在しない。
言葉にしてしまえば、なにもかもが薄っぺらくなりそうで、リートはなにも言いたくなかった。
リートはしばらく無言で墓石の前に坐り込んでいた。
だが、ここでこうしていても仕方がなかった。
「……帰るよ。また来るね、ライナス」
そう言ってリートは立ち上がった。
「行こう、ヴェルナー」
リートはヴェルナーを伴って歩きだした。来たときには、墓地にはだれもいなかったが、リートたちは途中で侍女を連れた貴族と思しき若い女性とすれ違った。
リートは少し訝しく思った。こんなところに若い女性が来るのは、なんだか変な感じがした。彼女もルイスのように、若くして肉親か恋人を失ったのだろうか?
ふとリートは、ライナスには恋人はいなかったのだろうかと思った。
「ねえ、ヴェルナー」
しかし、ヴェルナーは答えなかった。
ヴェルナーは立ち止まり、さっきすれ違った女性を食い入るように見つめていた。
リートは訝しげに名前を呼んだ。
「ヴェルナー?」
「リーゼ様!」
ヴェルナーが声をかけると、女性が振り返った。つばの広い帽子をかぶっていて、リートには顔がよく見えなかった。
「ヴェルナー?」
リーゼと呼ばれた女性が驚いたように声を上げ、ヴェルナーに近寄ってきた。
「やっぱりそうだった。こんなところでお会いするなんて……」
ヴェルナーがはにかむと、女性も笑顔になった。
「葬儀のとき以来ね。元気にしていた?」
「見てのとおりですよ。それにほら、今はこの方の護衛をしてるんです。代役ですけどね」
ヴェルナーがそう言って、嬉しそうな顔でリートのほうを見た。
「リート様、こちらはリーゼ・フォン・ツァイス様です。だれだかおわかりになりますか?」
リートは混乱した。ヴェルナーがこんな言い方をすることを思うと、一度どこかで会ったのだろうか?
その時、リーゼがリートに微笑みかけた。その目元を見たとき、リートはっとした。薄緑の瞳。そして彼女の笑い方は、どことなく彼の面影があった。
そして葬儀のとき以来、という言葉。
「あなたは、ライナスの……」
リーゼが軽く膝を折ってお辞儀をした。
「弟がお世話になりました」
リートは墓地のなかにある休憩所の長椅子に、リーゼと坐っていた。
ヴェルナーは二人から少し離れたところに立っている。
リーゼがリートに微笑みかけた。
「あなたにお会いできてよかった」
「でも、僕は――」
言いかけて、リートはうつむいた。
自分がこの世界に来なければ、ライナスは死ななかった。
そうやって何度自分を責めただろう。
せっかく守ってもらったのに、自分を責めてばかりでは死んだライナスに失礼だ。
自分は前向きに生きなくては。
そんな単純な言葉などでは、到底割り切れない。
「恨んでなどいませんわ。弟は騎士なのですから、覚悟はしていました。あの子は自分の意思で騎士になって、自分の仕事を全うして死んだんですもの」
気丈に振る舞うリーゼの言葉を聞きながら、リートは思った。
そうだ、ライナスはきっと覚悟していたはずだ。この仕事をすると決めたその日からずっと。だが、彼は死ななくてもよかった。死んでほしくなかった。
死んでいい人間など、この世界のどこにもいない。リートはそう思った。
リーゼが遠くを見つめる目になる。
「あの子は騎士団に入ってから、とても幸せそうでした。いつも自分を卑下してばかりで大人しい子だったから、わたしはそれが嬉しかった。でも、いつもどこか無理をしているようで、それが心配でした。話を聞いてあげるべきか悩んでいるうちに、こんなことになってしまって……」
リーゼの言葉を聞きながら、リートはなぜか自分がほっとしていることを感じていた。こんなふうにだれかとライナスのことについて語るのは初めてだった。
死に方が死に方だっただけに、リートの前でライナスの話をする人間はだれもいなかった。彼が死んでしまったあの日から、ライナスの存在はそこだけすっぽり抜け落ちたように王宮から消えてしまっていた。
そのことを自分は心のどこかで虚しく感じていたのだとリートは気づいた。
「この数か月、会う人全員が弟を口々に立派だと言いました。生きているときは、みんな兄を褒めて、弟のことなんて気にもとめていなかったのに、両親はそのことを誇らしげにしている。でもわたしは、それを聞くたび、わたしの知っている弟がいなくなっていくような気がしました。なにも知らないのに、勝手なことを言わないでほしかった」
リーゼが悔しそうに膝の上で手を握り締める。
「知ってたんですか? ライナスがお兄さんに劣等感を持ってたこと」
リートがそう言うと、リーゼはうつむいた。
「……ええ。昔はもっと明るい子だったのに、成長するにつれて、あの子はだんだん笑わなくなりました。あの子はいつも自分に自信がなくて、自分より他人を優先させるところがありました。人に尽くしてばかりで、自分のことはそっちのけ。もっとわがままを言ってもいいのだと言っても、騎士団に入りたいという願いを叶えてもらったからそれでいいと。弟が本当に幸せだったのか、わたくしにはわかりません」
そう言い終えて悲しげに目を伏せたリーゼに、リートは考えながら答えた。
そしてリートは、あの時はわからなかったライナスの言葉の意味を悟った。
「僕にもわかりません。ライナスが幸せだったかどうかは、本人しかわからないことだから。でも、ライナスが言ってたんです。自分は家族に認められるために騎士になったけど、本当に大切な人を傷つけてたって。それはきっとあなたのことだ」
リートがそう言うと、リーゼは目を見開いた。
「あなたが心配していることに、ライナスはちゃんと気づいてた。自分を認められなくて、自分で自分を貶めていたって、ライナスは反省してた」
「そうでしたか」
「それに、僕は彼に助けられたんです。ライナスは、僕が一番苦しいときに励ましてくれた。なにができるかではなくて、僕がここにいることが大事なんだって」
それは彼自身ではなく、ルイスの言葉だったが、リートは今も忘れていなかった。
自分に最初にそう言ってくれたのは、ほかのだれでもなく、ライナスだ。
「そのことが僕は嬉しかった。彼が僕を守ろうとしてくれたから、僕は今こうしてここであなたと話せているんだと思う」
リートがそう言うと、リーゼのライナスによく似た薄青の瞳から涙が幾筋も流れた。
「……ありがとう」
それから話題は今の話になった。
「ルイス様は、婚約者を亡くされたそうですね。ヴェルナーは代役だと言っていましたが、ルイス様はしばらくお休みを?」
リートは首を振った。
「僕が彼から離れたんだ。彼を見ているのがつらくて。僕じゃどうすることもできないから」
「そうでしたか」
リーゼはそれ以上はなにも訊かなかったが、一瞬ためらうそぶりをみせたあと、また口を開いた。
「あの、本当は葬儀のあとに、すぐにあなたにお会いしたかったのですが、ルイス様に止められていたんです」
「ルイスが?」
リートは少し驚いた。
彼は頼みを引き受けることはあっても、断ることはなさそうに思えた。
「わたくしがなにを言っても、今の彼には受け止められないと思うとおっしゃって」
それを聞いたとき、リートははっとする思いだった。
どうして。
あの時は、まだ彼と出会って日が浅かったのに。
「そう、ですか」
リートはリーゼにそれだけ言うのがやっとだった。
向こうの世界では、だれもが頑なな自分を勝手にしろと突き放した。
それなのに、まさかルイスが自分の気持ちをわかっているとは思わなかった。
リートは、ルイスにそんな期待をしたことはただの一度もなかった。
思っていることはすべて言葉にして伝えてきた。
ルイスは人の気持ちに鈍感だが、それゆえに人づき合いの苦手な自分の応対にも気を悪くすることがない。そう思っていたのに。
彼も両親の死を受け止めきれずに悩んだことがあったのだろうか?
「でも、今のあなたは大丈夫そうに見えます」
リートが動揺している横で、そう言ってリーゼが微笑んだ。
「だとしたら、ルイスのおかげかな」
答えながら、たぶんそうだとリートは思った。
もう自分は、あの頃のように他人を恐れてはいない。
彼という人を知って、他人を信じられるようになったから。
それと同じくらいには、自分のことを知っているから。
リートがそう考えていると、不意にリーゼが真剣な表情になった。
「どうかご自分のことを大事にしてください。弟はきっとあなたたちを心配している」
リートとヴェルナーに挨拶してから、リーゼは去っていった。
リーゼの後ろ姿を見つめながら、リートは無意識に片手を握り締めていた。
自分はこんなところでなにをしているんだろう。
自分が苦しんでいるとき、ルイスはそばを離れないと言ってくれた。それなのに、彼が一番苦しんでいるときに、彼から離れてしまった。
(僕は、自分のことばかり考えてた)
自分の無力さを直視することから逃げていた。
(なにも言わず、ただそばにいてあげればよかったんだ。それだけでよかったのに)
未だに自分はこの世界に来た頃のように、苦しみから逃れることばかり考えている。
どうすれば苦しまずにすむのか。
その答えを、リートはもう知っていることに気づいた。
(苦しまずにすむ方法なんてないんだ。きっと)
生きているかぎり、苦しみを避けることはできない。
そのためには、ルーツィアのように死ぬしかない。
それか、昔の自分のようになにも感じなくなればいい。
なにごとにも無関心で、透明な存在になればいい。
――戻りたくない。
そんな自分に戻るのはごめんだとリートは思った。
戸惑って、怒って、八つ当たりして、泣きじゃくって、そんなふうにして自分を知った。冷めていて、自己保身しか考えず、他人の顔色を窺って、信じるものもなく、熱中することもなく、好きなことも、嬉しいこともわからない。
いてもいなくても変わらない。そんな自分にはもう戻らない。
ここに来なければ、勇気を持つことも、だれかを頼ることも、助けることも、他人に心を打ち明けることもなかった。
向こうにいたときから思っていた。
色褪せて、平坦で、不鮮明で、曇り硝子越しに見ているような景色。その向こうの、自分のあずかり知らないところで世界は回っていた。
それでいいと思っていた。そういうものなのだと思っていた。
でも違った。
本当は、ずっと感じたかった。
この世界に触れてみたかった。
(なにも起こらない人生なんて、いやだ)
自分だって、なにかに夢中になりたい。
だれかを大切にしたい。
大切な人を守りたい。
そして、自分を愛したい。
