リートは車寄せに停めた馬車から降りると、ヴェルナーを伴って部屋に戻った。
しかし、扉を開けようとしたヴェルナーが無言で自分に目配せした。
鍵が開いている。ヴェルナーは警戒しながら扉を開けたが、中の光景を目にした瞬間息を呑んだ。
そこにいたのは、エミリアとルイスとミヒャエルだった。
リートも内心驚いていたが、平静を装って口を開いた。
「……ただいま」
「ずいぶん遅かったのね」
なにげない風を装っていたが、エミリアの口調は硬かった。
いつものにこやかな表情を消し去り、険しい視線をこちらに向けるエミリアを見ながら、リートはそんな彼女はいつもより美しさが際立って見えるようだと、場違いに一瞬そんなことを考えた。
「ヴェルナーの知り合いに偶然会ったんだ。ライナスのお姉さんに」
リートは淡々と言った。
嘘は言っていない。すべて事実だ。
「それだけじゃないでしょう。アルベリヒのところに行ってたの?」
「そうだよ。でもどうして――」
「これだよ」
ミヒャエルが掲げたのは黒い封筒だった。
リートの目に動揺が走ったのを見て取ったのか、ミヒャエルが微笑んだ。
「見たことがあるって顔だな。今朝、わたしとルイスの部屋の扉にこれが挟まってたんだ。それで君の部屋を訪ねたら、君はライナスの墓参りに行ったと言うから待っていたんだが、君はなかなか帰ってこない。だから手紙のとおり、君はアルベリヒのところに行ってしまったんじゃないかと思ったんだ」
ミヒャエルの淀みのない説明に、リートはため息をついた。
「そうだよ。そのとおりだ」
リートが答えると、今まで沈黙を守っていたルイスがヴェルナーに詰め寄った。
「ヴェルナー! なぜ止めなかった? 主人を危険に晒す可能性があるなら、命令に逆らってでも止めるのがおまえの仕事だろう」
しかし、ルイスに激しい調子で責められても、ヴェルナーは怯んだ様子を見せなかった。
「ハーナルにいるあなたに指図される謂れはありません。今の騎士はあなたではなく、自分ですから」
ヴェルナーが静かにそう言い切ると、ルイスは目を瞠り、気圧されたような表情になった。
「ヴェルナー……」
その時、ノックの音がして近衛騎士が入ってきた。
「ヴェルナー、メルヒオル様がお呼びだ」
「わかった、すぐに行く」
近衛騎士が行ってしまうと、ヴェルナーがリートに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。心配しないでください」
「でも――」
「あなたは行くと言っただけで、俺にはなにも命令しなかったでしょう。俺が勝手についていったんです」
リートは思わず笑ってしまったが、すぐに泣きそうになった。
彼は優しい。だが、それで自分の身勝手さは帳消しにはならない。
自分のしたことを受け止めようと、リートは片手を握り締めた。
これは自分が決めたことだ。
言い訳はできない。するつもりもない。
「なら、ちゃんと君に命令すればよかったよ。そうすれば、責められるのは僕だけですんだ」
リートがそう言うと、ヴェルナーは驚いたように目を瞠ったあとで、小さく笑った。
「あなたはいい主人ですね、リート様」
「そうかな」
「ええ。ルイス様に振り回されていた頃に比べれば、とても」
そう言うとヴェルナーは、リートたちに一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかるのを確認してから、リートは静かに口を開いた。
「ヴェルナーを責めないで、ルイス。僕が連れていってほしいって頼んだんだ」
「どうしてこんな危険なことをしたんだ。もし捕まって殺されていたら――」
「だって僕しかいないじゃないか!」
リートが叫ぶと、ルイスが目を見開いた。
リートはルイスを睨みつけた。
「ルイスもミヒャエルも動けないなら、僕が行くしかないじゃないか。全容を解明しなきゃルーツィアが報われないよ」
リートは苛立たしい気持ちで、部屋の中を意味もなく歩き回った。
「ルーツィアはベギールデに殺されたんだよ。三人とも、ルーツィアには思うところがあるかもしれないけど、だからって、なにもなかったことになんてできないよ。だれもやらないなら、僕がやるしかないじゃないか」
リートは足を止め、三人を睨みながらそう言った。
もう他人にどう思われてもかまわなかった。
人の言いにくいことを自分は平気で言えるし、目的のためならどこまでもずかずか踏み込んでいける。
冷たいと思われようが、人でなしだと思われようが、これがリートにとって最大限の誠意の尽くし方だった。
真相を解明する。そうすることでしか、自分はルーツィアを弔えない。
沈黙に包まれた部屋の中で、エミリアが静かに深くため息をついた。
「ほんと、わたしって馬鹿だわ。自分のことばっかりで、リートに全部押しつけて」
エミリアは毅然とした足取りでリートのほうに歩み寄ると、屈んで視線を合わせた。
「ごめんなさい、リート。でも、そんなに気負ってたら、今度はあなたが死んじゃうわ」
エミリアはそう言って微笑むと、ルイスとミヒャエルのほうを振り返った。
「わたしはリートに賛成。あなたたちはどうする?」
ルイスが瞼を閉じる。
「……もちろん賛成だ。リートの意見は正しい。反論のしようがない」
ミヒャエルがリートに微笑みかける。
「わたしもルイスと同意見だ」
「前から思ってたけど、ルイスはそれが正しいかどうかよりも、結局最後は自分の好き嫌いで決めてるよね」
リートの指摘にルイスが目を見開いた。その横で、エミリアとミヒャエルが吹き出した。
「そうね」
「言えてるな」
リートはうなずき合っている二人に視線を移した。
「ミリィ様は自分が楽しいと思うかつまらないと思うか、ミヒャエルは全体の利益になるか損失になるかだよ」
エミリアとミヒャエルが同時に苦笑する。
「それを言ってしまうのか、君は」
「だからいつも言ってるじゃないか。そのせいで僕は友達がいないんだよ」
そう言ってリートは三人に皮肉っぽく笑ってみせた。
「でも、そういうのが僕だから」
今まで散々自分を否定してきたが、そんなことをしたところで、良いことなどなにひとつなかった。
ならば、きっと自分はこのまま生きるべきなのだ。
自分が自分であることからは一生逃れられないのだから。
自分の思うようにしてきた結果、リートが辿り着いたのは、そんなありふれた答えだった。
きっと自分は最初からわかっていた。だがそのことを認めるためには、どうしても今までの過程が必要だったのだ。
要するに、失敗した経験が。
ルイスが困惑した顔で三人を見た。
「わたしはそんなに好き嫌いで物事を決めているか?」
「おまえほど好き嫌いの激しい奴はいない」
「あなたほど好き嫌いの激しい人もいないわ」
「君ほど好き嫌いの激しい人もいないよ」
リートたちが発した同じ内容の三重奏に、ルイスが憮然とした表情で横を向く。
「……納得がいかない」
こらえきれなかったミヒャエルが肩を震わせて笑いだし、エミリアとリートも声に出して笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりだった。
椅子に坐り、エミリアがリートたちに向き直った。
「状況を整理しましょう。わかっているのは、ベギールデがルーデル大聖堂とユストゥスとエヴェリーンの舞台を爆破したってこと。それから」
「王宮の庭に侵入してルーツィアを殺した」
リートがあとを引き受ける。
「だが、事件のすべてをアルベリヒが指示したという客観的な証拠はどこにもない。聖殿に侵入した男の正体も目的も謎だし、ベギールデと関係があるのかもわからない」
ミヒャエルがそう言ってうつむく。
「前代未聞の事態だな。こんな事件はおそらく過去には存在しない」
ルイスがそう締めくくった。
「ルーツィアの件に関しては進展がある。アンスヘルム・ツー・ヴォルフスブルクという、ルーツィアの警護を担当していた近衛騎士がいるんだが、あの夜から姿をくらましてる。奴は最初に決まっていた近衛騎士をなんらかの方法を使って体調を崩させ、自分が代役になった。おそらく、ディートリヒとも面識があるはずだ。奴がアルベリヒの指示をほかの信者に伝達し、実行していたんだ」
「近衛騎士なら庭にだれかを入れるのは難しくないね。舞台に火薬を仕掛けるのも簡単だ。舞台の周りをうろうろしても怪しまれない」
リートがそう言うと、ミヒャエルがうなずいた。
「そうだ。ルーデル大聖堂のときは、聖職者を何人か買収したんだろう。そしてわたしたちが市街地に出る前日に、地下に侵入して火薬の入った樽を設置した。当日は不自然に思われないように見物人を配置して、君に教典を拾わせて出口まで誘導し、わたしたちが見ている前で爆破させた」
ルイスが苛立った表情になる。
「意味がわからない。なぜこんな手の込んだことをする必要がある?」
「……アルベリヒが狙っているのがあなただから」
そう言ったのはエミリアだった。ルイスが訝しげな顔になる。
「どういう意味だ?」
エミリアがため息をつく。
「……あの時リートが言ったこと、もっと真剣に考えていればよかった」
「どういうこと?」
リートは首を傾げた。自分はなにかそんな重要なことを言っただろうか。
「リヒトを否定したいというやつよ。狙われたのは大聖堂に降臨祭。すべてリヒトを象徴するものだった。そして今狙われているのはメルヒオル。もともと低下していた神聖派の権威は急速に失墜してる。次に狙われるとすれば――」
リートははっとしてエミリアのほうを見た。
「まさか、宮殿?」
「……最初から目的はこの国そのものか」
ルイスが剣呑な表情になる横で、ミヒャエルが呆れたように笑った。
「道理で気づかなかったわけだ。そんな馬鹿なことを大真面目に考える人間がいるとは思わなかった」
「それ、遠回しに自分が賢いって言ってる?」
リートがそう言うと、ミヒャエルが一瞬眉を上げ、挑戦的に微笑んだ。
「そういう君はどうなんだ?」
「僕は賢いんじゃなくて、変わってるだけだから」
リートはにやっと笑ってそう言った。
ミヒャエルとは、お互いを慰め合うより、こういう関係のほうが合っている。
リートはそんな気がしていた。
ルイスが不可解そうな表情でエミリアを見る。
「奴らの目的が国とリヒトそのものだとして、なぜわたしまで狙われるんだ?」
「あなたが成人するまでメルヒオルの後見を受けていて、家族同然の仲だからよ。そして熱心なリヒト信者だから。言ったでしょう、あなたは有名人だって。この国の貴族はみんなあなたのことを知ってるのよ」
ルイスがまだ納得がいかないという表情で黙り込むと、エミリアがため息交じりに言った。
「それより問題は、いったいここに何人ベギールデの信者が紛れ込んでいるのかぜんぜんわからないってことよ」
「王宮に出入りする人間全員を事情聴取するわけにもいかないし、したとしても、ベギールデの信者だからという理由だけでは逮捕できないな」
エミリアとミヒャエルが話すのを聞きながら、リートは考え込んだ。
ディートリヒやルーツィアのように、生きることに絶望している人間たちがいったいここに何人いるのだろう。
そして、それを利用するブロスフェルトのような権力者も。
「しかし、なにも証拠がない。いくら危険な思想を持っているとしても、所詮ただの思想だ。実行に移さないかぎり、わたしたちは動きようがない」
エミリアが皮肉っぽく笑う。
「言ってもみんな信じないでしょうね。国家転覆なんて――そんな大それたことを本気で企む人がいるなんて。むしろ、わたしたちが誇大妄想家だと思われちゃう」
「じゃあ僕ら、このままなにもできずに見てることしかできないの? 止められないのかな」
リートはそう言ったが、三人は黙り込んだまま、一言も言葉を発しなかった。
エミリアがため息をつく。
「わたし、昔からこういう重苦しい雰囲気って苦手なのよね。だれかわたしと踊りましょうよ」
「ミリィ」
ルイスが諌めるように名前を呼ぶと、エミリアが肩を竦めた。
「だって、ただ黙って死ぬときを待っているのは嫌だもの」
「わたしだって嫌だが、それなら最後まで方策を――」
言い合っている二人を眺めながら、リートはミヒャエルに話しかけた。
「なんか、こういうの久しぶりだね」
「そうだな」
リートは微笑むミヒャエルを見ながら、ミヒャエルはエミリアの気持ちを知っているのだろうかと思った。
いや、彼のことだから、とっくに気づいているし、知っているだろう。
「そういえば訊き忘れていたが……君はどうやって物事を決めるんだ、リート」
「僕?」
ミヒャエルにそう問われ、リートは考え込んだ。
当たり前すぎて、気にしたこともなかった。
いつも自分はどうやってなにかを決めていただろう。好き嫌いではない。損得でもない。楽しいかどうかは重要だが、一番に優先するものではない。
他人のことにはすぐに気づけても、自分のことに気づくのが一番難しい。確か、アルベリヒの屋敷に行ったときにもそんなことを思った気がしたが、リートは思い出せなかった。
普段いろいろ考えているせいで、自分の思考はいつも凄まじい速度で流れていってしまう。いちいちそのすべてを覚えていることはできない。ルイス並みの記憶力があれば、いつでもすぐに取り出せるのにと、リートはもどかしくなった。
「僕はね……」
リートがそう言いかけたとき、不意にノックの音が響いた。
「失礼します」
現れたのは白い法衣を着たメルヒオルの秘書だった。
「メルヒオル様が皆様をお呼びです」
エミリアが訝しげな顔になる。
「みんなって、ここにいる全員?」
秘書が静かにうなずいた。
「はい。執務室でお待ちです」
四人は顔を見合わせた。
