第79話 メルヒオル、去る

「え……?」
 メルヒオルの言葉を聞いたリートの第一声はそれだった。
 エミリアも納得できないという顔でメルヒオルを見た。
「しばらく休むって……どうして?」
「なに、少し休暇を取るだけだ。この機会にやりかけだった本の執筆の続きでもしようかと思ってね」
「なぜあなたがいなくなる必要があるんだ。すべてはわたしの責任だ。わたしは騎士としての役目を果たせなかったから……」
 そう言いながら、苦しげな表情になったルイスにメルヒオルが微笑んだ。
「君を任命したのはわたしだよ、ルイス。責任を取るのがわたしの仕事だ」
「……ハインリヒと取り引きなさったんですね」
 ミヒャエルが険しい視線をメルヒオルに向けていた。
「リートには手を出さないという条件で」
 それを聞いたリートははっとした。まさかそんな。
 しかし、メルヒオルは穏やかに笑っただけだった。
「違うよ、ミヒャエル。わたしは陛下に休むと言っただけだ」
「ごめんなさい、メルヒオル。僕が勝手なことをしたから――」
 リートがそう言うと、メルヒオルはかがんでリートと視線を合わせた。
「君のせいではないよ、リート。ヴェルナーから事情は聞いた。君はルイスとミヒャエルをアルベリヒに会わせたくなかったから、一人で行ったのだと」
 ルイスとミヒャエルが驚いた顔でリートを見た。
「でも、やり方はよくなかった」
 リートが苦い口調で言うと、メルヒオルは軽くうなずいて微笑んだ。
 まるで、そんなことはまつなことだとでも言いたげだった。
「確かにね。だが、君はそうやって前に進んできた。なにもしなければ、失敗することはないかもしれない。だが、なにかが変わることもない。それでは死んでいるのと同じだ。だから、わたしも君と同じことをしようと思う」
 リートは顔を上げ、メルヒオルのグレーの瞳をじっと見た。
「……あなたは前に進むことを選んだの?」
「そうだ。わたしは最善だと思う選択をした。それだけのことだ」
 メルヒオルはルイスとエミリア、それにミヒャエルへと順番に視線を移した。
「リートを頼んだよ、三人とも」
「……わかった」
「わかったわ」
「わかりました」
 三人が返事をすると、メルヒオルはまたリートのほうを見た。
「リート。三人のことを頼んだよ」
 リートはメルヒオルの真意がよくわからなかった。なぜ彼らは自分一人で、自分は彼ら三人なのだろう。いくらなんでもそれは荷が重すぎる。
 だが、リートはなんとなくわかっていた。おそらくメルヒオルが言いたいのは、そういうことではないのだと。
「……うん」
 メルヒオルの部屋を出てから、リートはつぶやくように言った。
「思い出したよ、ミヒャエル。僕はなにもかも、自分が納得できるかどうかで決めるんだ」
 そして自分は、今の状況のどれひとつとして納得がいっていない。
 ならば変えなければ。リートはそう思った。
 自分の納得のいく形にすべてを変える。
 ただし、変えるのは世界ではなく、自分の考え方だ。
 できるかはわからない。だがやらなければなにも始まらない。リートはそう思った。

 その晩のことだった。
 リートは夢のなかで、これが夢だということに気づいた。
 これまでもそういうことはあったが、その時はいつも気づいた瞬間起きてしまっていた。だが今は違う。意識ははっきりしているのに、自分は夢を見ている。
 なぜそう思ったのかと言えば、鏡もないのに、目の前にもう一人自分がいたからだった。
 それは、とても奇妙な感覚だった。
(これ、ほんとに僕?)
「……理人」
 目の前にいる自分がしゃべったので、リートは驚いてあと退ずさり、距離を取った。
「だれ?」
「覚えてない?」
 質問に質問で返され、リートは返答に困った。
「ここじゃないならどこでもいい。あの時、君はそう願った」
 リートははっとした。それは、この世界に来るときに思ったことだった。
(なら行こうよ)
(どこに?)
(ここではないところ)
 そう言われた。
「君はあの時の……」
 もう一人の自分が微笑んだ。
「そうだよ、理人。僕が君をこの世界に連れてきた」
「君は――」
「僕はエルフリードだ。僕はずっと君の中にいた。君がここに来たのはリヒトの力じゃない。僕の力だ」
「ずっと僕の中にいたの?」
「そう。君が十としくらいのときから一緒にいた」
 リートは驚いた。
「そんなに長く?」
 だからあの時、自分は彼の声に懐かしさを感じたのだろうか。
「僕はエヴェリーンに会いにここに来た。いや、戻ってきたんだよ」
「エヴェリーンって、ユストゥスとエヴェリーンの?」
 だが、彼女は百年前に死んでいるはずだ。
「エヴェリーンは死んでいない。今も生きている。結界が生きているのがその証拠だ。そして、ユストゥスも生きている。君も会っただろう?」
「あの時地下にいたのが? でもどうやって――」
「エヴェリーンに自分の体内時間を止めるように強要したんだ。ユストゥスはエヴェリーンを復活させて、その力を利用しようとしている」
(エヴェリーン、君はこの男に利用されているんだ)
 ミヒャエルの読んだゴットフリートの台詞せりふがよみがえる。
 あれはそういう意味だったのだろうか。
「じゃあ、彼は君を殺そうとしていたの?」
「そう。だから僕が弾いた」
(あれはリート様の力です)
 ユーリエはそう言っていた。
「君にも力が?」
「そう。僕はヴォルヴァじゃないのに、なぜか生まれつき力が使えるんだ。そして、僕はこの国の王子なんだよ、理人」
 エルフリードの思いがけない言葉にリートは驚いた。
「王子様……?」
 今はこの国に王子はいない。いるのは王女のエミリアだけだ。
「僕の父はこの国の二代前の国王、アウグストだ。まあ、記録がなにも残っていないから、証明のしようがないんだけど」
「どうして残ってないの?」
「この力のせいで、僕は王子として正式に認められなかったんだ。ヴォルヴァ以外に僕のような力を持っている人間がいると都合が悪かったんだよ。そのせいで僕はほとんど部屋から出してもらえなかったし、一切の行事に参加できなかった。弟のゴットフリートは僕のことを一切知らず育った。そして、ある日ついに僕は騎士たちに殺されそうになって、身体を捨てて君のいる世界に逃げなきゃならなくなった」
「そんな」
 リートは言葉を失った。力を使えるというだけで迫害するなんて。
「それに、貴族たちを殺したのはエヴェリーンじゃない。やったのは僕だ」
「……どうして?」
「エヴェリーンのためさ。君もヴォルヴァに自由がないのは知っているだろう? 僕はエヴェリーンをこの国から解放したかった」
 エルフリードが皮肉気に笑う。しかしその笑顔はどこか寂しそうに見えた。
「僕を軽蔑するかい、理人」
「それは……」
 リートは言葉に詰まった。彼がやっていたことは間違っている。そう糾弾するのは簡単だったが、リートはそういうことはしたくなかった。
「エヴェリーンは僕のすべてだった。みんな僕を化けもの扱いしたけど、エヴェリーンだけは違った。僕とまともに話してくれたし、勉強も教えてくれた。なのに、ユストゥスは僕からエヴェリーンを奪って自分だけのものにしようとしたんだ」
「どうして?」
「あいつはエヴェリーンに執着してるんだ。勝手に好意を持ってエヴェリーンにつきまとった。早い話が、君の世界にいるストーカーだよ」
 吐き捨てるように言ったエルフリードの言葉を聞きながら、リートは考え込んだ。
 エヴェリーンのことにばかり気を取られていたが、まさか史実と劇の印象がかけ離れているのがユストゥスのほうだとは思わなかった。だとしたらものすごい脚色だ。
「君の存在を隠蔽するために、この国はユストゥスを祭り上げたの?」
「そういうこと。だから、僕は君の気持ちがよくわかるんだよ、理人。僕はエヴェリーンに会うまではずっと独りだった。この世界に居場所がなかった。でもね、僕は君がそういうまともな感覚の持ち主だったから、ずっと君の中に住めたんだ」
「僕、まともなの?」
 思わずリートがそう訊ねると、エルフリードがうなずいた。
「少なくとも、僕から見れば君はまともだよ。君の世界は便利だけどそれだけだ。でもそのことにほとんどの人は気づいてない。嘆かわしいくらいにね」
「だったら、僕と話してくれればよかったのに」
 そうすれば自分は、独りぼっちだと悩まずにすんだ。
「それは考えたけど、僕はいつか君と離れなきゃいけないから、最後まで気づかれないほうがいいと思ってたんだ。でも君はあのままそこにいたら、本当に死んでしまいそうだったから」
 そこでいったん言葉を切ると、エルフリードは真剣な表情になった。
「ごめんね、理人。僕の目的のために君を巻き込んでしまって」
 リートは首を振った。
「いいよ、そんなこと。むしろここに連れてきてくれて、君には感謝してる。ずっとあそこにいたら、君の言うとおり死んでたかもしれないんだから。もし、僕になにかできることがあるなら協力させてよ」
 リートがそう言うと、エルフリードはにっこり笑った。
「ありがとう。早速だけど、僕はユストゥスを捕まえたい。そのために君に頼みたいことがある」
「でも、どうやって捕まえるの?」
 ユストゥスは未だにどこにいるのかもわかっていない。手がかりは、金茶の髪とはくいろの目をしているということだけだ。
 それに自分が外に出るとなると、警備が大勢ついて大事になってしまう。
 しかし、エルフリードは意に介さなかった。
「こちらから捕まえなくても、ユストゥスはここに来る。もうすぐエヴェリーンの命日だ。その日に彼は聖殿に来る」