第84話 図書室で

「じゃあ、僕が字を読めるようになったのも君のおかげだったの?」
 リートが目を丸くして言うと、エルフリードがうなずいた。
「そう。言語だけ僕の記憶から取り出せるようにしたんだよ。君の世界にある外部記憶装置に接続するみたいにね。君の世界に行くまで、僕はほとんどの時間を読書に費やしていたから、わからない単語はほぼないはずだ」
 最近のリートは、暇さえあれば夢のなかでエルフリードと会話するようになっていた。
 エルフリードは博識で、リートは彼といると飽きなかった。
「僕は制約でがんがらめのヴォルヴァと違っていろんなことができる。見ててごらん」
 そう言ってエルフリードがパチンと指を鳴らすと、彼の手に一冊の本が現れた。
「あげる」
 差し出された本を見てリートは驚いた。
「これ、僕が教室で読んでた本……」
 リートは無意識にパラパラと頁をまくっていた。久々に見る自国の字にリートは懐かしさを覚えた。こちらに来てから数か月しか経っていないのに、向こうの世界にいた頃のことがずいぶん昔の出来事のように感じられた。
 ふと、リートは心配になった。
 もし昔話の主人公のように、自分の世界に帰ったときに何百年も経っていたらどうしよう?
「どうしたの、理人」
「あ、いや、もし向こうに帰れても、何百年も経ってたらどうしようと思って」
 リートがそう言うと、エルフリードが不思議そうな表情になった。
「向こうに戻るつもりなの? 君が向こうの世界にいたくないって言うから、僕はその願いを叶えたのに」
「それはそうだけど、僕はこの世界の人間じゃないし……ずっとここにいてもいいの?」
「君がそうしたいならそうすればいい。メルヒオルもそう言っていただろう?」
 そう言ってエルフリードがまた指を鳴らす。
 すると、辺りの景色が一瞬で様変わりした。自分の背丈より高い本棚が幾つも置かれ、どの棚にも隙間なく本が並んでいる。まるで図書室みたいだとリートは思った。
「君が今まで読んできたすべての本がここにある。読みたい本を頭に思い浮かべるだけですぐに取り出せるよ」
「ほんとに?」
「やってみて」
 リートは早速頭の中で本の題名を思い浮かべてみた。すると、持っていた本の表紙が、リートの思い浮かべた本に変わっていた。中身も自分の記憶通りだった。
「すごい……」
 リートが感嘆の声をあげると、エルフリードが少し得意げに微笑んだ。
「僕にできないことはなにもないんだよ、理人。王宮で暮らすのに息が詰まったら、ここに来ればいい。そうすれば好きなだけ本が読める。ここにはだれも君を邪魔する人間はいない。うるさく言う人間もいない。君はずっとそういう生活をしたかったはずだ」
「それはそうだけど……今僕の身体はどうなってるの?」
「眠ってるよ」
「それじゃあ、ここに入り浸ってたら寝たきりになっちゃうんじゃ」
 リートが不安げに言うと、エルフリードがにこりと笑った。
「大丈夫だよ。こっちのほうが時間の進みが遅いから。それに意識さえはっきりしていれば、夢と現実にたいした違いはないよ」
「そうかなぁ……?」
 リートは納得できずに首をひねった。
 夢と現実は違うものなのではないだろうか。
 どこがどう違うのだと言われても、うまく説明できる気はしなかったが。
「でも、僕はほかにもやらないといけないことが……」
「なにをするの?」
「それは……勉強とか」
 リートがそう言うと、エルフリードがきょとんとした顔になった。
「なんのために?」
「なんのためって、それは」
 なぜだろう。リートは答えられなかった。
「向こうの世界でも君はそう思ってたじゃないか。学校の勉強なんて全然役に立たないって。僕も同感だな。暗記ばかりしたって仕方ないよ。世の中は君の元騎士みたいに記憶力の良い人間ばかりじゃないんだから」
「でも、ルイスは知りたいことを知るのが勉強だって言ってたし……よくわからないけど、やらなきゃいけない気がするんだ。ユストゥスとエヴェリーンの研究だって、やりかけのままだし」
 自分でも要領を得ない説明だと思いながらリートがそう言うと、エルフリードが首を傾げた。
「それってそんなに大切なことなの?」
「それはわからないけど……」
 リートが言葉に詰まると、エルフリードが急に真顔になった。
 彼の黒い瞳を見たとき、リートは突然、切り立った崖の上から谷底をのぞいているような心地になった。
 落ちれば二度と戻ってこられない、暗く、深い裂け目。
 そこから、エルフリードの声がだましてくる。
「この世界にはね、やらなきゃいけないことなんてなにひとつないんだよ、理人」

 リートはそこで瞼を開けた。
 いつの間にかソファでうたた寝をしていたらしい。
 そばにはユストゥスとエヴェリーンの台本があった。
 すべて自分の字で書いた台本。ルイスに手伝ってもらって完成させた台本。
 これが自分にとっての現実だとリートは思った。
 あの達成感は夢では味わえない。
 夢と現実はやはり違う。夢ばかり見ているわけにはいかなかった。
 ここにきてからいろいろなことを経験したが、今のリートにとって、すぐにできてしまうことは、もはや価値のあるものではなかった。
 いや、もともと自分はそういう性格だったのだ。
 難しいことでなければ、自分はいつもやる気がしない。
 学校でする勉強は知識をひたすら覚えるだけで、なんのやりがいもないし、退屈でつまらなかった。
 自分なりに問いを立てて調べ、考える。そこから仮説を立て、裏づけになる証拠を探す。
 それが一番楽しい。
 やらなければ。
 リートはソファから立ち上がった。

「ないなぁ……」
 長いはしに登って本を物色しながら、リートはため息をついた。
 リートは夢のなかではなく、実際の王宮の図書室にいた。
 決意を固めてから数日が経っていたが、収穫は乏しかった。
 台本だけを読んでいても、これ以上なにも読み取れない。そう思ったリートは、エヴェリーンのことについて調べていた。
 しかしリートは、前にルイスが調べてくれたエヴェリーンの生年月日や、生まれてから死ぬまでの主な経歴などの基本的な情報以上のものを手に入れることができず、そこから完全に行き詰まってしまった。
 ほとんどの本は、当時の史料や証言を元に書かれてはいるが、評伝か伝記のようなものばかりで、内容はほとんど同じだった。
 リートが求めているのは、エヴェリーンが実際にはどういう性格だったかを裏づける記述だったが、どの本を見ても、エヴェリーンは精神的に追い詰められた悲劇のヴォルヴァで、自分の意思をはっきり持った女性だと断じた本はなかった。
 ルイスから調べ方の説明をされたとき、評伝や伝記は二次史料というほかの人間の手が加わった情報で、史料としての価値が低いのだと教えられていた。
 自分で論を立てるときは、当事者もしくは、当事者と直接面識のある人間の書いた手記や日記に手紙、そして当時の公文書記録などの一次史料と呼ばれる史料に当たるしかないのだという。
 そうなると、王宮か官庁の史料室に保管されている当時の記録を見せてもらわなければならない。
 しかし、メルヒオルがいなくなってしまった今、それは不可能だった。
 ハインリヒに頼んでも聞いてもらえるとは思えない。なぜそんなことを調べるのかと詰問されるのがオチだ。
 リートはまた深々とため息をついた。
 現実の世界では、思い浮かべただけでは欲しい本は手に入らない。
 本当に欲しいものは、探すのに時間がかかるものなのかもしれない。
「リート様、本はすべて机に運びましたが」
 近衛騎士にそう言われ、リートは梯子の上から声をかけた。
「ありがとう。じゃあ関連がありそうなものから順に並べておいて。ここを見終わったらそっちに行くよ」
「承知しました」
 近衛騎士はそれだけ言うと行ってしまった。
(こんなの、騎士のする仕事じゃないって思われてそうだよね……)
 図書室で護衛を頼む必要もないと思ったリートは、騎士にも頼んで本を探してもらっていた。
 ここにヴェルナーがいたら、いろいろ文句を言ったに違いない。
 ふとそんなことを思ってから、リートはため息をついた。
 今の担当の騎士たちはどうにも堅苦しくて気詰まりだ。だがルイスとヴェルナーが特殊だっただけで、普通の騎士はこんなものなのだろう。彼らの仕事は要人を守ることで、話し相手になることではない。
 しかしそのせいで、リートは未だに騎士たちの名前もろくに覚えていなかった。
(やっぱり駄目な主人だよ、僕は)
 リートがそう思ったときだった。
 なんの前触れもなく、長梯子がぐらりと揺れた。
「え?」
 リートは慌てたが、すすべもなく梯子は傾き、リートは梯子にしがみついたまま床に勢いよく投げ出された。
「いった……」
 床に尻餅をついて、リートはうめいた。
「リート?」
 リートは床にすわんだまま、反射的に声のしたほうを向いて目を丸くした。
 そこに立っていたのは、ハーナル騎士団の制服を着たルイスだった。