第88話 再会

 その頃、リートは落ち着かない気持ちでソファに坐っていた。
 今日は婚約式が行われる日だ。
 結局、どうしていいのかわからないままこの日を迎えてしまった。 
「なんとかならないかな……」
〈君が会場に乱入して王女をさらってきたら?〉
 エルフリードがくすくす笑いながら言った。
「そんなことしたら捕まっちゃうよ」
 エルフリードにそう返しながら、そんな映像劇のようなことをしてどうするのだとリートは思った。
 しかもあれは、泣く泣く結婚を決めた人間相手に、本命の人間がやると相場が決まっているのだ。自分はどこまでも部外者でしかない。
 やるとすればルイスだが、ルイスはエミリアのことが好きなわけではないし、そんな身勝手なことをする人間ではない。リートが頼んでもそれは同じことだ。
〈僕の力があればできるよ?〉
「駄目だよ。二人が決めたことなんだから。僕が納得できないからって、邪魔するわけにはいかないよ」
 そう言いながら、リートはソファに寝転んだ。
「婚約式って、具体的になにをするの?」
 リートの住んでいた国には、婚約式というものが存在しなかった。
〈君の世界とたいして変わらないよ。誓約書を交わしたり、男性が婚約指輪を贈ったり。そのあとは宴だね〉
「ふうん……」
 なら、ミヒャエルはエミリアに婚約指輪を贈るのだ。
 ミヒャエルは、きっとルーツィアに贈ったそろいの指輪を外してしまったのだろう。本命以外の人間には嵌められない指輪があればいいのに、とリートはふと思った。式をしても、本人たちが本当に愛し合っているかどうかなんて、だれにもわからない。証明する方法なんてどこにもない。でも式を終えれば、そういうことになってしまうのだ。
 ――いや待て、本命以外の人間?
 その言葉が、なぜかリートの中で引っかかった。
 最初に侵入したとき、ユストゥスは結界を簡単に突破した。
 彼が結界を突破できたのは、だれにも危害を加えるつもりがなかったからではないか。リートはとっさにミヒャエルにそう言った。
 だが、本当にそうだったとしたら? 
 なんらかの方法を使って結界を破ったのではないとしたら?
 語り継がれてきたユストゥスとエヴェリーンの物語。
 消されたエルフリードの存在。
 歴史は為政者の都合によって作られる。
 おまえをエヴェリーンには会わせない。
 信仰を取るか、愛を取るか。
 リートはソファから立ち上がり、寝室に入ると姿見の前に立った。
「ねえ、エルフリード。どうしてユストゥスはずっと陛下に会わせろって言ってるんだろうね。陛下にいったいなにを話すつもりなんだろう」
 答えがないので、リートは鏡に映った自分自身を見ながら、また口を開いた。
「……君のことだったりして」
 自分はいつだって物事には懐疑的で、人を簡単に信じられなかった。そういう自分が嫌で仕方なかった。
 だが今はそうではない。大事なのは、真実を見定めようとすることだ。そして、そのことを自分は一番大事にしている。
「君の話を信じてないわけじゃない。でも、君の話だけじゃなくて、ユストゥスの話も聞かなきゃ公平じゃない気がする。僕が行かなきゃいけないのは、ミリィ様たちのところじゃなくて、ユストゥスのところだ」
 沈黙ののち、またエルフリードの声が脳裏に響く。
〈ふーん。意外と君って賢いんだ。そんなふうに君が成長したのは誤算だったな。でも、それじゃ君を表に立たせられないね〉
 リートは食い入るように鏡を見つめた。
「……君はだれなの?」
「僕は君だよ、理人」
 そう言って、鏡の中のもう一人の自分がにやりと笑った。

 近衛騎士も連れず、リートはある部屋の扉をノックしていた。
 返事のあとでリートが扉を開けて中に入ると、礼服姿のミヒャエルが驚いた顔で椅子から立ち上がった。
「リート? どうしてここに」
「式が始まる前に二人に会っておこうと思って」
 まだ驚いているミヒャエルのほうを見ながら、リートがくすりと笑った。
「僕が説得しにきたと思ったの? しないよ、そんなこと。ミヒャエルが決めたことなら、だれがなんと言おうとそれが正しいよ」
 ミヒャエルがリートに微笑んだ。
「ありがとう、リート」
「失礼します」
 入ってきたのはユーリエだった。リートの姿を認めると、薄紫の瞳が驚きに見開かれた。
「リート様」
「ユーリエ? どうして」
 リートが驚いていると、ミヒャエルが説明してくれた。
「彼女はメルヒオルの補助で、そばにいないといけないんだ」
「そっか」
 その時、ノックの音がして、ミヒャエルが応じると扉が開いた。
 入ってきたのはエミリアだった。
 今日の彼女は、リートが王族に謁見したときと同じような、露出の少ない白のドレスを着ていた。頭には半冠ティアラが輝き、何重にも連ねた真珠の首飾りが首元に光っている。両耳には同じく真珠の耳飾りが揺れていた。
「支度はできた?」
「ああ」
 ミヒャエルがうなずく。エミリアの視線が、ミヒャエルの横にいるリートに移ったので、リートがエミリアににっこり笑いかけた。
「突然来てごめん。でも、ミリィ様たちに会っておきたくて」
 リートがそう言うと、エミリアが笑っていつもより長いドレスの裾をまみげた。
「どうかしら。母が用意したドレスだから、わたしの趣味じゃないけど」
「月並みな言葉だが、とても綺麗だ」
「きれいだよ、とっても」
 リートとミヒャエルがそう言うと、エミリアが微笑んだ。
「ありがとう」
 その直後、ノックの音に続いてレーネが入ってきた。彼女もいつものドレスではなく、昼用の礼装姿だった。
「姫様、ペトロネラ様がお呼びです」
 エミリアがため息をつき、肩を竦める。
「わかったわ。ちょっと行ってくるわね」
「ああ」
「いってらっしゃい」

 ドアが閉まり、控え室にはミヒャエルとリート、それにユーリエの三人だけになった。
 リートがミヒャエルに向き直る。
「ミヒャエル、ちょっと話があるんだけど」
「なんだ?」
 坐っていたミヒャエルが立ち上がり、リートの前に立った。
 その時、不意にドン、とリートがミヒャエルに体当たりした。ミヒャエルが困惑してリートの背中に手を回す。
「リート?」
 リートがミヒャエルから離れた瞬間、血が点々と床に落ちた。
 ミヒャエルが腹部を手で押さえ、床に膝をついた。
 リートの手にはどこからともなく現れた短剣が握られていた。
「ミヒャエル様……!」
 呆然と立ち尽くすユーリエに、ミヒャエルが顔を歪め、苦しげに言う。
「逃げろ、ユーリエ。そいつはリートじゃない」
「リート様……?」
 短剣を持ったまま近づいてくるリートに、ユーリエがおびえて後退った。
「いや、来ないで」
 リートがユーリエに近づき、囁くように言う。
「僕だよ、エヴェリーン」
 その名前で呼ばれた途端、ユーリエの動きが唐突に止まった。
 そして次の瞬間、そこには険しい表情でリートの顔を見つめる少女がいた。
 そこに宿る表情は、ユーリエとはまったく別人のものだった
「……エルフリード」
 エヴェリーンと呼ばれた少女が硬い声でそう呼ぶと、リートの姿をしたその少年は、少女の背中にそっと手を回した。
「……会いたかった」

 婚約式の会場で警備をしていたトリスタンは、近衛騎士団長に呼ばれて持ち場を離れていた。
「お呼びですか、団長」
 トリスタンがそう言うと、騎士団長は顔を近づけるように手で仕草をした。
「アンスヘルムが王宮に現れた。おまえも至急部下を連れてアンスヘルムを追え」
 耳元で囁かれた騎士団長の言葉に、トリスタンは眉を上げた。
「しかし、それでは会場の警備が手薄になります。ここはハーナルに任せたほうが」
「ハーナルの到着を待っている時間はない。ただでさえ我々は降臨祭やペトロネラ様の宴で失態を犯しているのだ。しかもまた奴の侵入を許すなど……なんとしても、式が始まる前に捕まえるのだ」
「……承知しました」
 トリスタンは不服な様子だったが、部下たちを数人連れ、会場を出ていった。
 しかしその瞬間、まるでその時を待っていたかのように、扉の前に立っている近衛騎士が扉を次々に閉めはじめた。
 再びざわつきはじめた会場で、騎士団長が不機嫌そうに声を張り上げる。
「おい、なにをしている、まだ開式の時間ではないぞ」
「いいえ。すべて予定通りですよ、団長」
 そう答えたのはまだ年若い近衛騎士だったが、騎士団長は彼の顔を見ることはなかった。騎士の手にした剣が、背後から騎士団長の身体を刺し貫いていた。
 剣を引き抜かれた身体がゆっくりと傾ぎ、仰向けに床に倒れた。なにが起きたかもわからないまま、騎士団長は絶命していた。
 だれも動けなかった。しかしそれも一瞬のことで、すぐに耳をつんざくような悲鳴があがり、会場にいた人間たちは我先に逃げ出そうと扉に殺到したが、扉を守っている騎士たちに剣を向けられ、為すすべもなく部屋の中央に押し戻された。
 青年騎士は、椅子に掛けているマティアスの前に進み出ると、首元に剣を突きつけた。
「床に跪いてください、陛下」
「なにをしている! 陛下をお守りせよ!」
 副団長がろたえて叫んだが、それは不可能だった。近衛騎士たちはほかの王族や、閣僚たちにも剣を突きつけていた。
「陛下を救うのは結構ですが、ほかの王族も閣僚も犠牲になりますよ」」
「貴様ら……! 騎士ともあろう者がなぜ」
 副団長が呻くと、青年騎士が冷ややかな声で答えた。
「騎士だからこそです。この国や陛下に忠誠を尽くし、リヒトを信仰したところでなにも変わらない。王権派は政略に明け暮れ、神聖派は思想を戦わせることしかできず、この国の政治を停滞させている。それに乗じて大貴族たちは自分の領地で圧政を敷き、平民から税を搾り取っているのです。我々貴族はこの国に住むすべての人間のために働いているはずです。それなのに、今では平民たちに憎まれてさえいる。このむなしさがあなたがたにわかりますか? 騎士である我々が行動しなければ、この国は永遠に変わらないのです」
「ふざけるな、暴力でなにかを変えられると本気で思っているのか」
「暴力的なのはあなたがたも同じです。副団長。我々は罪からは逃れられない」
 青年騎士はそう締めくくると、断固とした表情で前を見据えた。
「……ベギールデだけが、我々を救えるのです」

 保管庫にある書類を片づけながら、ルイスは息をついた。
 すべての記録を整理し終えるにはまだまだ時間がかかりそうだった。
 ミヒャエルが次から次へと雑用を押しつけてくるので、さすがにルイスも疲れていた。仕事はできるのかもしれないが、あの男は身の回りの雑用をめすぎている。
 おかげでいろいろと考える暇もなく日々が過ぎていくのは、確かにありがたいと言えばありがたかったが。
 しかし、ルイスはこれが彼なりの気遣いだとは考えたくなかった。自分に嫌がらせをしているだけに決まっている。
 なぜいつもミヒャエルは、自分にああいう態度を取るのだろう。そんなことをしたところで、ミヒャエル自身が虚しさを感じるだけなのに。
 ミヒャエルに詰られ、感情をぶつけられても、ルイスはおまえにどう思われてもかまわないと告げた。そうだ。たとえ反感を買っても間違っているものは間違っていると言うし、納得できなければ反論する。それでだれかを助けられるなら、自分のことなどどう思われてもかまわない。今までルイスはそうやって生きてきた。
 ルーツィアと婚約したことを祝福してくれた人間だって、数えるほどしかいなかったが、ルイスはそのことを気にしたことはなかった。
 メルヒオル、アルフレート、ヴェルナー、ライナス。そして、エミリア。
 むしろ、五人もいるのは恵まれているとルイスは思っていた。
 それに、本当に祝福してほしかった両親はもうこの世にいない。
(よかったわね。おめでとう)
 不意に、エミリアが笑顔で祝福してくれたときのことを思い出して、ルイスは胸が苦しくなった。
 そういえば、今日は彼女とミヒャエルの婚約式の日だった。
 だが自分にできることはなにもない。
 信じていたものが壊れていく。
 そのことに自分は気づけなかった。なにも知らなかった。
 だがそもそも自分はなにに気づけなかったのだろう。
 その正体に気づけないせいで、自分はなにかを失っている。
 言葉にできないなにかを。大切ななにかを。
(彼女が死んだのはおまえのせいだよ)
 クラウスのあざわらう声が脳裏に反響する。
 違う、そんなはずはないとルイスは頭の中で必死に打ち消した。
 しかしその時、不意にくりいろの長い髪が、一瞬視界の端をかすめた気がした。
(……ルーツィア?)
 そんなはずがない。彼女はもういない。
 しかし、ルイスの足は勝手に動いていた。
 書類の入った箱を床に置いたまま、ルイスは保管庫の通路を中央まで進んだが、部屋には自分以外だれもいなかった。
 ルイスは目をこすった。
 幻覚でも見たのだろうか?
 しかしそんなことを考えていたせいで、ルイスは背後に迫る気配に気づくのが一瞬遅れた。
 振り返る前に首筋を強い衝撃が襲い、ルイスはその場に崩れ落ちた。
 薄れていく意識のなかで、ルイスの目に映ったのは、そんな自分の様子を悲しげな顔で見つめているルーツィアの姿だった。
「……ルーツィア」
 ルイスは彼女に向かって必死に手を伸ばした。しかし、その手が決して届かないことを知っていた。
 それでもルイスはやめなかった。
 行く当てのないその手はもがくように宙をさまい、やがて力なく地に落ちた。