メルヒオルとユストゥスは、王宮内のある部屋を訪ねていた。
秘書に案内されて二人が部屋に入ると、髪も髭も見事に真っ白な老年の男が近づいてきた。
「メルヒオル。蟄居中ではなかったのかね」
「すまないね、ニコラ。だが事は緊急を要す事態でね」
挨拶もそこそこに、メルヒオルはニコラウスに席に促される前に応接用のソファに腰掛けた。ユストゥスが無言でその傍らに立つ。
ニコラウスはユストゥスの姿を認めると、一瞬顔をしかめたが、メルヒオルがなにも言わないので、追及することをやめたようだった。
「しかし、もうすぐ王女の婚約式が……」
「ニコラ。わたしと陛下に隠していることがあるね。しかも一つ二つどころの話じゃない」
普段の穏やかな態度は鳴りをひそめ、メルヒオルの全身からは緊張が漲っていた。
「リートを殺すために原理主義者のふりをした人間たちに襲撃させたのも、ノルベルトを襲撃させたのも、神聖派のだれかの差し金だろう」
メルヒオルが有無を言わせない口調で畳み掛けると、ニコラウスは諦めたようにため息をついた。
「わたしがやらせたわけじゃない。わかっているだろう。神聖派は王権派と違って一枚岩ではないんだ。わたしでは抑えられない過激な人間もいる」
メルヒオルが険しい顔になる。
「ならば調査してなんらかの処分を下すべきだった。それにもかかわらず、あなたは盟主としての義務を放棄し、犯人を突き止めようともせずこの事態を黙認した。それは、リートにもノルベルトにもあわよくば消えてほしいという願望があったからだ」
メルヒオルが探るような視線をニコラウスに向ける。
「百年前も、今と同じ状況だったのかな?」
「なにを――」
「……ニコラ。百年前、本当はなにがあった? リートが調べていた劇の台本を盗んだのはあなただろう。過去の真相に辿り着かれると困ると思ったのだろうが、それこそがこの一連の事件の謎を解く鍵だった」
「台本? なんのことだ」
ニコラウスはそう言ったが、目は忙しなくまばたきを繰り返していた。
「わたしが生き証人からすべて聞いたと言ったらどうする?」
メルヒオルが厳しい口調で言うと、ニコラウスが鼻で笑った。
「まさか。そんなことはありえない。百年前だぞ」
「……エルフリード。この名に聞き覚えがないとは言わせない」
口を開いたのは、それまで黙って二人のやりとりを聞いていたユストゥスだった。
ニコラウスの顔色がさっと変わる。まるで幽霊を見たときのような反応で、ニコラウスはよろめくように後退った。
「だれなんだ、おまえは」
「ソリンの騎士、ユストゥス・フォン・グライム」
ユストゥスが名乗ると、ニコラウスは目を剥いた。
「……ユストゥスだと? あのユストゥスとエヴェリーンの? 馬鹿げたことを。メルヒオル、君ともあろう者が、こんな誇大妄想に取り憑かれた男の言うことを信じたのか?」
「ああ、そうだ」
メルヒオルがうなずき、険しい顔でニコラウスを見た。
「ニコラウス。爆破事件から端を発したこの一連の事件は、すべてそこに繋がっている。リヒトを否定し、国を混乱に陥らせるのがベギールデの目的だった。だが、彼らにはそうするだけの根拠があったんだ」
「奴らは王の責任を隠蔽するために、すべてをエヴェリーン一人に押しつけた。エヴェリーンは一人も殺していないし、傷つけてもいない。血まみれなのはおまえたち貴族と先々代の王、アウグストだ」
ユストゥスがそう言うと、ニコラウスは項垂れ、両手を顔で覆った。
「……どこまで知っているんだ」
「だいたいのことはエヴェリーンから聞いている。だれにも知られないよう王宮の一室で監禁して育てていたことも、彼女がエルフリードと意思の疎通を図ろうとしたことも」
ユストゥスが淡々と言うと、ニコラウスは両手を顔から離して膝の上に置いた。
ニコラウスは深く息を吐き、おもむろに口を開いた。
「あの悪魔を外に出すわけにはいかなかったんだ。わたしも父から聞かされただけで奴のことは詳しくは知らない。だが、ヴォルヴァ以外の力を持つものなど考えただけで恐ろしい。アウグスト様が隠そうとしたのも無理はないことだ」
「隠したところで力が抑えられるわけではないだろうに」
メルヒオルが苦々しげな顔でそう言うと、ニコラウスは力なくうなずいた。
「そうだ。成長するにつれ、あれの存在を隠すことが難しくなった。そこでエヴェリーンに白羽の矢が立った。エヴェリーンの力ならあれを抑えられるのではないかと。それは一時的に成功し、王宮は平穏を取り戻した。しかしそれは本当に一時のことだった。エヴェリーンはあの悪魔を制御できなくなった。だから死んだんだ」
「本当に閣僚たちを殺したのはエヴェリーンではなく、エルフリードだった。だが、アウグストはその事実を隠蔽し、遺族に嘘の説明をした。しかもその処理に当たった官僚は、辞任という形にはなっているが責任を取らされ、辞めさせられた。……そうだね?」
ニコラウスがうつむいた。
「仕方がなかったんだ。民にすべてを公表することなどできるはずもない。王の権威に傷をつけず、なるべく穏便に処理しなければならなかった」
「ニコラウス。あなたがしていることは王権派と同じだ。あなたは権威を守るために信仰を犠牲にした」
メルヒオルの弾劾にニコラウスの顔が歪む。
「この事は、あなたの口から陛下に告げてほしい」
ニコラウスがメルヒオルを睨む。
「できるわけがないだろう。君が人の罪を必要以上に弾劾する人間ではないことはよくわかっている。しかし、この事が王権派に知られたら我々はおしまいだ」
ニコラウスはそう言って立ち上がり、メルヒオルをまっすぐに見据えた。
「ただでさえ人心はリヒトから離れつつある。信仰など役に立たないと人々は気づきつつある。しかし、信仰なき世界で我々はなにに縋る? あの爆薬を作った男が言うところの科学か? それともハインリヒが言う権威ある国家か? それは即効性があるかもしれないが、すぐに効き目が切れるだろう。そんなものに縋れば、今よりもはるかに速い速度で我々の文明は崩壊する。我々はそう遠くないうちに破滅の日を迎えるだろう」
「わたしもそう思うよ、ニコラ。だが、それは人が悪いのではない。わたしたちの進化だよ。信仰や国家に代わる、孤独を支えるものを、我々は見つけなければならない。だが、わたしたちはもうその答えを知っている。自分では気がついていないだけでね」
そう言ってメルヒオルは、ユストゥスのほうをちらりと見た。
「これからなにが起きるというんだ」
「近衛騎士にアンスヘルム・ツー・ヴォルフスブルクという男がいる。ルーツィアを――ルイスの婚約者を殺した男だ」
「ヴォルフスブルク……?」
「彼の曽祖父は官吏だった。わたしが調べたところによると、彼は閣僚たちに事件の記録の改竄を命令され、実行した官吏だ。アルベリヒは彼から話を聞いて利用できると思ったんだろう」
そこで言葉を切り、メルヒオルが静かにニコラウスを見つめる。
「アンスヘルムはこの国に復讐する気なんだよ」
衝撃で口も利けずにいるニコラウスに、ユストゥスが鋭い視線を向けた。
「訊きたいことがある。エヴェリーンの身体をどこに隠した。この百年探したが見つからなかった」
「聖殿の祈り場に安置してある。エヴェリーンが眠りについたときも、陛下を守った結界が消えることはなかった。だから陛下はエヴェリーンがまだ生きていると主張したんだ。そして聖殿に身体を安置するように命じた」
ユストゥスはメルヒオルのほうを見た。
「エルフリードは今そこにいるはずだ。そして天啓者の中にいる」
「聖殿に騎士たちを」
メルヒオルはそう言ったが、ユストゥスが鋭く言う。
「駄目だ。エヴェリーン以外の人間が奴に近づけば殺される。常人の敵う相手ではない。唯一の弱点があるとすれば、百年経った今も、奴の精神が子どものままだということだけだ」
「なぜわかる?」
訝しげな表情のニコラウスにユストゥスが淡々と答えた。
「奴も俺も、あの時とほとんど変わっていないからだ。俺たちは普通の人間と同じように、百年を生きていたわけじゃない」
「それは」
どういう意味だとメルヒオルが訊ねようとしたその時、扉が開いた。扉からニコラウスの秘書が姿を見せる。
「閣下。式のお時間です」
「わかった」
「この件はあとで話そう。婚約式が終わったら、早急に閣議を開くよう陛下に進言する」
「閣下」
「今行く」
秘書にもう一度促され、ニコラウスが扉に向かおうとしたが、ユストゥスが腕を掴んで制止した。
「……ここにいろ」
ユストゥスは慎重に扉に近づくと、細く扉を開けた。
「閣下はわたしが連れていく。おまえは戻れ」
ユストゥスはそう言って扉を閉めようとしたが、足を挟まれて阻止された。
近衛騎士が、背後から秘書の首に短剣を突きつけていた。騎士がユストゥスににやりと笑う。
「こいつがどうなってもいいのか」
しかし、ユストゥスはまったく表情を変えなかった。
即座に扉を閉め、騎士の足を挟み込んで締めつける。騎士が痛みに動きを止めた瞬間、ユストゥスは男の足を持ったまま扉を再び開けて蹴り倒した。
ユストゥスは騎士を羽交い締めにして部屋の中に引き摺り込むと、短剣を取り上げて遠くに投げ、騎士が腰に差している剣を奪った。剣を鞘から抜き放ち、ユストゥスが騎士の首を掻き切ろうと手を振り上げる。
「待ってくれ、ユストゥス」
止めたのはメルヒオルだった。
メルヒオルは、ユストゥスに拘束されたままの騎士に近寄った。
「君はベギールデの人間かな?」
メルヒオルがそう問うと、近衛騎士が笑った。
「逃げても無駄だ。王宮は我々が占領した。ここはもうおまえたちのものじゃない。今日からベギールデが国を治める」
ユストゥスは首筋に手刀を叩き込み、騎士を気絶させた。
「……始まってしまったようだね」
メルヒオルはつぶやくように言うと、ニコラウスに向き直った。
「あなたは会場に行ったほうがいい。陛下や閣僚たちと合流するんだ」
ニコラウスが恐怖に目を見開く。
「馬鹿なことを言わないでくれ! わたしは真っ先に奴らに殺される」
「あなたは神聖派の長だ。利用価値があるうちは殺されることはない。わたしはエルフリードがいる聖殿に行く。それでもついてくる気かな」
「俺も一緒に行く」
ユストゥスがそう言うと、メルヒオルが静かにうなずいた。
「わかった。行こう」
ミヒャエルは瞼を開けた。
まだ頭がぼんやりしたままの状態で、ミヒャエルは身体を起こして辺りを見回した。
自分がいるのは聖殿のようだった。
リートに刺され、床に倒れたところでミヒャエルの記憶は途切れていた。
しかし、身体に痛みはなく、傷ひとつついていない。それにユーリエの姿もない。
あれはなにもかも夢だったのだろうか。
それとも、まだこれも夢の続きなのだろうか。
(……どちらでも同じか)
そもそも、ルーツィアと別れたあの日からの自分は、醒めない夢を見続けているようなものだった。
オルゴールの鍵を開けても、自分の時間は未だに止まったまま動かない。
しかし聞こえてきた足音で、ミヒャエルの儚い願望は打ち砕かれた。
「目が覚めた? あそこに君を置いておくわけにもいかないから、一緒に連れてきたんだ」
現れたリートを、ミヒャエルはじっと見つめた。
(こいつはリートじゃない)
あの時、とっさにユーリエにそう言ったが、ミヒャエルは自分の判断に自信が持てなかった。
なぜ自分はあんなことを口走ったのだろう。
自分はずっとリートに騙されていた。その蓋然性が一番高いはずだ。
「傷も治しておいたよ。君にはいろいろ感謝してるからね。君が優秀だから助かったよ。だいたい僕の予測通りに踊ってくれた。ユストゥスのことも逮捕してくれたしね。それにベギールデが動いてくれたおかげで、僕はずいぶん動きやすくなった」
ミヒャエルは笑いだしたくなった。
利用していたはずが、自分はずっとリートに利用されていたのだ。
あまりに見事すぎて怒りも湧かない。
「おまえはベギールデに通じてるのか」
「いや。僕は動向を見守っていただけだ。彼らのことはまったく知らなかった。でも、僕が帰ってきてからすべてが動きだしたのは確かだね」
リートが皮肉っぽく笑う。
「ブロスフェルトもアルベリヒもハインリヒも、自分のことしか考えていないただの愚か者さ。権力や権威を得てなにを勘違いしたのか、自分に他人は従うべきだと考え、自分の正しさを通すために平気で他人を支配しようとする。つまらないね。そんなことばかり考えているから、簡単に利用されてしまうのさ。そして利用されていることにも気づかない」
違う。ミヒャエルは直観的にそう思った。
常に戦略を立て、計算してかりそめの自分を演じているからわかる。
この少年は、リートとまったく雰囲気が違う。もはや演じ分けられるような領域を超えている。
なんの感情も宿っていない虚ろな瞳。皮肉っぽい口調。冷たく残忍に歪む口元。
この少年はむしろ、自分に似ている。
「おまえはだれなんだ?」
ミヒャエルの質問に、リートの姿をした少年はにやりと微笑んだ。
「やっとまともな質問をしたね」
次の瞬間、少年はミヒャエルの顔すれすれの位置に瞬時に移動した。
宙に浮いたままの体勢で少年が語りだす。
「僕はエルフリード。父親は先々代の国王アウグスト、そして母はヴォルヴァだった。母はアウグストに襲われて僕を身籠もった。そして、僕を産んだあとで自殺した。だからなのかはわからないけど、どういうわけか僕には生まれつき力が備わってる。でも僕の力はとても不安定で、人と会うと暴走して死人が出るほどだった。それでアウグストは僕を幽閉してだれにも会わせないようにした。殺されるのが怖かったんだ」
エルフリードはさも可笑しそうに喉を鳴らして笑ったが、その目は虚ろなままだった。
「でもある日、そんな僕に会いにきた人がいた。それがエヴェリーンだった。彼女は僕が生まれて初めて出会った、僕と同じ力を持つ人間だった。エヴェリーンに会ってから僕の世界は一変した。僕の力は安定して、人に会っても暴走しなくなった。――あの馬鹿な騎士が現れるまでは」
エルフリードはそう吐き捨てると、ミヒャエルから離れ、すいっとまた空中に浮かんだ。
「ユストゥスが現れるまで僕らは幸せだった。ユストゥスは劇で書かれてるような善良な人間じゃない。勝手なことばかりするソリンの鼻摘まみものだった」
「……おまえから聞いても信用できないな」
ミヒャエルがそう言うと、エルフリードが酷薄な笑みを浮かべた。
「そう思うんだ」
その途端、衝撃がミヒャエルの身体を貫いた。ミヒャエルが自分の身体を見下ろすと、腹部には短剣が突き刺さっていた。
そのことを認知した瞬間、激しい痛みが襲い、ミヒャエルはその場に崩れ落ちた。
その様子を宙空から見下ろしながら、エルフリードが冷たく言い捨てる。
「僕は保身のために嘘をつくような、薄汚い連中とは違う」
エルフリードは床に降り立つと、ミヒャエルの傍らにしゃがみ込んだ。
「ずっと見ていたけど、君はずっと苦しみたかったみたいだね。理人やあの王女はそれがつらかったみたいだけど、僕は違う」
口元を惨たらしく歪め、エルフリードは微笑んだ。
「なんのために君の傷を治したと思う? ただ傷つけ続けるより、治してまた最初から傷つけたほうがずっと苦しいからだよ。お望みならいくらでも苦しみを与えてあげるよ。……それで君が救われるならね」
