第91話 囚われの騎士

「ヴェルナー」
 名を呼ばれ、振り向いたヴェルナーは目を丸くした。
 そこに立っていたのはアルフォンスだった。
 ヴェルナーはいつも通り、ソリンの同僚たちと訓練場で剣術の稽古をしている最中だった。
「珍しいな、おまえがここに来るなんて。ソリン嫌いが治ったのか?」
 ヴェルナーはからかったが、アルフォンスはそれには答えず、いつになく深刻そうな顔で口を開いた。
「ルイス様がどこにもいない」
「は?」
 ヴェルナーは思わず間の抜けた声を出していた。
 ルイスが遅刻するなどありえないし、欠勤するなら絶対に連絡を入れるはずだ。
「今朝、書類保管庫に行かれてから行方がわからない。早退なさったのかと思ったが、あの方がだれにも言わず退出するわけがない。だから探しているんだが」
「ここにはいないぞ。宿舎は見たのか?」
「ああ、だがいらっしゃらなかった」
 ヴェルナーは訓練場にいる同僚たちを見渡して声をかけた。
「だれか、ルイス様を見てないか?」
 その時、ヴェルナーはこちらを見ていたクラウスと偶然目が合った。
 彼の口元がにやりと笑ったのを見て、ヴェルナーは確信した。
「クラウス! おまえだな」
 ヴェルナーはクラウスに走り寄ると、その勢いのままに胸倉を掴んだ。
「……なにをした。ルイス様になにをしたんだよ!」
 しかし、クラウスが答える前にそれは遮られた。
「全員今すぐ準備しろ!」
 訓練場に現れたのは、アルフレートだった。そばには副団長のアンドレアスもいる。すでに二人とも防具で身を固め、準戦闘態勢に入っていた。
「なにがあったんですか」
 緊張した面持ちで騎士たちがアルフレートを見た。
「王宮がベギールデに乗っ取られた」
 ヴェルナーは一瞬ぼうぜんとしたが、すぐに頭を切り替えた。
 ルイスが消えたことと、この事が無関係だとは思えなかった。
「クラウス、おまえはこのことを知ってたんだろ! 答えろ!」
 ヴェルナーが詰め寄ると、クラウスが鼻で笑った。
「わたしはなにも知らない。笑っただけでそうだと決めつけるおまえのほうがどうかしてるんじゃないのか。どうせ書類整理に嫌気がさしてサボってるんだろう」
「ふざけるな! おまえはルイス様を嵌めたかったから奴らに協力したんだ!」
「ヴェルナー、やめろ」
 アルフレートが短く言い、騎士たちを見渡した。
「この前話したとおりだ。訓練通りにいくぞ」
 騎士たちが一斉にうなずき、装備のために更衣室に向かって走りだす。
 アルフレートがヴェルナーたちに視線を向ける。
「おまえたちも準備しろ」
「ですがルイス様が!」
「今は陛下たちの御身が最優先だ」
 アンドレアスにそう言われ、ヴェルナーは唇をみ締めた。
 クラウスが不機嫌そうな声を出す。
「おい、聞こえただろう。さっさとその手を離せ」
「……なぜルイス様がずっと書類整理をしていたことを知ってる?」
 そう言ったのはアルフォンスだった。
 ヴェルナーは驚いて声のしたほうを見た。
 頭に血がのぼっていたせいで、アルフォンスの存在をすっかり忘れていた。
 クラウスの口元からさっと笑みが消える。
「……なにを」
 明らかに動揺した様子のクラウスに、アルフォンスが厳しい視線を向ける。
「ずっと従者に尾行させていたのか? ハインリヒのおいであるおまえが頼めば、ハーナルの制服は業者から直接手に入れられる。今ここで使いをやって確かめてみようか。そうすればすぐにぎぬを晴らせるが」
「違う! わたしはなにもやってない!」
 クラウスは血の気のせた顔で、アルフレートのほうを見た。
「信じてください団長! こいつらはわたしを嵌めようとしているんです! わたしはなにも知りません!」
「ならばなぜ彼の提案に反対するんだ。無実ならいくらでも調べてもらえばいい」
「そんな屈辱は騎士として到底受け入れられません!」
 まだ抵抗しているクラウスの横で、アルフォンスがヴェルナーに静かに告げた。
「ヴェルナー、クラウスはわたしがハーナルに連行する。おまえは自分の仕事をしろ」
 アルフォンスの濃い青色の瞳を見たとき、ヴェルナーはふとルイスのことを思い出した。
 彼は人間関係でめることはあったが、仕事のこととなるといつも冷静で、取り乱した姿は一切見せなかった。
 ルイスが今ここにいたなら、きっと自分に同じことを言っただろう。
 ヴェルナーは乱暴にクラウスを放すと、アルフォンスのほうに押しやった。
「……頼む」
 
 更衣室に向かいながら、ヴェルナーは無意識に歯を食いしばっていた。
 なぜこうなってしまうのだろう。ルイスはいつだってまっすぐで、人のために尽くしてきた。なぜそこまで恨まれなければならないのだろう。
 準備を終えたヴェルナーが更衣室を出ると、訓練場には全員が整列し終えていた。
 ヴェルナーが配置につくと、アルフレートが剣を抜き放ち、その場に跪きながら胸の前に水平にかざした。
「リヒトのために」
 瞼を閉じたまま、アルフレートがそう唱えると、ソリンの騎士たちが一斉に跪き、瞼を閉じて唱和した。
「……リヒトのために」

(ルイス様)
 ルイスは目を開けたが、飛び込んできた光景に目を疑った。
 白いドレスを着たルーツィアが、ルイスの目の前に立っていた。
 しかしルイスが彼女を認識した瞬間、ルーツィアは淡く微笑むと、ルイスに背を向けた。長いくりいろの髪が翻る。
 行かないでくれ。
 そう言いたかったが、なぜか声にはならなかった。
 一歩踏み出そうとしたその瞬間、段差につまずいたときのように身体が傾いだ。
 世界が反転し、なにも見えなくなる。

 ルイスは目を覚ました。
 椅子に坐らされ、後ろ手にされた手首には手錠がかけられていた。ルイスはできるだけ冷静に周囲の状況を把握しようとした。
 自分がいるのは、王宮の中にある礼拝堂だった。
 ルーツィアが死んでから、リートの騎士を解任されるまでのあいだ、ルイスはごと朝毎夕ここで祈っていた。
 ルイスの記憶は、書類保管庫でだれかに背後から殴られたところで途絶えていた。
 あれからどれくらいの時間が経過したのだろう。
「気づかれましたか、ルイス様」
 ルイスははっとして声のしたほうを見た。近づいてきたのは、深紅の制服を着た若い男だった。歩くたびに、礼拝堂に長靴の音が反響した。
 ルイスは男をじっと見つめた。ルーツィアが死んだ日、この男が自分に挨拶したときのことをルイスは鮮明に覚えていた。
 ミヒャエルが言っていた近衛騎士の男。
 取り立てて特徴のない、金髪に青い目の組み合わせ。
 平凡で印象に残りにくい顔立ち。
「……アンスヘルムだな」
 ルイスがそう言うと、アンスヘルムが微笑んだ。
「お話しするのはこれで二度めですね。もっとも、あなたが王宮勤務になってから、お姿はよく拝見していました。わたしは近衛騎士ですから」
「降臨祭で騒ぎを起こしたのもおまえだな」
「ええ。造作もないことでした。まさか同じ日に、聖殿に賊が侵入するとは思いませんでしたが」
「なぜアルベリヒに味方する」
 ルイスの問いに、アンスヘルムはそっと目を伏せた。
「あの方が罪深いわたしを救ってくださったからです」
「罪だと……?」
「曽祖父が犯した罪です。曽祖父を筆頭に、我々の一族はだれもがけいけんなリヒト信者でした。ですが、百年前に王宮で起きたある事件が曽祖父の人生を一変させた。エヴェリーンの事件です。曽祖父はこの事件の真相を隠蔽するように上司から脅迫されたのです。曽祖父は断れずこれを受け、良心のしゃくに耐えきれず精神を病みました。そしてほとぼりが冷めた頃、責任を取らされて免職になった」
 ルイスは目を見開いた。
 エヴェリーンの事件のことはよく知っていた。
 メルヒオルの授業でも大学の講義でも習った。しかし、自分が教えられてきた歴史と、アンスヘルムが語る話はまったく違っていた。
 歴史は為政者の都合で解釈が決まる。リートにそう教えたのは他でもない自分だった。だがその本当の意味をわかっていなかったことに、ルイスはこの時初めて気がついた。
「曽祖父は少しでも罪悪感から逃れるためにかたくなにリヒトの教えを守り、一族にもそれを強要しました。曽祖父が死に、祖父が一族を支配するようになってもそれは変わらなかった。わたしたちはさいあやまちも許されなかった。あいない嘘一つで罰を受けた。怒ることも悲しむことも禁じられ、いつも笑顔でいなければならなかった。いつもリヒトに祈らされましたよ。リヒトリヒトリヒト……うんざりするほどね」
 アンスヘルムは乾いた笑みを浮かべたが、すぐにそれを消し去った。
「けれど、リヒトはわたしを救ってはくれなかった。我々一族はだれも祖父に逆らえなかった。すべてを隠蔽する代わりに、陛下から頂いた財産で暮らしていたからです。わたしたちは曽祖父が罪を犯したおかげで生きていた。そのことをだれも糾弾できなかった。わたしの父はそれに耐えきれず、ほかの親族と共謀して祖父を殺しました。だが事態はそれで終わらなかった。父は親族を信用できず、ばくだいな財産を守るために、息子のわたし以外の全員を皆殺しにしたのです。そして父は、わたしが成人したときにわたしの目の前で自殺しました。屋敷も財産も、なにもかもをわたしにのこして」
 ルイスはなにも言えないまま、呆然とアンスヘルムの話に耳を傾けていた。
 彼の語る内容は、あまりにも凄惨だった。
「こうしてわたしは独りになった。でもわたしはもう世間にめなかった。普通の家族の元で育った人間がうらやましくて仕方なかった。自分があわれだと認めたくなかった……だがあの方は、わたしにゆるしを与えてくださった。だから今もわたしはこうして生きている」
 アンスヘルムがルイスに微笑みかける。
 それはすべてが満ち足りている人間が浮かべる笑顔にも見えたが、どこか夢を見ているようでもあった。
「わたしはあの方のためならなんでもする。人を殺すことだっていとわない」
「おまえがルーツィアを」
「そう、わたしが殺しました。あの女もわたしと同じ気持ちを抱えていた。人は、心のどこかでは本当は断罪されたいのです。罪を宣告され、罰を受けると楽になれる」
 そう語るアンスヘルムの表情は穏やかで幸福そうだったが、ルイスにはそれがとても恐ろしいものに感じられた。本来備わっていたであろうアンスヘルムの人間らしい感情は、度重なる死で完全にしているようだった。
 彼は壊れているのだ。ルイスはそう思った。
「あなたもわたしと同じです。きっと安らぎを得ることができる。あの女もそうでした。あなたと出会ってからもずっと断罪されたがっていた」
「断罪だと……?」
「知りませんでしたか? あの女は、母親が死んだのは自分のせいだと思っていたのです。だからこそあそこまで父親に忠実だった。生きていることそのものが、あの女にとっては罪だったのです」
 アンスヘルムの言葉にルイスはがくぜんとした。
 彼女が生まれてすぐに母親を亡くしたことは知っていたが、ルーツィアがそんなふうに考えていたとは知らなかった。
 生きていることそのものが罪。
 なぜ自分だけが生きているのだろう? 
 両親が死んだとき、ルイスはそう思っていた。
 まさか、彼女も自分と似たような気持ちを抱えていたなんて。だから自分はルーツィアにかれていたのだろうか。彼女が自分と似ていたから。
「わたしに言わせれば、所詮悲劇に酔っているだけの馬鹿な女でしかありませんが」
 そう言って鼻で笑ったアンスヘルムを、ルイスは険しい顔でにらみつけた。
「……彼女をそんなふうに言うな」
かばうのですか? 彼女はあなたを裏切ったのに」
 ルイスは動じることなく、アンスヘルムの目をまっすぐに見返した。
「おまえたちがルーツィアを脅迫して追い詰めた。殺したのはおまえたちだ」
 アンスヘルムが口元を上げる。
「本当はわかっているはずですよ。彼女が死んだのはあなたのせいだ。あなたと一緒にいたから彼女は追い詰められたのです。あなたがあまりにも正しすぎたから」
(正しければ、人を傷つけてもいいの?)
(あなたは存在するだけで人を傷つける)
 リートとアルベリヒに言われた言葉がよみがえる。
 ルイスにはわからなかった。なぜそんなことになるのだろう。
 本当に罪を犯していたのは自分のほうだったのだろうか。
 そんなはずはない。いつだって自分は正直に生きてきた。
 ならばなぜ、自分はここまで追い詰められているのだろう。
(傲慢な騎士に呪いあれ)
 クラウスには事ある毎にそう言われてきた。
 しかしルイスは、自分のしていることがすべて正しいなどという考えを持ったことは一度もなかった。
 ただ、正しくあろうと努力してきただけだ。
(なにが正しくてなにが間違っているかなんて、だれにわかると言うのでしょうね)
 ルーツィアはそう言った。
 そんなことはだれにもわからない。
 だが、考えなければならない。
 答えを出さなければならない。
 選ばなければならない。
 ルイスはそう信じていたし、それを実践してきた。
 それでいいと思っていた。だが自分はなにもわかっていなかったし、なにも知らなかった。
 ミヒャエルに指摘されるまで、そのことに気づかなかった。
 ルーツィアのことも、エミリアのことも、ミヒャエルのことも、そして目の前にいるこの男のことも、自分はなにも知らない。
 知らないことを知らなかった。
 なにも知ろうとしていなかった。
 彼は敵だ。頭ではわかっているのにルイスは動けなかった。
「あなたがどれだけリヒトの教えに忠実でも、救われることはない。あなたは赦されないのです」
 ルイスはアンスヘルムを静かに見つめた。
「それがわたしの犯した罪だと言うなら、たとえ孤独から解放されずとも、赦しが与えられなくても、わたしはそれを受け入れる」
「……そうですか。残念です」
 アンスヘルムはそう言うと、腰に帯びていた十字型の短剣――スティレットを鞘から引き抜いた。その剣の形状を、ルイスは今も鮮明に覚えていた。ルーツィアの命を奪ったあの短剣だ。
 アンスヘルムはスティレットのせんたんを、ルイスの右肩に突き刺した。 痛みでルイスの顔が歪む。鮮血が流れ、服ににじんだ。
 耳元でアンスヘルムが低く囁く。
「まだ間に合います。わたしたちのところに来れば、最後の審判が下ってもあなたは生きられる。なにも考えず、ただドンケハイツに従えばいい。そうすれば、あなたの罪は赦される」