「初めまして。あなたがアルベリヒね」
なんとか平静を装ってエミリアがそう言うと、アルベリヒがうっすらと微笑んだ。
「決闘王女。あなたのことはよく知っていますよ」
「直接会ったことはないのに?」
「彼女から聞きました。王宮に来る前から、彼女はあなたの気持ちに気づいていましたよ」
エミリアは手を固く握り締めた。やはりルーツィアは知っていたのだ。知っていたのに彼女はなにも言わなかった。いや、言えなかったのだ。
自分が王女だから。権力を持っている人間だから。
あんなことを言わなければよかった。
自分は普通の人間とは違う。権力を持った人間が自分の気持ちをみだりに口にしては、周りの人間が振り回されてしまう。
結局自分は、ルーツィアに気を配っているようで、いつも自分のことしか考えていなかった。
「彼女は見なくてもいいものまで見えてしまう人間だった。幸せな人間はだれも彼も鈍感だ。繊細な彼女はその重みに耐えられなかったのです。ほかの人間を踏みつけて、利用して、自分の気持ちに嘘をついてまで安らぎを手に入れることがね」
(エミリア様。あなたはとても優しい方です。わたくしなどよりずっと)
あれはきっと、そういう意味だったのだ。
彼女ならルイスを愛してくれると思ったのに。
どうしてこうなってしまったのだろう。
「あなたが決闘を繰り返してきたのは、好きな人間がいるからでしょう? だが、あなたの思いは永遠に叶わない。彼女が死んでしまったから」
エミリアはうつむいた。
「そんなことはもう諦めたわ」
自分がしなければならないのは、色恋にうつつを抜かすことではなく、王太女としての役目を全うすることだ。
だから自分は正式に婚約しようと思った。
そうしなければ前に進めないから。彼への思いを断ち切れないから。
「……そうですか」
「さっさと歩け」
近衛騎士がマティアスにそう言うと、ゾフィーが立ち上がって叫んだ。
「無礼な! 陛下に対してなんという口の利き方を」
「うるさい人間は黙らせろ」
エミリアはアルベリヒに鋭い視線を向けた。
「やめなさい。ここにいる人間を傷つけることはわたしが許さない」
アルベリヒが超然とした態度で微笑む。
「わかりました。ですが、あなたがた王族は拘束させていただきます」
「かまわないわ」
エミリアがそっけなく言うと、ゾフィーに視線を向けた。
「今は黙っていたほうがいいわよ、ゾフィー。理屈の通じる相手じゃないから」
ゾフィーが唇を噛み締め、エミリアから目を逸らした。
どんなに気に入らなくても、意見が合わなくても、ゾフィーは自分が守るべき国民だ。エミリアはそのことを忘れたことはなかった。
表情には出さなかったが、エミリアは手錠をかけられながら内心では不安だった。戦う訓練は積んできたが、捕まってしまっては自分は無力な存在でしかない。
しかしこの部屋の中だけでもかなりの数だ。今見える範囲で二十人はいる。
近衛騎士は全体で六百人いるが、そのうちいったい何人がベギールデの手下になっているのだろう。
せめて時間稼ぎをしなくてはならない。エミリアはそう思って口を開いた。
「あなたはどうしてルイスを狙うの? あなたたちの狙いはこの国のはず。彼は関係ない」
アルベリヒが焦点の合わない目で微笑む。
「我々が救わなければならない人間だからです。あなたもご存知でしょう? 痛みを痛みと思わない人間は、いつか他人を傷つけてしまう」
「……そうかもしれない。でも、だれも救えないわ。どんな人にも彼は救えない」
エミリアが淡々と言うと、アルベリヒが眉を上げた。
「彼を救いたかったのでは?」
「そうよ。でも不可能なの。あなただって本当は気づいてるくせに」
エミリアはアルベリヒをまっすぐに見つめた。
「この世界のどこにも救いなんて存在しないって。それを受け入れられないから、ドンケハイツなんてものにしがみついているんでしょう。あなたは諦めたのよ。自分で自分を救うことを」
そう口にした瞬間、エミリアはアルベリヒに顔を叩かれ、床に叩きつけられていた。
「エミリア!」
ペトロネラが声をあげる。
床に倒れたエミリアを見下ろし、アルベリヒが冷たい口調で言い放つ。
「あなたになにができます。なにもできず、ここであの男が死ぬのを待っていればいい」
エミリアは動けなかった。
殴られたことなどどうでもよかった。
それよりも、自分の不甲斐なさが嫌だった。
なにかにのしかかられているかのように身体が重い。
あの男の言ったとおり、自分はこのままルイスが死ぬのを待っていることしかできないのだろうか。
しかも、自分が選んだのではないものばかり身につけたこんな姿で。
(……冗談じゃない。こんなのわたしじゃない)
だが、そもそも自分とはなんなのだろう。
いくら考えてもエミリアにはわからなかった。
だとしたら、いったい今まで自分はなんのために戦っていたのだろう。
今まで自分のしてきたことはすべて無駄だったのだろうか。
エミリアは拘束された両手を固く握り締めた。
そうかもしれない。
だが、そうだとしてもこのままでは終われない。
諦めたくない。自分の好きなものも、自分の望みも。
「大丈夫か?」
マティアスの囁く声に、エミリアはなんとか上体を起こし、静かに告げた。
「……お父様。わたしはここを脱出します」
ペトロネラが目を見開く。
「エミリア、なにを――」
「手立てはあるのか?」
マティアスの問いかけに、エミリアは首を振った。
「いいえ、なにも」
「それでも行くのか?」
「はい」
エミリアは迷わずうなずいた。
なにも手立てがなくても、自分は行かなければならない。
それだけははっきりしていた。
たとえ彼の元に辿り着けなくても、自分はここですべてが終わるまで、ただじっと待っていることを選ばない。
「どこへ行くというのです。あなたにはミヒャエルがいるでしょう」
あくまでも自分を引き止めようとするペトロネラに、エミリアは微笑んだ。
「わたしが好きなのは、今も昔もルイスだけです」
そうだ。なぜもっと早く認めなかったのだろうとエミリアは思った。
永遠に言えなくなってしまう前に。
でも本当は、この気持ちさえあればよかったのだ。
彼を思うこの気持ちさえあれば、自分は強くなれる。
なのにいつも傷つくことばかり恐れて、自分の気持ちに素直になれなかった。
好きだとは言った。だが、肝心の自分の気持ちはなにも伝えられなかった。
「……手立てならある。玉座の下に隠し通路がある。代々王と女王にだけ受け継がれてきた秘密のひとつだ」
マティアスは袖の下から隠し持っていた小さなピンをエミリアに渡しながら、耳元で囁いた。
「部屋に着いたら、机の上に置いてある箱を開けるんだ。性能は同じで、前のより軽くしてある。――わたしからの婚約祝いだ」
エミリアは目を見開いて父親を見つめた。エミリアとそっくりの空色の瞳に、驚いた自分の顔が映っていた。
マティアスが囁くようにエミリアに告げる。
「おまえはただの王女じゃない。勇敢な王女だ」
エミリアは泣きそうになるのをどうにかこらえた。いつも好き勝手に振る舞って、周りを振り回してばかりなのに。それでも父は自分を信じてくれている。
「お父様――」
「礼を言うのはまだ早い。計略が成功してからだ」
そう言ってマティアスは、エミリアがいつもするのと同じように、片目を軽く瞑ってみせた。
「アルベリヒ」
マティアスは床に坐った体勢でアルベリヒを見つめた。その背に隠れるようにして、エミリアはピンを手錠の鍵穴にねじ込んだ。
「悪いことは言わない。今すぐ投降したまえ。今ならまだ間に合う。断言するが、君たちは全員捕まることになる。このまま現行犯で捕まれば、裁判で君の終身刑は確実だ。一生塀の中で自由を奪われて過ごしたいのかね?」
アルベリヒが口元を歪める。
「自由? 我々平民に自由など最初からない。所詮、あなたがたが制限する範囲での自由だ」
マティアスが穏やかにうなずく。
「そのとおりだ。だが我々もなかなか不自由なんだよ。確かに金銭に苦労はしないが、好きな人間と結婚することはおろか、この敷地内以外で暮らすこともできなければ、仕事を選ぶこともできない。しかも死ぬまでだ。なんなら代わってほしいくらいだよ。わたしはお金なんて少しあればいいから、好きなときに釣りをしたり、読書をしたりする生活を送りたいんだ」
「わたくしは貧乏暮らしはいやですわ、陛下。好きなときに歌劇が見られない生活はいやです。その時はわたくしと離婚なさってどうかお一人でどうぞ」
隣に坐り込んでいるペトロネラがそっけなく言うと、マティアスが苦い顔になった。
「ペティ、こんなときくらいわたしに合わせてくれてもいいだろう」
ペトロネラがつんと顎を上に向ける。
「わたくしはいやです」
手錠が外れた。エミリアは迷わず立ち上がり、玉座に向かって走りだした。
「なにを!」
気づいたアルベリヒに、マティアスが体当たりする。
「娘の邪魔はさせないよ」
エミリアは玉座の前にすばやくしゃがみ込むと、床にある持ち手に指をかけ、隠し扉を開けた。中に滑り込み、すぐに扉を閉める。
ベギールデの人間たちがあとを追おうとしたが、アルベリヒは立ち上がって言った。
「放っておけ。女一人逃したところでなにもできない」
二人を見張るように信者たちに告げると、アルベリヒは一人で会場を出た。
「……不満そうだな」
床に倒れたマティアスが起き上がりながらそう言うと、ペトロネラがそっぽを向いた。
「あなたがなんと言おうと、あの子はただの王女です。なのに、あんなことを言うなんて」
マティアスが苦い表情で笑う。
「わたしは親馬鹿なんだよ、ペティ。さて、わたしたちにはまだやらなければならないことがある」
ソリンの騎士が密かに窓から突入の隙を窺っているのをすばやく確認してから、マティアスがそう言うと、ペトロネラが怪訝そうな顔になる。
「それはなんです?」
「……信じるんだ。エミリアを」
急な階段をできるだけ急いで降り、エミリアは隠し部屋に着いた。
父親に言われたとおり、机に置いてある木箱を開ける。
そこに収められていたのは一振りの剣だった。男性が使うより少し細身の刀身。柄の部分には金で装飾が施されている。
剣を手にした瞬間、エミリアは驚いた。
(すごい。本当に軽い)
エミリアは剣を一、二度軽く振ってみた。
(やれる。これなら)
エミリアは、抜き身の刃に映った自分の姿を見つめた。
自分はどこまで自分を貫けるだろう。
たとえなりたい自分になれないのだとしても、なにもかも諦めたくはない。
エミリアは半冠を頭から外した。髪を解き、左右に頭を振って長く赤い髪を背中に流す。首飾りも耳飾りも外し、両手に嵌めたレースの手袋を脱いだ。
母親に少しだけ申し訳ないと思いつつ、剣でドレスの長い裾を破り捨てていつもの丈と同じにすると、最後に踵の高い靴を脱いで床に転がし、エミリアは冷たい床に降り立った。
裸足なのは痛いが、自室にブーツを取りにいく時間は残されていない。
だがそれも仕方のないことだった。
自分は一度手放してしまったのだから。
剣を両手に握り締め、エミリアは無心に祈った。
自分は信心深くなんてないはずなのに、なぜか自然にそうしていた。
今の自分で勝負するしかない。
たとえすべてが壊れてしまうとしても。だれも救えないとしても。
今の自分を信じるしかなかった。
エミリアはベギールデの人間を避けながら、廊下を慎重に進んだ。
礼拝堂に辿り着くまで、交戦はなるべく避けたかった。
足音が聞こえる。だれかがこちらにやって来る。
エミリアは角をすばやく曲がった瞬間、出合い頭に相手に剣を突きつけたが、それがだれかわかって目を瞠った。相手も驚いた表情だった。
「トリスタン……無事だったのね」
「ハーナルに状況を伝えに行っていたんです。もうすぐソリンの本隊が地下通路を通ってここに到着します」
「そう。でも、あれだけ人質がいるのに簡単に突入はできないわ。なんとか交渉してお父様たちを解放してもらわないと、何人犠牲が出るか」
「しかし、なぜ王女がお一人でここに」
「隠し通路から脱出したの。わたしはルイスを助けに行く」
エミリアがそう言うと、トリスタンの顔がはっきりと曇った。
「トリスタン?」
エミリアが怪訝な面持ちで名を呼ぶと、トリスタンはそっけなく言った。
「王女は部屋に隠れていてください。ルイスならわたしが助けます。場所を教えてください」
エミリアはトリスタンを睨んだ。
「わたしになにもするなって言うの? 二人で一緒に行けばいいじゃない。そこを退きなさい、トリスタン」
「いやだと言ったら、わたしを斬りますか?」
思いがけない言葉に、エミリアは一瞬息を止めた。
「そんなことできるわけないでしょう。なぜそんなことを言うの」
トリスタンは険しい視線をエミリアに向けた。
「こんなことをさせるために、わたしはあなたに剣術を教えたのではありません。あなたがあなたらしく生きていくために必要だと思ったから教えたのです」
トリスタンの口調はいつも通り冷静だったが、その目には、普段の彼からは考えられないほど激しい感情が滲んでいた。
「あなたは王女です。守られるべき存在です。あなた自身が戦って守る必要はない。それは騎士であるわたしの仕事です」
トリスタンの言葉を、エミリアは黙って聞いていた。
ルイス以外の人間から、ここまで自分の考えを率直にぶつけられたのは初めてだった。
しかしこれだけトリスタンに言われても、エミリアは怒りも失望もしなかった。
彼の言うことはもっともだった。王女である自分が戦う必要はどこにもない。
だが過去に戻って何度やり直したとしても、自分は結局こうすることを選ぶだろう。
自分の欲しいものは、戦わなければ得られない。
「そうだとしても、わたしは戦うわ。わたしがそうしたいから」
性別も身分も関係なかった。自分がそうしたいからそうする。
大事なのはそれだけだ。
エミリアはトリスタンをまっすぐに見つめた。
彼には幼い頃から稽古につき合ってもらってきた。ルイスと戦うより前からそうだ。 彼が自分の身を案じる気持ちまで否定したくはなかった。
「トリスタン、わたしはね、わたしでいることを諦めたくなかったの。自分の気持ちを否定したくなかった。だからずっと戦ってきた。今ここで諦めたら、わたしがやってきたことは全部無駄になる。自分にとって大切なものも守れない人間が、どうやって国民を守るというの?」
そう一気に言ってから、エミリアはトリスタンに微笑んだ。
戦うことなど怖くなかった。
怖いのは、自分でいられなくなることだ。
自分を偽ったまま生きることだ。
そうならないための方法をルイスは自分に教えてくれた。
自分はなにもしていないと彼は言うのかもしれない。実際それは事実なのだろう。だが間違いなく、それはルイスがいてくれたおかげだとエミリアは信じていた。
「わたしは自分を犠牲にして彼を守りたいわけじゃない。助けに行くの」
トリスタンがふっと瞼を閉じ、またエミリアを見つめた。彼も覚悟を決めたようだった。
「そのために、わたしになにができますか」
「二つ頼みを聞いて。あなたの協力が必要なの」
