ルイスはアンスヘルムをまっすぐに見据えた。
赦しなどいらない。
そんなものを望んだことは、今まで一度もなかった。
「断る。他人を犠牲にしてまで生きることになんの意味がある」
「そうでしょうとも。両親と婚約者を犠牲にしてあなたは生きているのですからね」
ルイスの視線の先に現れたのは、まるで死に神のような黒い装束に身を包み、超然とした笑みを浮かべた男だった。
「アルベリヒ……!」
ルイスの口から憤怒に満ちた声が漏れた。
ゆったりとした足取りで近づいてくるアルベリヒを、ルイスは椅子に坐らされた体勢で睨みつけた。その様子は傷つき、敵に囲まれても、なお全身で威嚇する獣のようだった。
そんなルイスの様子を見てアルベリヒは満足そうに微笑んだ。まるで、彼の憎悪の対象になることを喜んでいるかのようだった。
(狙われているのがあなただからよ)
エミリアの言葉がよみがえる。
「なぜわたしを狙う必要がある? わたしがなにをしたと言うんだ」
「なにもしていませんよ。あなたはなにも悪くない。だからこそあなたは救われない」
アンスヘルムに椅子を蹴り飛ばされ、ルイスは受け身も取れず床に叩きつけられた。
肩の傷が痛み、思わず声をあげそうになったが、ルイスは無理やり押し殺した。
「わたしはあなたのような人間が一番嫌いだ。絶望を抱えているくせに、そのことに気づかず前だけを見て生きている」
アルベリヒは無表情にルイスを見下ろしながらそう言った。
いつもの柔らかな声音は、冷たく凍てついていた。
「わたしが彼女をなんと言って脅したか教えてさしあげましょうか?」
聞きたくない。ルイスはとっさにそう思った。
「あなたが死ぬか、自分が死ぬかどちらか選べ。どちらも選ばないなら、あの男との過去をあなたに暴露する。そう言ったのです。そして彼女は自分が死ぬことを選んだ。……自分の犯した罪を背負って。この計画はもともと、あなたが死ぬか、彼女が死ぬか、二つに一つだったのです」
ルイスは震えて息がうまくできなかった。
うそだ。自分が彼女に庇われていたなんて。守られていたなんて。
自分のせいで彼女は、
「彼女を救える可能性があったのは、あのハーナルの騎士だけだった。しかし、彼女はだれにも救いを求めなかった。どのみち、あなたは彼女を助けられなかったのです。彼女はあなたを異性としては愛していなかったし、依存していただけだった。遅かれ早かれ、結婚する前にあなたの前から姿を消していたでしょう。あなたと彼女は、いずれどこかで別れる運命だった。わたしはそれを少し早めただけです。……と言っても、あなたにはそれがどういういうことなのか理解できないのでしょうが」
そう言ってから、アルベリヒは深々とため息をついた。まるでそれは、出来の悪い生徒を教え諭す教師のような態度だった。
「言ったでしょう? あなたは存在するだけで人を傷つけると。あなたは葛藤しない。迷わない。いつも正しい答えを選べる。だからあなたは人の気持ちがわからない。人はあなたが想像しているよりずっと弱いのです。だれもあなたのように強くはなれない」
「違う。わたしは強くなんかない……」
痛みで朦朧とする意識を必死に奮い立たせながら、ルイスは掠れた声で言った。
強いわけではない。自分が強いと思ったこともない。
いつだって、後悔のない選択をしようと努めてきただけだ。
自分の意志を貫くことは、ルイスにとって難しいことではなかった。
なぜそんなふうに言われなければならないのか、まるでわからなかった。
「あなたが無私無欲なのは、人格者だからじゃない。この世に絶望しているからだ。本当のあなたは子どものまま泣いている。わたしにはそれがわかる」
自分の一番無防備な場所に突き刺さる言葉を、ルイスは瞼を閉じて無視しようと努めた。
「やめろ。わかったようなことを言うな」
「ご両親が死んだのは自分のせいだと思っている。自分さえいなければ二人は死なずにすんだと。だからあなたはなにかを必死に守ろうとする」
「……やめろと言っている」
アルベリヒが泰然と微笑んだ。
「わかりましたか? あなたにも触れられたくない領域はある。触れると痛み、血を流す領域が。だれの心にもそれは存在している。その痛みから逃れるために人は足掻く。だがすべて無駄なことです。逃れる方法などどこにもない。あなたの苦しみはなくならない。わたしに従わないかぎり永遠に続く。わたしがあなたを救ってさしあげます」
瞼の奥にある暗闇の中で、ルイスは乾いた気持ちでアルベリヒの言葉を聞いていた。
だからなんだというのだろう。生きているかぎり自分の罪は消えない。
今更この男に従って救われようなどとは思わない。それで救われるはずもない。
「リヒトはどこにも存在しない。だれも救わない。なにも語らない。いつもただ我々を見ているだけ。我々はなにも考えず、ドンケハイツに従えばいいのです」
そうだ。ルーツィアの葬儀の間中、ルイスも同じようなことを考えていた。教典にある祈りの文句をどれひとつとして口にできなかった。
いくら教えを実践しても報われることがないなら、なにも意味などないのでないか。
だがそれは違う。
根拠などなにもないが、ルイスはそう思った。
それだけが信仰のすべてではない。今ならそれがはっきりわかる。
今までの自分の行動すべてが無駄だったのだとは思わない。
救われたいから祈っていたのではない。
報われたいから信じていたわけではない。
信じたいから信じてきた。
それがすべてだ。
「リヒトは確かにわたしの心の中に存在している。だがそれは救われるためじゃない。自分を信じるためだ」
ルイスは自分に言い聞かせるようにそう言うと、閉じていた瞼を開き、アルベリヒをまっすぐに見据えた。
「安らぎなんていらない。生きているかぎり、わたしは戦う」
一人で成し遂げられたことなどなにもなかった。
ただそのことに気づいていなかっただけだった。
自分は特別ではなかった。
ライナスが死んだとき、いや、ずっと以前から、ルイスは彼のようにだれかを守って死にたいと思っていた。いつかそうやって自分は死ぬのだと漠然と思っていた。
だが、自分の望みは叶わないようだった。
自分はだれも助けられないまま死ぬ。
それでも、ここで死んでしまうとしても、ルイスは最後まで抗うことをやめたくなかった。
一人だからなんだというのだ。
孤独だからなんだというのだ。
痛くても、つらくても、苦しくても、逃げることなどしない。
絶対に。
アルベリヒの口元から笑みが消えた。
手にしている杖の先端の突起をルイスの肩の傷に押しつける。
「……やはりあなたは愚かだ。信じることが愚かなことだとなぜ気づかない。信じたところでいつも裏切られる。望みは叶わない」
肩の傷を深く抉られても、ルイスは歯を食いしばって痛みに耐えた。悲鳴などあげたくなかった。
まやかしの救いなどいらない。この世界に救いなどないことは、両親を亡くしたときから知っている。
この苦しみを癒やせるものなど存在しない。だがそれでかまわない。
だれにも縋りたくない。だれにも屈したくない。
いつだって、自分を救えるのは自分だけだ。
死ぬことなど怖くない。
怖いのは、自分を信じられなくなること。それだけだ。
その時、扉が音を立てて開いた。
「ルイス!」
それがだれの声か認識した瞬間、ルイスは信じられない気持ちで顔を上げた。
入り口に立っていたのは、裾が破かれた白いドレス姿のエミリアだった。
「……ミリィ」
ルイスが呆然とその名を口にすると、エミリアがにやっと笑った。
「助けてくれって言ったら助けてあげてもいいけど?」
ルイスがなにも言えずにいると、エミリアが今度は柔らかく微笑んだ。
「……冗談よ」
エミリアは握り締めた剣をアルベリヒたちに突きつけた。
「勇猛果敢が男の専売特許じゃないってことを証明してあげる」
エミリアはそう言い放ち、構えを取った。
その瞳に、迷いはなかった。
「……ルイスはわたしが守る。だれになんと言われようと」
その言葉に、ルイスが弾かれたように顔を上げる。
「ミリィ、やめろ!」
「王女を生け捕りにしろ、アンスヘルム」
アルベリヒが命じると、アンスヘルムがアルベリヒとルイスの前に進み出た。
両側に長椅子が並ぶ通路で、アンスヘルムとエミリアは対峙した。
横には逃げられない。後ろに引くか、それとも前に出るか。
選択できるのはそれだけだった。
アンスヘルムがスティレットを構える。
「女のくせに、勝てると思っているのか?」
構えたままの姿勢で、エミリアがまっすぐにアンスヘルムを見つめた。
「……やってみないとわからないでしょ」
そう言った瞬間、エミリアは裸足で床を蹴った。
それが合図だった。アンスヘルムもほぼ同時に床を蹴る。
通路の中央で二人はぶつかった。
しかし、エミリアの威勢がよかったのは最初だけだった。
いつもの好戦的な態度は鳴りをひそめ、エミリアは防戦に徹していた。
相手に攻めさせ、隙を見て反撃する。それはルイスとまったく同じ戦い方だった。
体格と体力の差がある以上、短期決戦に持ち込まなければエミリアは時間の経過とともに不利になる。しかし、エミリアは自分から前に出ようとはしなかった。
何度もドレスを切り裂かれ、足が露出しても、エミリアは剣を振るい続けた。
「そんな攻撃で倒せるとでも? わたしを侮るな」
遊びはここまでだと言わんばかりにアンスヘルムの動きが加速する。繰り出される連続攻撃に耐えきれず、エミリアはじりじりと後退した。
アンスヘルムの体重の乗った一撃に耐えきれず、エミリアの身体が傾ぐ。背後に倒れ込みながら、エミリアはなんとかアンスヘルムの刃を受け止めた。
ルイスが叫ぶ。
「ミリィ、もうやめろ!」
スティレットを押し返しながら、エミリアは歯を食いしばった。
しかし、その目には恐怖も迷いもなかった。ふっと口元が笑う。
「……絶対にやめない」
その時だった。着色硝子の窓が勢いよく割れ、そこから武装したソリンの騎士が次々に部屋に入ってくる。アンスヘルムは抵抗したが、数には敵わず、力尽きて騎士たちに押さえつけられた。
「ルイス様!」
「ヴェルナー……」
ヴェルナーが鍵を取り出し、ルイスに嵌められた手錠を外す。
アルベリヒは逃げようと扉のほうに向かったが、扉からもソリンの騎士たちが侵入し、アルベリヒの周りを取り囲んだ。
「……ただの時間稼ぎか」
「わたし、演出は凝るほうなの」
エミリアはにっこり笑って、アルベリヒにそう言った。
「もともと弱点はトリスタンから聞いていたの。手加減してるのがバレないか冷や冷やしたけどよかったわ。あなたがわたしを侮ってくれたおかげね」
「ふざけるな……!」
「もうやめておけ。おまえがルイスに執着したのがすべての敗因だ」
最後に部屋に入ってきたのはアルフレートだった。
アルフレートの青い目が、騎士たちに両腕を拘束され、取り押さえられたアルベリヒをじっと見た。
「おまえがアルベリヒか。大人しく捕まってくれたことには礼を言うぞ。もともとメルヒオルから、おまえたちが国家転覆を企んでいる可能性があることは聞かされていたんだが、まさか近衛騎士まで取り込んでいるとは思わなかったからな」
「わたしを捕まえられたのはただの偶然のはずだ。あなたがたはわたしがここにいることを知らなかった」
「まあ、そうだが……王女の頼みを断るわけにはいかなかったからな。それにソリンの騎士は、仲間を見捨てるような真似はしない」
「……頼み?」
ルイスが呆然とした口調でそうつぶやく。
「そうですよ、ルイス様。俺たちが強行突入に備えて待機していたときに殿下がやって来て、自分が囮役になって油断させるから、どうかルイス様を助けてほしいってみんなの前で頭を下げられたんです。俺もほかの奴らも大変な状況だって言うのに泣きそうになっちゃって……」
ルイスの応急処置をしながら、ヴェルナーが感じ入った口調でそう言うと、アルフレートが重々しくうなずいた。
「そうだぞ、ルイス。おまえが生きているのは殿下のおかげだ」
「二人とも、そういうことはいいわ」
エミリアは静かにそう言うと、ルイスに近寄った。
「……ミリィ」
エミリアが微笑んだ。
「これがわたしのやり方。だって、勇猛果敢なんて考え方自体、そもそも無謀でしょう?」
そう問われ、ルイスは力なく笑い返すことしかできなかった。
「……言葉もないな」
その時、動いたのはアンスヘルムだった。自分を押さえつけている騎士たちを蹴り倒し、剣を奪うとエミリアに迫る。
「ミリィ!」
ルイスはエミリアを庇おうとしたが、肩の傷のせいで足が前に出なかった。
エミリアの前にすばやく人影が割り込む。剣が一閃し、アンスヘルムの手から剣が弾きとばされた。
エミリアの前に立っていたのはトリスタンだった。
「王女を守るのはわたしの仕事だ」
再び騎士たちに床に跪かされながら、アンスヘルムはエミリアを睨んだ。
「なぜだ。なぜおまえは闇に囚われない」
「べつに囚われないわけじゃない。でも、結局それもわたしの一部だから。否定しても仕方ないでしょ?」
エミリアがふふっと笑い、まっすぐにルイスを見つめた。
「わたしは何度だって闇を切り裂いて、そこから抜け出してみせる。みっともなくても足掻くことをやめない。……だって、そのほうが格好良いから」
アルベリヒは、微笑むエミリアを無言で見つめていたが、不意に瞼を閉じた。
「……アンスヘルム。どうやらわたしたちの負けのようだ」
「アルベリヒ様……」
まだ抵抗していたアンスヘルムが力なく床に膝を突いた。
ルイスはアルベリヒたちから目を離し、エミリアを見つめた。
「ミリィ。リートたちは無事なのか?」
「それがわからないの。ミヒャエルもユーリエも行方知れずよ。母に呼び出される前までは控え室で一緒だったんだけど、わたしが部屋に戻ったらだれもいなくなってたの」
「……行かなくては」
そう言ってルイスは半分脱いでいたシャツに再び袖を通した。
「その怪我では戦えないわよ」
「かまわない」
エミリアが呆れたようにため息をつく。
「……わたしも馬鹿だけど、あなたはもっと馬鹿よね。わたしは行けない。今度はお父様たちを助けに行かないといけないから」
エミリアはそう言うと、ルイスの前に屈み込み、真剣な表情で見つめた。
「……死んだら絶対許さないから」
「ああ」
