エルフリードは坐ったまま、指揮するような仕草ですいっと手を動かした。
まるで見えない糸で操っているかのように、短剣が勝手に浮き上がり、ミヒャエルの身体を何度も刺し貫く。
声にならない悲鳴がミヒャエルの口から漏れる。
ミヒャエルは頭の片隅でふと思った。イェンスもこんなふうに何度も刺されて殺されたのだろうか。
気を失ってしまいたかったが、刺された直後に傷が再生させられ、また刺される。それが延々と続く。殺されたほうがよほど楽だとミヒャエルは思った。
「苦しい?」
そう問いかけるエルフリードの表情には、愉悦も享楽もなかった。
そこにあるのは、ただ純粋な興味だった。
「やめてもいいけど……でもこれは僕がやってるんじゃない。すべて君が望んだことなんだ」
エルフリードが酷薄な笑みを浮かべる。
「やめてくれって言ってごらんよ。でもできないかな。あの王女と結婚するより、こうしてるほうが楽だもんね」
エルフリードは倒れているミヒャエルのそばに来てしゃがみ込んだ。
「君は自分を傷つけることしかできない。他人のために戦えない。……弱いから」
弱い。
その言葉が、剣に刺されるよりも深くミヒャエルの心を抉った。
エルフリードがくすりと笑う。
「可哀想だね。みんな君の持ってるものを羨ましがるけど、それは君にとってはがらくたも同然。だからだれにも悩みを理解してもらえない。贅沢だって言われてそれで終わり」
エルフリードが短剣を空中に高く飛ばして弄びながら、つまらなそうに言葉を続けた。
「君が本当に欲しいものは、いつも手に入らない。彼女はそんな君を自分の命と引き換えに助けようとした。彼女の思いを無下にする君は、本当に酷い人間だね」
エルフリードの鋭利な言葉の刃が刺さるたびに、ミヒャエルの中でなにかにヒビが入っていくようだった。
他人に傷つけられた痛みは、自分で傷つける痛みとは比べものにならないほど苦しかった。
いつもだれかに傷つけられる前に、自分を責めて傷つけていた。エルフリードがやったように、何度も何度も、自分で自分を痛めつけてきた。
そのほうが楽だと知っていたから。
そうやっていつも、自分の弱さを受け入れることから逃げていた。
エルフリードが嘲笑う。
「でも、そんなことはできるはずもなかったんだよ。だれかを救おうなんて、ただの自己満足だ。彼女は君と同じくらい愚か者だったんだよ」
ミヒャエルは、自分の中でなにかがバラバラに砕け散っていく音を聞いた気がした。
彼女は自分が愚かだったせいで死んだ。
今までずっと、自分自身の愚かさと向き合うことを避けて生きてきたから。
不意に、ルイスの声がよみがえる。
(おまえは本当は、自分のことなんてどうでもいいと思っているんだ)
ルイスが言ったとおりだとミヒャエルは思った。だから自分は今こんな目に遭っている。
彼は最初から看破していた。言葉にできなくても、感覚で気づいていた。
ルイスはいつも、ミヒャエルのことをもどかしく思っていたのだ。なぜもっと自分を大切にしないのかと。
自分自身と向き合えなかった弱さが、巡り巡って彼の大事なものを奪った。
ミヒャエルはエルフリードの言葉を否定できなかった。すべてが事実だった。
すべては自分が望んだこと。その結果が今だった。
「つまんないなぁ。少しは抵抗してくれればいいのに」
そう言ってエルフリードは動けないミヒャエルにまた指先を向けた。
「……もうやめて、エルフリード」
今まで沈黙していたユーリエが静かに言うと、エルフリードが口元をつっと歪めた。
「彼を助けたいならもっと早く言いなよ、エヴェリーン」
エルフリードが手を下ろすと、短剣がカランカランと音を立てて床に落ちた。
床に倒れたままのミヒャエルには目もくれず、エルフリードは立ち上がった。
その様子はまるで、遊んでいた人形が壊れて使えなくなったら放り出し、また次の遊びに熱中する子どものようだった。
「そうだ、せっかくだから見せてあげるよ。観客がいないとつまらないからね」
そう言ってエルフリードは指を鳴らした。
その途端、辺りに微かな地響きのような音が木霊しはじめた。
まるで地震のように、ミヒャエルの足元にある敷石が揺れだしていた。ミヒャエルは祭壇のある一段高い場所に登った。
その途端、祈り場の床全体が、引き戸を開くように左右に割れた。
そこに埋まっていたのは、一基の棺だった。
エルフリードが再び指を鳴らすと、棺の蓋が軋みながらゆっくりと開いた。
棺の中には、一人の少女が横たわっていた。ユーリエと同じような白い装束を着て、胸の位置で指を組んでいる。
陶器のように滑らかな白い肌と、長い銀色の髪。
ミヒャエルは囁くように言った。
「これは、エヴェリーンなのか?」
「彼女はまだ生きている」
エルフリードの言葉に、ミヒャエルは息を呑んだ。
「まさか。百年前だぞ」
掠れた声でミヒャエルがそう言うと、エルフリードがうっそりと微笑んだ。
「だからエヴェリーンは特別なんだ」
エルフリードがユーリエの姿をしたエヴェリーンのほうを見た。
「エヴェリーン。身体に戻るんだ」
しかし、エヴェリーンは首を振った。
「わたしは戻らない」
エルフリードが顔をしかめる。
「どうして? 君だってこの百年間、ずっとヴォルヴァたちの中で見てきたはずだろう。この国の連中はどうしようもない。アウグストもその重臣たちも、ずっと本当のことをひた隠しにしてきた。今の王族はだれも僕のことを知らないし、君が人殺しだと思ってる」
そう言ってエルフリードは祭壇に乱暴に腰掛けた。それが不敬だとはまったく思っていない様子だった。
「僕が王になったほうがはるかにマシだ。この力があれば、王も貴族も関係ない。だれもが平等な世界が現出するんだ」
エルフリードはそう言うとすっと片手を上げ、人差し指だけを残してほかの指を握り込んだ。すると、まるで蝋燭の火のように、指先にふわりと光が灯った。
そのままエルフリードが人差し指を空中で水平にすっと滑らせると、同じような光の球が幾つも現れ、頭上からゆっくりとした速度で降り注いだ。
それは、夜の闇を蛍が飛び交っているような幻想的な光景だった。
エルフリードが口元を歪める。
「……僕自身がリヒトになれるんだ」
しかし、エヴェリーンはなにごとも起きていないかのように、まっすぐにエルフリードを見つめ続けていた。
「人はリヒトにはなれない。たとえこの国を支配しても、あなたの気持ちが晴れることはない。あなたの欲しいものは、どんな手段を使っても手に入れることはできないの」
エルフリードが弾かれたように立ち上がる。
「できるさ! この力があれば、君を手に入れられる」
その途端エルフリードの足元から、まるで生きもののようにベキベキと音を立てて地面に亀裂が走り、それは一瞬でエヴェリーンの足元にまで到達した。
しかしエヴェリーンはまったく動じず、透徹した瞳でエルフリードを見つめた。
「わたしはあなたのものにはならない。あなたをわたしのものにもしない。わたしはあなたを止めるためにここにいるの」
囁くような、しかし毅然とした口調でエヴェリーンが言い放つ。
「わたしの答えはあの時と同じ。……あなたには従わない」
だれかが自分を呼んでいる。
(起きて、リート)
(だれ?)
ユーリエの声に似ているが、彼女ではない。
(早くしないと間に合わなくなる)
(なにに?)
今まで生きてきたなかで、なにかが間に合ったことなんてあっただろうか。リートはぼんやりとそう思った。
いつも気づいたときには手遅れだ。そしてそのことを悔やんでばかりいる。
それはきっと、本当はわかっているからだとリートは思った。
動かなければ後悔するとわかっているのに、なんだかんだと言い訳してうやむやにしてしまうから。
自分と真剣に向き合おうとしないから。
向き合うことが怖いから。
リートは、重い扉を押し開くような気持ちで瞼をこじ開けた。
目の前にいたのは、自分と同じ歳くらいの少女だった。背丈もほとんど代わらない。
銀色の長い髪に、新緑を思わせる緑色の瞳。ユーリエと同じような白い装束。
儚げで繊細な、陶器人形のような面立ち。
「初めまして、リート。わたしはエヴェリーン」
「エヴェリーン……あなたがあの?」
エヴェリーンの声は、リートが想像していたようなか弱い声ではなかった。
劇でフィオナが演じたエヴェリーンとも違う。凛とした、意志の強さを感じさせる声だ。
エヴェリーンが静かにうなずく。
「ここは?」
「わたしの夢のなかにあなたを呼んだの。そのピアスを媒介にしてね。それはわたしが作ったものだから」
「僕、眠ってるの?」
「そうよ。あなたの身体は今エルフリードが使っている」
鏡の中のエルフリードがにやりと笑った光景が、リートの脳裏をよぎった。
あそこから、リートの記憶はぷっつり途切れていた。自分はあの時、身体を乗っ取られてしまったらしい。
「僕、戻れるの?」
「ええ。わたしの力があれば。でもその前に、これからあなたにすべてを見せる。わたしの記憶を」
エヴェリーンはそう言うと、リートに両手を差し出した。
「あなたの手を、わたしの手の上に」
リートがそのとおりにすると、エヴェリーンはその手を握り、リートの額に自分の額をくっつけた。
「……目を閉じて。なにも考えないで」
ルイスはリートの部屋を慎重に出ると、壁伝いに廊下を進んだ。
宮殿の中は人気がなく、がらんとして静まり返っていた。
婚約式に出ていなかった召し使いたちは、謀反を起こした近衛騎士に部屋に押し込められて軟禁されていたが、今はハーナルの騎士たちの誘導で地下通路から脱出していた。
部屋にいないとなると、リートはどこに行ったのだろう。しかもリートを警護していたはずの近衛騎士は、リートの部屋で死体になって転がっていた。
いったい彼の身になにがあったのだろう。まさかリートが騎士を殺したはずもない。
その時、背後から気配がして、ルイスは反射的に振り返った。
目に飛び込んできた姿に、ルイスは無意識に全身が緊張するのを感じた。
金茶の髪に琥珀色の瞳。ハーナルに拘留されているはずの青年だった。
青年がすばやく剣を構えたが、ルイスは動けなかった。
利き腕が使えない今の状態では勝ち目はない。
「やめなさい、ユストゥス。彼は敵ではない」
青年の背後から現れた姿に、ルイスは目を見開いた。
「メルヒオル……!」
いつもの法衣姿ではなく、上着を着て襟飾りをつけたメルヒオルがそこにいた。
血のついたシャツ姿のルイスを見て、メルヒオルは眉をひそめた。
「無事……とは言いがたいが、君が生きていてよかった。今なにが起きているのか教えてくれないか」
ルイスがソリンの騎士たちがアルベリヒを捕まえたことや、ベギールデが投降したことを告げると、メルヒオルは安堵したようだった。
「それで、なぜあなたはここにいるんだ? それに彼は」
「事情があってね。彼の力を借りることにしたんだ。しかし、その身体でどこへ行く気なんだ?」
「リートを探してるんだ。部屋も見てみたが戻っていなかった」
ルイスがそう答えると、メルヒオルが沈痛な表情になり、黙り込んだ。
「……どうしたんだ?」
答えたのは傍らにいた青年だった。
「天啓者はおそらく聖殿にいる。ヴォルヴァも一緒だろう。だが奴はもはやおまえの知っている天啓者ではない」
ルイスは青年をまじまじと見つめた。
「……どういう意味だ? それに、君はだれなんだ?」
メルヒオルの説明を聞きながら、ルイスはなんとか頭を整理しようと努めた。
俄には信じがたいことばかりだったが、それで筋が通るのも確かだったので、認めないわけにはいかなかった。
リートの中に別の人間がいる。
彼とはかなりの時間を一緒に過ごしてきたのに、今までまったく気づかなかった。
「リヒトはなぜ彼を止めない? いくら力を使えるとしても、リヒトの制約下から逃れることはできないはずだ」
「それがエルフリードの純粋な願いだからだ」
ユストゥスの言葉に、ルイスは眉を上げた。
「純粋だと……?」
「聞いたことはないか? リヒトは欲望には沈黙するが、純粋な望みにはすべて応える。エルフリードは善悪の判断ができない。あるのはすべてを破壊し尽くしたいという衝動だけだ。だが奴の破滅願望は、欲望にまみれた人間の抱く望みよりはるかに強い」
「それがリヒトの理だというのか?」
メルヒオルがうなずく。
「昔君にも教えただろう。リヒトは善悪の判定をしないんだよ、ルイス。それを判断するのはあくまで人間だ。ほかの宗派はそう思っていないようだけどね」
ルイスはうつむいた。
知ってはいた。だが、本当の意味ではわかっていなかったのかもしれない。
悪いことや、間違ったことをすればリヒトが断罪してくれる。
心のどこかではそう思っていたのかもしれない。
「それなら、だれかが行って止めなくては」
メルヒオルのグレーの瞳が、じっとルイスを見つめた。
「それがどういう意味かわかっているね?」
「わかっている。だがわたしは行く」
(死んだら許さないから)
エミリアの言葉がよみがえる。
今の自分には、エミリアのような手立てはなにもない。
それでも行かなければならないとルイスは思った。
自分はリートのために、まだなにもしていないのだから。
ルイスが行ってしまってから、メルヒオルがユストゥスのほうを見た。
「すまないね、ユストゥス。君が戦えばすぐに聖殿に着くのだろうが……もう君にはなるべく殺生をしてほしくないんだよ」
ユストゥスは表情を変えなかった。
「かまわない。俺にはなにも策がない。俺は不死身なわけじゃない。一人で行っても、エヴェリーンに会うより先にエルフリードに殺される。だが、あなたにはなにか考えがあるんだろう?」
「残念ながらなにもないよ。ただ話をしようと思っているだけだ」
メルヒオルの答えに、ユストゥスはわずかに眉を上げた。
「出会ったときから思っていたが、あなたは頭の固い貴族たちとは違うようだな。だが、残念ながら奴は話が通じる相手じゃない」
ユストゥスはそう言ってうつむいた。
「それに、俺もエルフリードとたいして変わらない。生きるために――自分の目的を遂げるためにずいぶん人を殺してきた。今の俺にはもう、人の命を奪うことをためらう心が残っていない」
「君はエルフリードとはまったく違うよ、ユストゥス。君がそれでもなお正気を保っているのは、君に目的があったからだ。――この世界に生きる目的が」
メルヒオルはじっとユストゥスを見た。
「よければ聞かせてくれないか? 君のことを」
メルヒオルの問いに、ユストゥスは一瞬瞼を閉じ、やがて話しだした。
「俺は貴族の家に生まれたが、まったく周りに馴染めず育った。物心ついたときから、ずっと自分を異質な存在だと感じていた。その上両親は不仲でいつも喧嘩ばかりしていたし、俺がなにか問題を起こすたび、俺のことを出来損ないだと罵った。だからずっと捻くれていた。愛なんてものはまったく信じていなかった。彼女に――エヴェリーンに出会うまでは」
その名を口にした瞬間、ユストゥスのまなざしが愛おしげに細められた。
「彼女に会って気づかされたんだ。俺は、本当はずっと愛を求めていたのだということに」
