第18話 君のために

 メルヒオルの部屋で、ゾフィーは冷静に筋道を立てて、ユーリエがいかに間違ったことをしたかということ、今まで通り俗世間と関わらないことが大切だということをメルヒオルに懇々と説いた。
 すべての話を聞き終えてから、メルヒオルは今度はリートのほうを見た。
「リートはどう思う?」
 そう言われてリートは戸惑った。
 あなたはどう思う?
 そんなふうにだれかに意見を求められたことはなかった。そして求められたとしても、いつも考えをまとめきれず、口を開く前に時間切れになってしまっていた。
 だれも自分の意見など聞いていない。それなら自分の意見なんてなくていい。周りに合わせていればそれでいい。いつしかそう思うようになっていた。
 黙り込んでいるリートの向かい側で、ゾフィーが勢い込んで言う。
「メルヒオル様、これでおわかりでしょう。彼はただの成り行き任せでユーリエと関わっているだけです。明確に自分の意見を話すことのできない人間にユーリエと関わる資格はないと思いますが」
「ゾフィー、少し黙っていなさい」
 メルヒオルは静かにそう言うと、リートをじっと見つめた。
「リート、意見がないならそれでもいい。だが考えていることがあるなら話してくれないか。ユーリエのためにも」
 リートははっとして隣に坐っているユーリエのほうを見た。
 そうだ。これは自分のためじゃない。彼女のためだ。
 わかってもらえないときは、僕が助けるから。自分はそう言った。
 ならば言わなくては。たとえ理路整然と話せなくても、途中でつっかえることがあっても。
「僕は……僕が言いたいのは、ユーリエを咎めても意味がないってことです。なにも言わず抜け出したのは悪いことかもしれないけど、ユーリエにはそれだけの理由があったんだと思うから。ユーリエを咎めても解決することではないと思います」
「君はユーリエをどうすべきだと思う?」
「どうしようとも思いません。ただ僕は彼女が困っているから助けたかっただけです。それより、どうしたいかはユーリエに聞いてください。結局、どうしたいかはユーリエが決めることですから。僕たちが勝手に決めても仕方ないと思います。ユーリエが間違っていたと思うなら間違っていたんだろうし、そうじゃないなら、ほかの人はいろいろ言うかもしれないけど、それは間違ってない」
 ゾフィーが呆れた顔になる。
「ですから、ヴォルヴァに意思など必要ないとあれほど」
「なるほど」
 メルヒオルはうなずき、ユーリエを見た。
「ユーリエ。君はどうしたい?」
「メルヒオル様!」
 ゾフィーが焦って声をあげたが、メルヒオルは無視した。
 ユーリエは困惑したようにリートのほうを見た。彼女も自分と同じように戸惑っているのだろう。リートがうなずくと、ユーリエはしばらく黙っていたが、ためらいがちに口を開いた。
「わたしは、ヴォルヴァでいることが嫌になったわけではありません。ただ、リート様とお話がしたかっただけです」
「話を?」
「はい。それに、できればこれからも話がしたいのです」
 ユーリエがそう言うと、メルヒオルはしばらく沈黙したあと、ゾフィーに向かって告げた。
「ゾフィー、ユーリエの好きにさせなさい」
「メルヒオル様!」
 ゾフィーがまた声を上げる。声には信じられないという感情が滲んでいた。
「聞いていただろう。リートはユーリエを利用する気はない」
「こんな質問だけでなにがわかるというのです! 百年前の事件のことをお忘れなのですか。それでエヴェリーンは」
「ゾフィー」
 メルヒオルが鋭く遮った。
「今ここでその話をするつもりはない」
 ゾフィーは不満げな顔のままだったが、それ以上はなにも言おうとしなかった。
「ゾフィー、あなたはユーリエを立派なヴォルヴァに教育してくれた。だがユーリエは今のあなたに疑問を持っている。しばらく距離を置いたほうがいい」
 ゾフィーは黙り込んだあと、小さな声で言った。
「わたくしが間違っているとおっしゃりたいのですか」
「そうじゃない。ただ今は見守ってほしいと言っているだけだ。ユーリエのことが大切なら」
 ゾフィーはしばらくメルヒオルを見ていたが、静かにうなずいた。唇は真一文字に引き結ばれたままだった。
「わかりました。それがメルヒオル様のお考えなら」
「ユーリエの望みだからだよ」
 メルヒオルが言い直す。
「……承知しました」
「ユーリエと会ってもいいんですか?」
 リートがそう言うと、ゾフィーは硬い表情でうなずいた。
「ヴォルヴァとしての務めをおろかにしないという条件でなら」
「ありがとうございます」
 リートが頭を下げてそう言うと、ゾフィーはつんと顔を背けた。
「あなたに礼を言われるような覚えはありません」
「ありがとうございます、ゾフィー様」
 ユーリエがそう言っても、ゾフィーは冷淡な態度を崩さず、早く帰りましょうと言っただけだった。
 ユーリエがリートを見た。
「リート様、ありがとうございます」
 お礼を言われてこんなに嬉しい気持ちになったのは、これが初めてかもしれないとリートは思った。
 しかし、初めてなのはそれだけではなかった。
 ユーリエがリートのほうを見て微かに微笑んでいた。本当に微かだったので、ほかの人間が見てもだれも気づかなかったかもしれない。だがリートにははっきりわかった。まぎれもなく、これが彼女の笑顔なのだということが。

 ユーリエがゾフィーに伴われて部屋を退出したあと、部屋にはリートとメルヒオルだけが残された。
 メルヒオルがリートに穏やかな視線を向ける。
「さて、リート。ここに坐りなさい」
「はい」
 本当に校長室で説教を受けるみたいだと思いながら、促されるままリートはソファに腰掛けた。
 メルヒオルが微笑む。
「大丈夫、ルイスもあとで君と同じようなことになるから」
 リートは扉の外で待っているルイスのことを思った。真面目な彼のことだから、今も微動だにせず廊下に立っているのだろう。
「君を咎めるつもりはない。今回のことは王女が決めたことだから、わたしはただ見守ろうと思っていたんだ。ただゾフィーとのことは、一人でなんとかしようとせずに、わたしを頼ってほしかったのだけどね」
 う、とリートは言葉に詰まった。メルヒオルの言うとおりだった。
「ごめんなさい。いつも僕はなんでも一人で勝手に決めてしまうみたいで。だから、向こうの世界でも集団にめないのかも」
「謝らなくてもいいよ。君もユーリエと同じように、周りにいる人間を信用できない環境にいたんだろう?」
 そう言われてリートはうつむいた。
「……うん」
 今まで教師や両親を頼ろうと思ったことはなかった。彼らはいつも自分の味方をしてくれない。それよりも、なんとか規則や常識を守らせようとすることに躍起だった。
 浮かないように、目立たないように、既存の枠組みにめようとしていた。
「それに、自分が最終的にどうするかは、一人で決断するものだからね。それが簡単にできるのが君のいいところだよ、リート」
 そう笑顔で言うメルヒオルに、リートは笑みを返す気になれなかった。簡単に決めているわけではない。いつも葛藤の末どうにか決めているだけだ。そしてさっきはつい感情的に言い返してしまったし、向こう見ずだった。
 だが普通の人間にとっては、それが難しいのだろうか?
「リート。ゾフィーが言ったとおり、ヴォルヴァはこの国では特別な存在だ。もちろん、わたし個人としては、ヴォルヴァにも人格があることはわかっているし、彼女たちの意思を尊重したいとも思っている」
 リートの顔が険しくなったのを見て、メルヒオルは言葉をつけ加えた。
「だから改めて訊こう。これから君はユーリエとどう関わるつもりなのかな」
 そう言われてリートは少し考えた。だが、メルヒオルやゾフィーが喜びそうな難しいことは言えそうになかった。そもそも、リートはそんな高尚な考えがあって動いたわけではなかった。ただ、なにもかも気に入らなかっただけだ。
「僕としては、友達になれればいいかなって」
「友達?」
「はい」
 リートがうなずくと、メルヒオルはしばらく目を丸くしていたが、やがてくっくと笑った。
「友達か……それは考えなかったな」
 リートの考えは、この国の最高顧問をもってしても想定外だったらしい。リートはまた少し落ち込んだ。やはり自分はおかしなことを言っているのだろうか。
「わかった。君がそう思っているなら、君の思うとおりに」
「いいんですか?」
「もちろん。ヴォルヴァに友達がいてはならないという法律はないからね」
 もう行っていいよとメルヒオルに促され、リートはソファから立ち上がった。
「リート」
 名を呼ばれ、扉の前でリートは振り返った。いつの間にかが傾き、部屋には西日が差していた。だいだいいろの光で満たされた部屋の中で、メルヒオルが柔和に微笑んだ。
「君にリヒトの加護があらんことを」

 ルイスがリートの部屋に戻ってきたのは、退出時刻間近になってからだった。
「遅かったね」
 リートがそう言うと、ルイスが苦笑いした。
「メルヒオルに叱られていたんだ。ゾフィーに反論するのは越権行為だと」
「そんな、ルイスは悪くないよ」
 リートは慌てて言った。
「ルイスがああ言ってくれたから、僕は勇気を持てたんだ。あなたがいなかったら、助けてあげたいと思っていても、結局ゾフィーになにも言えなかったと思う」
 言いながらリートはソファから立ち上がった。
「メルヒオルに会って僕が悪いって言わないと」
「気にするな」
 ルイスはリートを安心させるように微笑んだ。
「わたしが不適切な行動をしたのは事実だから、わたしが責任を取るのは当たり前のことだ。リートがそう思ってくれるなら、わたしはそれでいい」
 それに、とルイスは続けた。
「わたしがメルヒオルに叱られるのはこれが初めてじゃない。これで通算六八四回目だ」
「それマジ?」
 リートが思わず発した俗語に意味がわからなかったのか、ルイスが眉根を寄せたので、リートは慌てて言い直した。
「じゃなくて、ホントに?」
「ああ」
「もう叱られないようにしようとか思わないの?」
「メルヒオルはわたしに要求する基準が厳しいんだ。貴族は平民と違って、好き勝手に振る舞うわけにはいかないからな。だが理不尽な理由で叱られたことは一度もないし、感情的に怒られたこともない」
 そう語るルイスの澄んだ瞳を見ながら、リートはきっと彼はメルヒオルを深く信頼しているのだろうと思った。
 しかし、それにしても。
「通算六八四回目か……」
 リートは言いながらこらえきれず笑いだしてしまった。ルイスが驚いた顔でリートを見たが、リートは笑うのを止められなかった。
 そんなに可笑しいことではないはずなのに、今まで張り詰めていたなにかがぷつりと切れてしまったように、リートは笑い続けた。
 こんなに笑ったのは、久しぶりだった。