濡れた髪と服をタオルで拭きながら、シュンは部屋の中でため息をついた。
(ずぶ濡れの女の子がいたら、俺は家に上げるのかよ……)
我ながら現金すぎるし、チョロすぎる。
とりあえずシュンは女性を浴室に放り込み、シャワーを浴びさせた。
(違う。濡れてる人は放っておけないだろ、人道的に。でも百パーセント下心なしかって言われたら答えられない……)
シュンは自分の動機の不純さに落ち込んだ。
(そうだ、家出しててここに居つくつもりだったらどうしよう? それか、泥棒の一味で部屋を下見してるとか、新手の宗教の勧誘とか……)
そこまで考えてから、シュンはまた落ち込んだ。
(やっぱり俺は馬鹿だ)
条件反射で部屋に上げてしまうなんて。ここは警察に通報すべきだったかもしれない。
とにかく、なるべく早く出ていってもらわなければ。
せっかく休んだと思ったのに、なぜこんなことになるのだろう。
やはり普通に会社に行くべきだったのだろうか。
(映画の主人公なんて気取ってるからそうなるんだよ)
心の中で、もうひとりの自分がそうシュンを嘲笑する。
わかっている。なにか特別なことが起こるかも、なんて考えている自分が馬鹿だということは。
しかし、そんなことよりも、シュンは重大な問題を忘れていることに気づいた。
「……服、どうしよう」
「ありがとう」
女性がバスタオルを身体に巻いたまま浴室から出てきてしまったので、シュンはどこを見ていいかわからず、あさっての方向を見たままTシャツと短パン(自分が持っているなかで一番新しい)を差しだした。
「あの、服、俺のしかないんですけど……」
「わたしの服と下着は?」
「脱水だけして干してますけど」
その時のことを思い出して、シュンは落ち着かなくなった。
触るのは抵抗があったが、彼女に下着を触っていいかと訊いたら大丈夫だと言ったので、ネットに入れて服と一緒に洗濯機に突っこんだのだ。
まさか、そういうことをする目的以外のときに、白昼堂々と女性の下着を触るはめになるなんて思わなかった。
「持ってきて」
「いや、まだ濡れてるし……」
「大丈夫よ」
困惑するシュンをよそに、女性は明るく言った。
女性はまだ濡れている下着と服に着替えると、シュンの目の前に立った。
「見ててね」
(いや、それはセクハラだから無理……)
シュンは女性から視線を逸らしたまま内心でそう返した。
とは言っても、自分も男なのでばっちり見てしまったのだが。
おそらく寒さのせいで硬くなった乳首も、透けて露わになった下着も。
(やめろ、そういうことは考えるな)
広がりはじめる妄想をなんとか頭の片隅に押しやり、シュンはできるだけ後ろに下がって、女性の全身を見た。
女性が眉を上げる。
「それじゃ遠すぎるわ。もうちょっと前に来て」
(……なんで命令されてるんだよ)
そう思いながらもシュンがしぶしぶ従うと、女性が笑顔で頷いた。
「そう、そこ」
女性は軽く両腕を広げると、その場でくるりと一回転した。その一瞬の動作のうちに、濡れていたはずの髪はさらさらと風になびき、ワンピースの裾がパラシュートのようにふわりと広がって、ゆっくりとしぼんだ。
「……乾いた?」
シュンは呆然と言った。シュンが洗濯機に入れたときは、間違いなく彼女の服は雨でびしょ濡れだったのに。服が乾く瞬間もシュンはずっと彼女を見ていたが、着替える暇などどこにもなかった。
手品じゃない。まさか。
「君、いったいなんなんだ……?」
シュンが囁くような声音で言うと、女性が手を後ろ手に組んで微笑んだ。
「これがわたしにとっては普通なの。力を使えることがね」
「魔法使い……?」
「とはちょっと違うんだけど」
話しながら女性は脱衣所を出ると、なんの遠慮もなくシュンの部屋に繋がる扉を開けてしまったので、シュンは慌てて彼女のあとを追った。掃除したあとだし、見られて困るようなものはないが、女性を部屋に入れるのは初めてだ。
しかし扉を開けたものの、女性はすぐに部屋に入ろうとしなかった。彼女はじっと部屋の中を見まわしたかと思うと、おもむろにため息をついた。
「……ぜんぜんだめね。この部屋はまるで調和がとれていない」
女性が手のひらを合わせ、パンと音をひとつ鳴らす。すると、部屋にあるすべての家具の配置が瞬時に入れ替わった。あまりのことに、シュンは思わず叫んでいた。
「なにするんだよ、勝手に!」
(冗談じゃない。これには俺なりの秩序があるんだ)
きれい好きな人間はいつもそうだ。勝手に人の聖域にずかずかと土足で踏みこんできて、善意を押しつける。
憤りを隠せないシュンに、女性は軽やかに笑った。
「すべての物には定められた配置があるのよ。あるべきものをあるべき場所に置かないと、部屋はちゃんと機能しない」
言われてシュンは、もう一度部屋をじっくり見渡してみた。
確かに前よりも整然としている。しかもただ片づけられているわけではない。動線も考えられている。
「このほうが使いやすいでしょう? でも戻してほしいなら……」
女性がもう一度手を鳴らすと、さっきの部屋がまた現れた。
明らかに彼女が配置したほうが美しい。自分なりの秩序があると力説したものの、シュンは敗北を認めざるを得なかった。
「どっちがいい?」
シュンは肩を落としながら言った。
「……君がやったほうで」
ローテーブルの前に坐り、シュンがマグカップに淹れたティーバッグの紅茶を飲みながら、女性は語りだした。
話を要約すると、どうやらこの女性はこことは別の世界に住んでいる人間で、しかも、自分たちには使えない能力を全員が当たり前に使うことができるらしかった。シュンはそんな荒唐無稽なことがあるものかと笑い飛ばしたかったが、部屋の家具の配置を一瞬で変えられてしまっては、信じるしかなかった。
「こっちに来るまではよかったんだけど、ここはわたしがいる世界とは勝手が違うから、どうしていいかわからなくて」
だからずっと立ち往生していたのかと、シュンは納得した。
「でも、魔法が使えるなら濡れずにすんだのに。なんでずっとあそこにいたんだ?」
シュンの問いかけに、女性は一瞬考えこむような表情になったが、また口を開いた。
「……なにもしたくなかったから」
「なにも?」
シュンがそう繰り返すと、女性がじっとシュンを見つめた。
「あなたはない? なにもかもどうでもよくなること」
「そりゃ、あるけど」
というよりも、シュンにとって今がまさにそんな状況だった。
自分の人生はどうしようもなく行き詰まっていて、将来の展望などまるで思い描けない。だが一方では、そんなことはどうでもいいと思う自分もいた。今の生き方を続けていれば、少なくとも衣食住には困らないし、困窮して死ぬことはない。
だが、それははたして生きていると言えるのだろうか?
ただ漠然と生きるために生まれてきたのだとは思いたくない。
自分にはもっといろいろなことができると、そう信じていたいのに。
(でも、どうすれば変われるのかわからない)
「あなたって、いつもそうなの?」
その声にはっとして、シュンはうつむけていた視線を女性に戻した。
「……なにが?」
「初対面でだれかと話してても、途中で考え事に没頭しちゃうの?」
しまった。それは数多くある自分の欠点のうちのひとつだった。
「ごめん……」
女性がふふっと笑う。
「べつに気にしてないわ」
それから女性はしばらく紅茶を飲んでいたが、飲み終わると突然立ちあがった。
「そうだ、せっかくだから案内してよ、この街を」
案内と言っても、この辺りにはなにもない。
「でも、外は雨だし」
シュンは遠回しに断ろうとしてそう言ったが、女性は微笑みながら首を傾げた。
「もう音は聞こえないけど?」
言われてシュンは耳を澄ませてみた。
そういえばそうだ。さっきまで響いていた雨音が聞こえない。
ベランダに出てみて、シュンは驚いた。すでに雨は止んでおり、ぶ厚い雲の隙間からかすかに陽光が差している。
「……一日雨だって言ってたのに」
まさか彼女がやったのだろうか。
シュンはそう思って女性のほうを振り返ったが、すぐに打ち消した。
いくらなんでも、天気を変えるなんてありえない。
女性が笑顔を向ける。
「ほら、行きましょ」
その笑顔は、まだ雲間に隠れている太陽の光より眩しく思えて、シュンは思わず目を細めた。
