「いい天気ですね、リート様」
ヴェルナーが気軽な調子でそう言った。
「そうだね……」
リートが力なくそう返すと、ヴェルナーがからりと笑った。
彼の笑顔は、今の晴れ渡っている空と同じくらい明るく、開放感に満ちていた。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですって。俺もルイス様もついてますから」
「うん……」
しかし、リートの頭にはヴェルナーが言ったとおり心配の二文字しかなかった。
最初、ヴェルナーが提案したときにリートは断った。
「いいよ、僕は乗馬なんて。どうせまだ外に出られないのに」
しかし、ヴェルナーはめげなかった。
「いいじゃないですか、運動にもなりますし。ずっと部屋の中にいるなんて、俺だったら三日で気が変になりますよ」
リートは曖昧に微笑した。
残念ながら、自分はいくら部屋の中に閉じこもっていても平気な人間だった。むしろ、三日続けて外出するほうが耐えられない。その様子を想像しただけで、リートは眩暈がした。
ルイスが呆れた口調で言う。
「ヴェルナー、自分の考えをリートに押しつけるな。おまえがそうだからと言って、他人もそうだとはかぎらない」
「ルイス様だって、いつも俺に散々言ってるじゃないですか。机の上とロッカーを片づけろとか、始業時刻ぎりぎりに来るなとか」
「べつに押しつけているわけじゃない。そうしたほうがいいと言っているだけだ。おまえはすぐ物をなくしてわたしに借りようとするし、慌てて準備するくらいならあらかじめ時間に余裕を持って――」
ヴェルナーが明後日の方向を見る。
「放っておいてください。俺はそういうことは苦手なんです」
二人のやりとりを思い出しながら、リートはくすっと笑った。
相手がルイスであろうが、思ったことをずけずけ言うヴェルナーがリートは好きだった。
ヴェルナーは貴族だが、彼の祖父はもともと商家の出身なのだという。庶民的でまるで気取ったところがなかったので、リートはヴェルナーと話していると楽しかった。
しかも、ヴェルナーはクラウスを毛嫌いしているようで、事ある毎にクラウスに関する愚痴を披露してくれた(そして必ずあとで、言いすぎだとルイスがたしなめた)。
ヴェルナーによると、クラウスは叔父であるハインリヒの権威を笠に着て、気に入らない同僚に嫌がらせをしたり、見下すような態度を取ったりしているらしい。だが、上官たちの前では決してそういうところを見せず、うまく取り入っているのだという。
それだけ組織の中でうまく立ち回れるなら、もっと別のことにその能力を使えばいいのにとリートは思った。自分なら、どう頑張ってもそんな器用な真似はできない。
「ルイス様が来ましたよ、リート様」
そこまで考えていたとき、リートはヴェルナーの声で我に返った。
今二人がいるのは、王宮内の厩舎の隣にある馬場だった。厩舎では、王族たちの愛馬や、馬車を引くための馬が何頭も飼育されている。
ルイスがさすがにいきなり乗馬は無理だから、やるならまず馬に慣れるところから始めようと言ってくれたので、リートはその提案に乗ることにしたのだ。
ルイスが連れてきたのは、灰色がかった白っぽい、いわゆる葦毛と呼ばれる毛並みを持つ馬だった。
ヴェルナーが呆れた声で言う。
「ちょっとルイス様、よりによってグラニでやるつもりですか?」
「心配ない。リートは一度グラニに乗っている」
あの時は暗くてよくわからなかったが、あの時ルイスが乗せてくれたのは、どうやらこの馬だったらしい。
ヴェルナーが驚いた顔になる。
「ほんとですか? 俺のことは未だに蹴ろうとするし、乗せてくれないのに」
事情を知らないリートに、ルイスが説明してくれた。
「グラニはわたしの言うことしか聞かないんだ。手懐けるまでもなかなか苦労した。前の持ち主が酷い扱い方をして、人間不信に陥っていたんだ。毎日話しかけて世話をして、やっと信頼してくれるようになった」
リートはグラニに恐る恐る触れてみた。
「あの時は乗せてくれてありがとう」
「かまわないと言っている」
リートは驚いてルイスを見た。
「グラニの気持ちがわかるの?」
「ああ、グラニはわたしの友達だからな」
ルイスがそう言うと、隣でヴェルナーがぼそりと言った。
「人の気持ちには恐ろしく鈍感なんですけどね……」
それからルイスは、リートにブラシのかけ方を教えてくれた。
しかし、やはりグラニは気難しい馬のようで、リートがブラシをかけようとすると嫌がって離れてしまうので、もっと気性の大人しい馬でやろうということになった。
それからリートは、ルイスがグラニをなだめながら、ブラシをかけているところをじっと見ていた。
いろいろ短所はあるにせよ、彼はやはり善い人だとリートは改めて思った。
メルヒオルが自分にルイスをあてがったのは、こういう忍耐強いところを評価してのことだったのかもしれない。
メルヒオルには、自分もグラニと同じくらい気難しくて人間不信に見えたのだろう。そしてたぶんそれは当たっている。
(そういえば、本当は世話役はルイスじゃなくて、別の人に決まってたんだっけ)
そんなことをリートはふと思い出した。
ハインリヒは確かそんなことを言っていた。
(なんて名前だっけ?)
リートは思い出そうと試みたが、それらしい名前は浮かんでこなかった。
問題が起きたのは、後片づけが済み、ヴェルナーと別れてリートたちが部屋に帰ろうとしたときだった。
「ルイス」
背中越しに掛けられた声に、リートは反射的に振り返った。
リートは一瞬またクラウスかと思ったが、別人だった。
すらりとした痩身の青年がこちらに歩いてくる。しかもルイスと同じくらい背が高い。
彼が着ている深緑と黒を基調にした詰め襟の制服は、色こそ違うものの、形はソリン騎士団とほぼ同じもので、彼もどこかの騎士なのだろうかとリートは思った。
しかし、青年の顔を間近で見た瞬間、リートは考えていたことが頭からすっ飛んでしまった。
細面のすっきりとした輪郭に、整った細い眉と涼やかな目元、そして高く通った鼻筋。彼の顔を構成する部品と配置は完璧で、さながら古今東西の画家や、彫刻家が思い描く究極の美を体現したような端正さだった。
耳にかかるほどの長さの髪は、緩く波打つ淡い金色で、前髪は横に流されている。長い睫毛に縁取られた目の色は薄いグレーだ。口元に浮かべた微笑はいかにも楽しげで、馴れ馴れしくもなく、じつに感じがよかった。
しかし対照的に、ルイスの表情は驚くほど硬かった。
「わたしになにか?」
何気ない風を装っていたが、声には隠しきれない不信感が滲んでいる。ルイスが他人にこんなふうに接するのを見るのは初めてだったので、リートは驚いた。
ルイスの態度に青年が苦笑する。
「そう警戒するな。少し話がしたいだけだ」
しかし、青年のグレーの瞳が一瞬自分のほうを見た気がして、リートは嫌な予感に襲われた。
「単刀直入に言おう。わたしと役目を代わる気はないか、ルイス」
「なんだと?」
ルイスが鋭い声を出したが、青年はまるで天気の話でもするかのような気軽な口調だった。
「わたしはべつにかまわないのだが、周りがうるさいのでね。おまえではなく、わたしが天啓者の世話をするのが適任だと」
ルイスが険しい顔になる。
「わたしはメルヒオルに私的に頼まれてこの件を引き受けたわけではない。内務省からソリンに出された辞令をアルフレートが了承したから、わたしはここにいるんだ。辞令書にはメルヒオルと内務省大臣の署名に加え、陛下の署名もある。確かに異例の事ではあるが、正式な手続きを経て決まったことだ。わたしはそれに従って自分の仕事をしているだけだ。不服があるならメルヒオルのところに行けばいい」
「もう行った。だが変えるつもりはないと断られた」
「ならそれがすべてだ」
ルイスの返事はにべもなかったが、青年は特に気にした様子も見せず、それどころか口元を上げてみせた。
リートには、彼がまるでこのやりとりを遊戯かなにかのように楽しんでいるように見えた。
「だが、今のおまえの話は正確さを欠いている。実際に物事が起きた順番はこうだ。メルヒオルは正式な手続きを踏む前に、アルフレート様に直接打診し、おまえをソリンから王宮に呼んできた。そしておまえの存在に法的根拠を持たせるため、あとで正式な辞令書を出して体裁を整えた。そのことをよく思わない人間がいることくらい、おまえにもわかるだろう?」
二人のやりとりを黙って聞いていたリートは、初めて聞く話にどきりとした。
二人の話は難しくてよくわからなかったが、メルヒオルはルイスをリートの騎士にするために、周りから批判が出るような手続きの仕方をしたらしい。
「ほかの貴族たちは陛下にこぞって陳情している。メルヒオルは王の権限を侵害していると」
「わたしは騎士だ。政治には関わらない」
「では、当事者に決めてもらおうか」
強硬な姿勢を崩さないルイスに、青年はこれ以上話しても無駄だと思ったのか、今度はリートに向き直った。
青年が微笑を浮かべて口を開く。
「言い忘れていたが、さっきの話には続きがある。メルヒオルには断られたが、本人が了承すれば代わってもかまわないそうだ」
ルイスが反論しようとしたが、その前に慌ててリートは口を挟んだ。
「ま、待ってください。それより、まだあなたに名乗ってもらっていません」
初めて会ったときに、ルイスが丁重に挨拶してくれたことを思い出して、リートは声が震えないようにと手を握りしめたまま、青年にそう答えた。
リートの反応が想定外だったのか、男は不意を衝かれた顔をしたが、すぐに真面目な表情になった。
「これは失礼した。ハーナル騎士団のミヒャエル・フォン・シェーンドルフと申します。以後お見知りおきを」
そう言ってミヒャエルは胸に手を当て、優雅な動作で腰を折った。その所作の美しさにリートは一瞬見惚れたが、頭の中は別のことで占められていた。
その名前を聞くのは今日で二度めだった。
それに、ハインリヒが口にしたのも同じ名前だったことをリートは唐突に思い出した。
(ミヒャエルが適任だという話だったではないか)
彼はそう言っていた。
「あなたがミヒャエル?」
リートがそう言うと、ミヒャエルが形の整った眉をわずかに上げた。
「おや、だれからわたしのことを?」
「ミリィ……エミリア王女が」
リートがそう答えると、ミヒャエルが微笑んだ。
「そうか、君は王女とも会っているんだったな。ならちょうどよかった」
そう言ってミヒャエルはいきなりリートに近づいた。端正な顔が間近に迫り、リートは思わず一歩後ずさった。
「教えてくれないか。彼女はわたしのことをどう言っていた?」
「リート、答えなくていい」
ルイスが庇うようにリートの前に出ると、相変わらず微笑みを浮かべているミヒャエルをひたと睨みつけた。
「話は終わりだ、ミヒャエル。話なら今度にしてもらおう。行こう、リート」
ルイスに促され、ミヒャエルをその場に残したままリートは慌ててルイスのあとを追いかけた。
ルイスの歩く速度がとても速いので、リートは途中から走らなければならなかった。ミヒャエルに別れの挨拶もできなかったことをリートは恨んだ。
もっと話をしてみたかったのに。彼がしていた話はリートにとって興味を惹かれるものだった。
「ルイス!」
耐えかねてリートが叫ぶと、ルイスはやっと立ち止まった。いつの間にか二人は中庭まで来ていた。
穏やかな日差しが降り注ぐなか、息を切らしながら、リートはルイスに近寄った。
「どうしたんだよ、いきなり。話の最中だったのに」
黙りこくっていたルイスが不意に口を開いた。
「ああいうことを不用意に言うのはよくない」
「なにを話すかは僕の自由のはずだ」
リートはむっとして言ったが、言いすぎたと思って下を向いた。
「……気に障ったなら謝るよ。でも、あなたが感情的になるのはらしくないと思う」
ルイスはまたしばらく沈黙したあとで口を開いた。いつものきびきびした口調とは打って変わり、その声には不信の色がありありと見て取れた。
「ミヒャエルは信用できない。君によくないことを吹き込む可能性がある」
でもそうは見えなかった、とリートは思った。確かにミヒャエルには裏がありそうだったが、リートは彼が悪人だとは思えなかった。リートにはルイスが気に入らないだけのように見えた。
だがそれよりも、リートの頭の中は別のことでいっぱいだった。
「ねえルイス。どうして言ってくれなかったの? メルヒオルをよく思ってない人がいるって……そりゃ、いろいろあってそれどころじゃなかったけど」
リートがそう言うと、ルイスはリートの前に屈み込み、目線を合わせた。
「リート、メルヒオルは君を心配しているんだ。君はこの世界の人間じゃない。賓客なんだ。わざわざこの国の内部事情を知る必要はない。知っても不安になるだけでいいいことはなにもない」
「それは、そうかもしれないけど、でも……」
メルヒオルをよく思っていない人間がいる。そんなことは考えたことはなかった。だが当たり前のことだ。どこの国にだって勢力争いがある。
邪魔な人間を排除して、自分が権力を握りたいと思う者だっているだろう。
そこまで考えて、ふとリートは黒ずくめの服に痩身の男を思い出した。
ハインリヒ・フォン・シュヴァルツバッハ。エミリアはハインリヒがメルヒオルを嫌っていると言っていた。
リートは不安が募るのを感じた。考えるのをやめようとしても振り払えない。猜疑心が染みのようにじわりと胸に広がっていく。
思えば、ライナスが死んだ件だってそうだ。ここは自分が思っているほど治安が良くないのかもしれない。振り返ってみれば、エミリアやユーリエと話すときはいつもそばにルイスがいたし、政治に関する話はほとんど教えてもらえなかった。ライナスの墓に行った以外は、王宮の敷地の外にも出ていない。今まで気にならなかっただけで、自分にもいろいろ制限はあったのだ。
リートはうつむいたまま言った。
「僕はそんなに信用されてないの?」
「そういうことじゃない。王宮の問題に君が巻き込まれないためだ」
ルイスがそう言ってリートと目線を合わせた。真摯さを湛えた瞳がまっすぐにリートを見つめる。
「君の存在は周りに良くも悪くも影響を与えすぎる。そこをわかってほしい」
「だったら、僕はずっとルイスに監視されてここで過ごさなきゃいけないの? ここでなにが起きてるのかなにも知らないまま? そんなのユーリエとたいして変わらないじゃないか」
思わずリートがそう言うと、ルイスが心外だと言う表情になった。
「リート、わたしが私心で言っていると言いたいのか?」
「そうじゃないけど!」
リートは食い下がろうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
伝わらないもどかしさだけが加速していく。
確かに自分はこの国の政治には関われないし、それを知ったところで意味はないのかもしれない。
だがこれはそういう問題ではないはずだ。
ルイスが悪い人間ではないことはわかっている。だがこれは譲れない。
しかし理由を言えと言われても説明できない。
「この話はもういい。部屋に戻ろう」
ルイスはそう言ってリートを促した。しかし、リートはその場を動かなかった。
「……なんでわかってくれないんだよ」
ルイスが怪訝そうな顔で振り返る。
「どうしたんだ、リート」
「……べつになんでもない」
リートが投げやりな口調で言うと、さすがのルイスも眉を上げた。
「リート、言いたいことがあるなら、きちんと順序立てて話を」
「話すことなんかないよ」
リートは強い口調で言った。
「さっきから、君は全然僕の話を聞こうとしてない。そんな状態でいくら話しても無駄だ」
「リート」
「……鍵を貸して」
リートは低い声で言った。
通常、王宮に寝泊まりしている人間は部屋の戸締まりをしない。侍女が部屋に入れなくなってしまうからだ。
しかしリートは二度も危険な目に遭っていたので、ルイスは何者かの侵入を防ぐために、リートと部屋を留守にするときは常に施錠していた。
リートの態度がいきなり変わったので、ルイスはたじろいだ表情になったが、すぐに部屋の鍵を差し出した。
ルイスの手から鍵を奪うと、リートは早足に歩きだした。
「リート」
「ついてこなくていいから!」
リートは振り向きざまに叫んで走り出した。
自分の部屋に戻るなり、リートは寝室の扉を開け、深靴を履いたまま寝台に突っ伏した。枕に顔を埋めながら、リートは感情的になってしまった自分を恥じた。
理不尽なことを言っているのは自分でもよくわかっていた。だが止められなかった。
(なにをやってるんだ僕は……)
(わたしはリヒトを信じている。だからリートのことも信じる)
そう言ってくれた彼とはあまりに違う自分が腹立たしかった。
