第22話 ミヒャエルの屋敷

 ミヒャエルの屋敷は、リートが想像していた貴族の大邸宅とは違ったが、とてもしゃた屋敷だった。重厚さはまったくなく、明るくて開放的な雰囲気で、二階にある居間には趣味の良い調度品や家具が並んでいる。
 彼が手ずから紅茶を淹れたのでリートは驚いた。リートが王宮で食事するときは必ず侍女が給仕したし、お茶も同じだった。
 リートがじっとミヒャエルの手元に視線を注いでいると、それに気づいたミヒャエルが説明してくれた。
「うちには住み込みの侍女がいないんだ。わたしはいつも宿舎にいるから、用があるときだけ来てもらっている」
 リートはなぜ侍女がいないのだと聞こうとしたが、その前にミヒャエルが受け皿とカップをリートの前に置いた。
 柔らかな湯気が漂う紅茶をリートがじっと見ていると、ミヒャエルが向かい側の席に腰を下ろし、長い指を顔の前で組んだ。
「さて、なにから話そうか。そうだな、昨日わたしと別れてからなにがあったか話してもらおうか」
「どうして」
 リートが驚いていると、ミヒャエルが口元だけで笑った。
「簡単な推理さ。でなければ、君はわたしについてこなかったはずだ。わたしかルイスを選べとわたしが迫ったとき、君は迷わずルイスを選んだ。しかし今は違う。とすると、あのあとなにかがあったのだと考えるのが妥当だ。違うかな?」
 ミヒャエルの洞察力にリートが内心舌を巻いていると、彼が申し訳なさそうに笑ってリートを見た。
「気を悪くしたならすまない。職業柄、人の考えを読むのが癖になっていてね」
 リートの話に、ミヒャエルはときどきあいづちを打ちながら聞いていた。彼はとても聞き上手だった。ハーナル騎士団は治安を守るのが役目だというルイスの話を思い出して、きっと自分の世界にいる警察官みたいなことをやっているのだろうとリートは推測した。それで人の話を聞くことに慣れているのだろう。
「ルイスに腹が立つのも無理はない。あいつは真面目だが、恐ろしく融通が利かないからな」
 すべて聞き終えてからミヒャエルはそう切り出した。
「君の気持ちにふたをすることはない。大事なのは人が決めた基準に従うことではなく、自分で判断することだ。教えられたことだけをかたくなに信じ込むのはよくない。感情的になりすぎるのもよくないが」
 そう言いながらミヒャエルが笑ってこちらを見たので、リートは言葉に詰まって視線をさまわせた。
「メルヒオルがよく思われていないっていうのは本当なの?」
 リートの問いかけにミヒャエルがうなずく。
「一部の人間はそうだ。宰相のハインリヒを筆頭に、おうけんはメルヒオルを追い出したいと思っている」
「王権派って?」
「国の頂点に存在するべきなのはリヒトではなく、王だという考え方をしている貴族たちの派閥のことだ。王権派はリヒトに対する信仰心が薄いんだ。リヒトを神聖視するのではなく、あくまで政治的な枠組みの中で国を権威としてあがめ、強くしたいと考えている。それに対するのがしんせいだ。何事もリヒトの教典を尊重し、それにのっとることを良しとする」
 リートはしばらく考えたあとで、首を傾げた。
「僕には違いがよくわからないけど……」
 ものわかりの悪い人間だとがっかりされるかと思ったが、ミヒャエルが微笑んでいたので、リートはほっとした。この質問はさほど的を外していたわけではなかったらしい。
「対象が違うだけで、本質的にはどちらも同じなんだ。神聖派はリヒトを、王権派は国家をそれぞれ権威として崇めている」
「権威ってなに?」
「一般的には、社会的に価値があるとされているもののことだな」
 それを聞いてリートは暗い気持ちになった。ルイスにも話したが、リートは自分の世界で価値があるとされていることの大半に魅力を感じなかった。
 それに、自分は社会的な価値などまるでない人間だ。学校の成績も良くないし、なにかを評価されたこともない。他人ともうまくつき合えない。容姿が特別優れているわけでもない。
 自分という存在はいつも、教室の片隅に押しやられてつぶされそうになっている。
「メルヒオルは神聖派なの?」
「いや、そういうわけではない。彼は王の最高顧問だから、どちらかに肩入れはせず、両派閥の均衡を保つために動いている。とはいえ彼は聖職者だから、神聖派はメルヒオルに期待をかけている。もともと神聖派は教典の解釈を巡って意見が割れやすく、王権派と違ってまとまりに欠けるんだが、メルヒオルはどの派閥からも信頼されている、まるで奇跡のような人間なんだ」
 話を聞きながら、リートはメルヒオルの存在の重さを知って、居たたまれなくなった。そんな人物と普通に会話をしていてよかったのだろうか。
「しかも陛下はメルヒオルに全幅の信頼を寄せている。ハインリヒたちとしてはそれが面倒なんだ。このあいだも議会で可決された王権派の提出した法案が陛下に却下され、審議し直すことになった。メルヒオルが反対したからだというのがもっぱらのうわさだ」
 リートはミヒャエルの言葉に驚いた。ライナスの説明だけではよくわからなかったが、やはりここは、君主が絶対的な力を持つ専制国家のようだった。
 リートのいた国やほかの先進国では、議員は国民によって選挙で選ばれる。そこで過半数を取った政党が中心となって議会が運営され、法律が整備される。君主が議会で可決された法案を却下することは、法律上不可能だった。君主はただの象徴的存在で、そもそも存在しない国も多い。
「ほかに訊きたいことは?」
 問われてリートはふと思い出した。白い仮面を着けた黒装束の集団。
「僕を襲ったのはだれだったの?」
「リヒト原理主義者だ」
「原理主義者?」
「リヒトとヴォルヴァを、王や国の権力維持のためにいっさい利用すべきではないという、過激な思想を持つ人間たちのことだ。彼らはリヒトが自分のすべてなんだ。リヒトとヴォルヴァを利用する人間は、たとえそれが王であろうと殺す」
 殺すという言葉に、リートは身体の内側が冷たくなるのを感じた。事切れたライナスの姿が脳裏によみがえる。
「彼らは、国に利用されている彼女を解放するという名目でユーリエを拉致しようとした。ユーリエを自分たちだけのものにしようとしたんだ」
 もしユーリエが拉致されていたらどうなっていたのかを想像して、リートは恐ろしくなった。信仰対象として彼女は一生自由を奪われていたかもしれない。
「でも、僕のことは殺そうとしてた」
「それは君が天啓者だからだ。彼らは君がヴォルヴァによくない影響を与えると考えているんだろう」
 よくない影響。そうなのだろうかとリートは思った。ゾフィーはそのことを一番心配している。未だに自分は彼女に信用されていない。
 ミヒャエルがにやりと笑う。
「君がユーリエの処遇を巡ってゾフィーと対立した話は聞いているぞ。あのゾフィーを相手に戦うとは、君はなかなかやるらしい」
 そう言われてリートは慌てた。
「そんなんじゃないよ。ただ、僕はゾフィーのやり方が気に入らなかっただけで。それに、僕一人じゃなにもできなかった。みんなに助けてもらったからできたんだ」
 しかしそう言いつつも、リートは内心舞い上がってしまいそうな自分を抑えるのに苦労した。そうやって自分はいつも調子に乗って失敗し、そのあとで落胆する。その繰り返しだった。
「あの、この国はリヒトを信じていない人間を弾圧するとか、そういうことはないの?」
「ないな。リヒトの教えに従うか従わないかは個人の判断に任されているし、信じる信じないも自由だ。教会に行く義務もない。教典の教えに背く者を追放しろとか改心させろなどとも書いていないし、国の法律にもそんな規定はない。問題になるのは犯罪が絡んだときだけだ」
「あなたはリヒトを信じてないの?」
 リートがそう訊ねると、ミヒャエルは少し考えたあとで口を開いた。
「そうだな、ハインリヒほどではないが、わたしは信仰心が薄いかな。こういう仕事をしていると、理不尽な出来事にいくらでも出くわすんだ。信じているだけではなにも救えないと思うこともある。だからルイスはわたしが気に入らないのかもしれない」
 ミヒャエルがお茶を入れ替えに席を立ったので、リートは先ほどの会話を頭の中で整理した。王権派と神聖派の対立。過激な思想を持つ原理主義者。
(だからメルヒオルとルイスは言いたくなかったんだ。僕の立場がとても微妙なものだから)
 王権派にしてみれば、リヒトに選ばれた人間などに宮殿の中をかっされるのは、面白くないに違いない。ならば、神聖派はどうだろう。自分をあがたてまつるような真似をするだろうか。いや、そんなはずはないとリートは思った。派閥の維持に恩恵があるならともかく、リートがなにもできない存在だと知れば、なるべく自分とは関わらないように努めるだろう。
 そんなふうに考え事をしていたので、リートは目の前に現れた女性が声を発するまでその存在に気づかなかった。
「あなたがリヒトに選ばれたという方?」
 顔を上げた瞬間、女性の容姿の美しさにリートはたじろいだ。エミリアも美しい顔立ちをしていたが、彼女は健康的ではつらつとした雰囲気で、妖艶さとは縁がなかった。
 しかし目の前の女性は、仕草や視線の一つひとつまで官能的な美しさにあふれている。グレーの瞳がリートの上から下までじっくりめるように動くと、椅子に坐っているリートに近寄り、屈んで視線を合わせた。
 女性の顔がさらに近づき、ほとんど鼻がくっつきそうになったが、リートは魅入られたように動くことができなかった。どうやら女性はリートの顔を観察しているらしい。
「わたくしたちの顔とはなにから何まで違っているのね。とっても不思議」
 女性はそう言うと、そっとリートの手を取った。柔らかくてほっそりした手だった。
「素敵だと思いません?」
 囁くような声音だった。意味がわからずリートが黙っていると、女性はうっそりと微笑んだ。
「お兄様のことです。世界中を探しても、あんな素敵な方はいませんわ」
 女性がリートの耳元で囁く。
なんかといるより、お兄様といるほうがよっぽどあなたのためになりますわ」
 だれのことだとリートが考えるより速く、女性のいろあでやかな唇が近づいてきてリートは必死で顔を背けた。
「ガビー、そのくらいにしておけ。リートが困っている」
 戻ってきたミヒャエルの声で女性が動きを止め、立ち上がった。女性が離れた瞬間リートはぐったりと息を吐いた。
「妹のガブリエレだ」
 ミヒャエルが紹介すると、ガブリエレが優雅に膝を折ってお辞儀した。
 ガブリエレは、髪色こそミヒャエルと同じ淡い金髪だったが、顔立ちはそこまで似ていない。だが、貴族的な雰囲気や優美で気品のある様は共通していたし、二人とも並外れて美しい容姿だった。
 ガブリエレが上品に微笑む。
「兄から話は伺っています。これから仲良くしてくださいね、リート様」
 リートは曖昧に笑顔を返した。
 同じ日に二度もからかわれるのは、さすがにいい気がしなかった。
「お茶会はどうだった?」
 ミヒャエルの問いかけに、ガブリエレが首を振る。
「はずれでした。つまらない恋愛話につきあわされただけよ」
 リートが改めてよく見ると、確かにガブリエレはがいとう姿で、手には手袋を着けていた。それなら階段を上がる音がしたはずだが、自分はまったく気づかなかったらしい。
 リートは自分の無警戒さに呆れた。
「こんなことなら、家にいてお出迎えすればよかった。でも、まさかお兄様が本当に宮殿からリート様を連れ出してしまうなんて思わなかったの」
 ガブリエレがそう言って、いたずらっぽく微笑むと、ミヒャエルがにやりと笑った。
「彼を助けるためさ。お茶を淹れるから、着替えてきたらどうだ?」
「ええ、そうします」
「そうだ、玄関の鍵は開けておいてくれ」
 ミヒャエルがそう言うと、ガブリエレが首を傾げた。
「あら、なぜです?」
 ミヒャエルがまたにやりと笑う。
「これからもう一人来るんだ」
「わかりました」
 ガブリエレが部屋から出ていくと、ミヒャエルが切り出した。
「それで、どうする? 君が望むなら、本当に代わってもかまわないが」
 リートは少し考えてから首を横に振った。
「それはやめておくよ。ルイスはとても善い人だから。ここに来たばかりで、頑なだった僕と真剣に向き合ってくれたのは彼だけだった」
 そう言いながら、リートはこれまでのことを思い出した。ほかのだれでもなく、ルイスだから自分は気持ちを素直に表現できたのだ。もしほかの人間なら、ずっと部屋に閉じこもっていたかもしれない。
「それに、僕を信じるって言ってくれたんだ。言葉だけじゃなくて、いつも僕に誠意を持って接してくれた。僕を信じる根拠なんて、なにもないはずなのに――それが僕は嬉しかった」
 ミヒャエルは、リートの話を最後まで黙って聞いていたが、突然ふっと笑った。
 そのまなざしの優しさに、なぜかリートはどきりとした。
 彼は表情に乏しい自分と違って、本当にさまざまな笑い方をするが、それはリートが今まで見た笑顔のどれとも違って見えた。
「なるほど。そこまで言われては引き下がるしかないな」
 そう言いながら、ミヒャエルは長袴ズボンのポケットから銀色の懐中時計を取り出すと、蓋を開けて時間を確認した。
「さて、そろそろかな」
 それがどういう意味なのかリートが訊ねようとしたとき、突然階下でバタンと扉が閉まる音が聞こえた。それに続いて階段を上る音が聞こえてきて、リートはぎょっとした。