第35話 潜入

 ミヒャエルとルイスが足を踏み入れた建物は、外観こそ教会のようだったが、中はまるで違っていた。
 ミヒャエルは注意深く辺りを観察した。
 入ってすぐの所に、酒場のような細長い天板机が設置されている。ここでだれかが訪れた人間となにかやりとりをするのだろうか。
 二人がしばらく廊下を歩くと、道が二手に分かれていた。
「どうする?」
「ここで別れよう。おまえは右だ」
 ミヒャエルはルイスにそう指示すると、左の道を取った。
 歩きはじめてすぐ、ミヒャエルは廊下が湾曲していることに気づいた。
 この建物はどうやら円形らしい。心配しなくてもこのまましばらく歩いていけば、ルイスと合流できるだろう。
 しかし、ミヒャエルの予想は裏切られた。突き当たりにあったのは黒色の扉だった。
 ミヒャエルは慎重に扉を開け、滑り込むように中に入った。
 部屋の中は狭かった。十人入ればいっぱいになってしまうほどの面積しかない。
「あなたはだれですか?」
 どこからか聞こえてくる声にミヒャエルは壁から離れ、周囲を警戒した。この部屋にはなにか仕掛けかがあるに違いない。
「あなたの名前は?」
 もう一度問われ、ミヒャエルはこの馬鹿馬鹿しい演出に乗ることにした。素性を知られる。そのこと自体にはなぜか意味がないような気がした。
「ミヒャエル。ミヒャエル・フォン・シェーンドルフ」
「あなたの罪はゆるされる。わたしにすべてを打ち明けたなら」
 ミヒャエルは内心笑い出したい気持ちだった。
 赦される、だって? そんなことはありえない。
「……赦されることも、打ち明けることも必要ない。これがおまえたちのやり方なのか? ここで面接して信者にするのか? イェンスをどうした? 答えろ」
 ミヒャエルが矢継ぎ早に言うと、薄暗かった部屋にいきなり光が差した。
 足元を見たミヒャエルは、それがなにかわかった瞬間、ぎくりと身体を強張らせた。
 職業柄、死体なら見慣れている。
 だが、そこにあったのは死体ではなく、床一面を覆っている血痕だった。椅子にもべったりとのりが付いている。そして、椅子の上には一本の短剣が置かれていた。
 ミヒャエルは慎重に椅子に近づき、短剣をハンカチーフで包んで取った。
 短剣には予想通り、ミヒャエルが探していた人間の姓が刻まれていた。
 間違いない。ここでイェンスは殺されたのだ。
 その時扉が開く音がして、ミヒャエルは反射的に振り向いた。
「ミヒャエル!」
 部屋に入ってきたのはルイスだった。入った瞬間、一面に飛び散った血痕に気づいて眉をひそめた。
「なんなんだ、この部屋は」
「おまえも聞いたのか?」
 ミヒャエルの問いに、ルイスが訳のわからないという顔になる。
「なにをだ? わたしはここまでまっすぐ歩いてきただけだが……」
「この建物は円形なんだ。だから二手に分かれても同じ場所に出る。そして真ん中にこの部屋がある」
 ミヒャエルはルイスに説明しながら、瞬間、自分のなかでひらめくことがあった。
 真ん中。
 自分がなにをしているか頭で考えるよりも早く、ミヒャエルの身体は先に動いていた。ミヒャエルは、コツコツと片足で床を叩きながら部屋の中を歩き回った。
 ルイスが訝しげな表情になる。
「なにをしてる?」
 それには答えず、ミヒャエルは乱暴に椅子を退けてその場にかがみ込んだ。よく見ると、床には長方形に切り取られた区画があった。
 予想が当たり、ミヒャエルは思わず笑みを漏らした。
「扉だ」
 ミヒャエルは引き手に指を引っかけ、重い鉄製の扉を引き上げた。
 現れたのはせん階段だった。おそらく地下まで続いているのだろう。
「行こう」
 ミヒャエルはルイスにそう言って、階段に足をかけた。

「今日はわざわざ来てくださってありがとう」
 エミリアがにこやかに挨拶すると、黒いほうを着た、四十過ぎとおぼしき男が深々とお辞儀した。
「いいえ、こちらこそ。こうして王太女殿下にお目にかかることができ、光栄の至りです」
 和やかな雰囲気のなかで、リートは居心地の悪い思いでエミリアの隣に立っていた。
 こういう社交的な雰囲気がリートは昔から大の苦手だった。
 なんとかこの場をぶち壊さないように大人しくしていなければ。天井を見上げるとか、その辺りをうろうろするとか、足をぶらぶらさせるとか、そんなことは御法度だ。
 そう自分に言い聞かせているリートの横で、エミリアが説明する。
「彼はね、リヒトに選ばれて遠い所から来たの。あなたたちも彼に興味があるんじゃないかと思って」
 男にじっと見つめられ、リートは居たたまれなくなるのと同時に、自分が遠い異国から連れてこられた珍しい愛玩動物かなにかのような気分になった。
 相変わらず自分はなにができるというわけでもないし、なにかの役に立つわけでもないのに。
 どうかなにもかれませんように。
 リートは心の中でそう祈った。
 全員が椅子に腰掛けると、エミリアは早速話を切り出した。
「それでね、あまり大きな声では言えないんだけど、わたし、リヒトの堅苦しい教義に嫌気が差してしまって。こんなこと、両親やメルヒオルにも言えないし――」
 そこまで言ってから、エミリアはいかにも深刻そうな表情を浮かべてため息をついたが、すぐに目を輝かせて幹部のほうに身を乗り出した。
「でも召し使いたちから聞いたの。リヒトとは違う、面白そうな宗教がちまたで流行ってるって。わたしが直接出向くわけにもいかないし、触りだけでも教えてもらえないかと思って」
 馬鹿な振りとはこういうことか、とリートは得心した。
 エミリアのかつな演技は完璧だ。
 実際に自分たちは迂闊なことをしているのかもしれないという点を、リートはひとまず棚に上げておくことにした。
「では殿下のご所望通り、本当に触りだけお話ししましょう」
 しかし、リートの緊張は長くは続かなかった。
 男の話を聞きながら、リートはただただ退屈だと思った。
 触りだけだと言っていたが、男の話は長かった。繰り返しも多く、簡潔明瞭とはとても言いがたい。しかも肝心の内容は、要するによくある宗教の教えにすぎず、リートが興味をかれる部分はどこにもなかった。
 リヒトへの信仰をやめ、ドンケハイツの教えを信じれば救われる。信じないものはそれ相応の報いを受ける。
 話を聞き流しながら、リートはうんざりした気持ちになった。
 古今東西、宗教団体というものはいつもそうだ。
 彼らは自分たちの言うことに従えば救われ、逆らえば天罰が下ると脅す。そしてなにか不幸が起きたときは、祈りが足りないせいだと個人にその責任を押しつける。
 ゆえにリートは、特定の宗教を信じる気にはなれなかった。
 しかし、ルイスの語るリヒトの話には興味を惹かれた。
(もしかしたら僕は、ルイスに言われる前からずっと探していたのかもしれない)
 永遠不変の真理。
 絶対に変わらないもの。揺らぐことのないもの。そんな存在を。
「リヒトは常に人に抑圧を強います。しかし自分を戒め、己の欲望を抑え、清く正しく生きたところで決して報われることはない。ですがドンケハイツは違います。我々が尽くせば、必ず真の安らぎを与えてくれる存在なのです」
 エミリアが首を傾げる。
「真の安らぎってなに?」
「一切の悲しみも苦しみも絶望もない状態のことです」
 それでは、その代わりに喜びも楽しみもなくなってしまうのではないか。リートは内心でそう突っ込んだ。
「要するにそれって、ドンケハイツのほうがリヒトより優れてるって言いたいの?」
 リートが思わず突っ込むと、エミリアが驚いた顔でリートのほうを見た。
 リートは発言したことを後悔した。邪魔にならないようになるべく黙っていようと思ったのに。しかし話を遮られたにも関わらず、男は気を悪くしたふうもなく穏やかな表情でうなずいた。
「もちろんそうです。ドンケハイツはあらゆる面でリヒトより優れている。常に我々に寄り添い、慰め、我々が行くべき道を教えてくれる。我々自身が考えてわかることなどたかが知れている。ならば、なにも考えず、すべてドンケハイツに預ければいいのです。思考こそが、我々を不幸にする最大の敵なのですから」
 男の言葉を聞きながら、確かにそうかもしれないとリートは思った。
 余計なことを考えるから悩むのだ。それなら、いっそのことなにも考えなければいい。
 しかし、自分の考えは違う。
 リートは迷った。
 反論したい。だが怖い。
 教師にも親にも、リートは意見をぶつけたことはなかった。
 発言するのは覚悟がいる。自分の主張が間違っていて、簡単に論破されてしまうかもしれないし、馬鹿にされるかもしれない。
 自分の発言の責任は、すべて自分にある。
 その責任はすべて自分で取らなければならない。
 言い訳はできない。だれも助けてはくれない。
 だがそれ以上に、相手の考え方は気に入らない。
 心臓が激しく音を立てていた。
 いつかエミリアが言っていたとおりだとリートは思った。
 なんでも飛び込む前が一番怖いのだ。
 仕方がない。リートは覚悟を決めた。エミリアは物理的に自分のことを守ってくれるだろうが、それ以外のことは期待できそうにないのだから。
「僕は、そういう考え方はいやだな。考えると不幸になるからなにも考えないようにしようなんて、本末転倒だよ。考え方が間違ってるから不幸になるんだ。大事なのは考えないようにすることじゃなくて、なにをどう考えるかだと思うけど」
 話しながらリートは、やはり自分は喋るのは苦手だと思った。頭で考えていることの十分の一も話せない。
「確かに、僕は今まで考えすぎて自分の思考に追い詰められてた。でもそれは、そもそもなにをどう考えればいいのかわかっていなかったからだ」
「なら今はわかると?」
 男の問いかけに、リートは慎重に答えた。
「それはまだ僕にもわからない。確かに僕は特定の宗教を信じてない。でも、なにかを信じることは尊いことだと思う。僕は熱心にリヒトを信仰してる人を知ってるけど、僕の世界にいる人たちより、よっぽど彼のほうが信用できる。常識があるとか、空気が読めるとか、そういうことじゃなくて、彼はそれより大切なことを知ってるから」
「それはなんです?」
 リートはまっすぐに男を見つめた。
「自分の気持ちにうそをつかないってこと。それが一番大事だってわかったんだ」

 ミヒャエルは螺旋階段を下り、地下に出た。そのあとにルイスが続く。
 その時聞こえてきたざわめきに、二人はお互いの顔を見た。
 話し声がする。しかもかなりの人数だ。広場のような場所に、百人ほどの信者たちが地べたに坐っていた。どの人間も黒い革表紙の教典を手にしている。
「なぜ我々は、懸命に生きても救われないのでしょうか」
 そう言ったのは、信者のほうを向いて坐っている男だった。しかし、黒い布を頭からかぶっていて顔は見えない。
 机も椅子も無かったが、その光景はまるで大学で行われる講義のようだった。
 男がそう言った途端、信者たちの一斉に頁を捲る音が部屋に響いた。
「それは我々ではなく、この世界のほうが間違っているからです。リヒトはそこに在るだけで何者も救わない。しかし我々は違います。ベギールデではすべての罪が赦される。そこには永久とこしえの安寧が約束されている……」
 その時ミヒャエルに肩を叩かれ、ルイスははっとしてミヒャエルのほうを見た。ミヒャエルがルイスに手で外に出るように促していた。
 部屋を出ると、ルイスはミヒャエルのほうを見た。
「どうした?」
「大聖堂の件で聴取した連中がわんさかいる」
 低くささやかれたミヒャエルの言葉に、ルイスは目を見開いた。
「そんな馬鹿なことが――」
「どうやらあるようだな。あの大聖堂の中で、我々は観客だったんだ」
 観客。ミヒャエルの言うことが正しければ、すべては最初から仕組まれていたことになる。ルイスは信者たちのいる部屋に目を向けたあとで、またミヒャエルのほうを見た。
「やはりリートが狙われたのか?」
「殺す気があったのかは疑問だがな。そうなってくると犯人はかなり絞られる。リートが外に出ることを――しかもどこに行くのかを知っていたのは、わたしとおまえを除けば閣僚とメルヒオル、そして王族だけだ」
「状況から考えて、おまえが一番怪しいと思うのはわたしだけか?」
 訝しげな顔でルイスが言うと、ミヒャエルが笑った。
「おまえにしてはいい読みだな。待て、だれか来た」
 ミヒャエルとルイスは階段の真下にうずくまるようにして隠れた。
 頭上を足音が通りすぎていく。物陰からルイスが覗くと、ハーナルの制服を着た騎士が二人、螺旋階段を下りてきたところだった。
「まったく、今まで黙認していたくせに、いきなり集会を解散させろだなんて……」
 うんざりした声の騎士に、もう一人の騎士がなだめるように言う。
「そう言うな。これも仕事だろ」
「しかし本当なのか? シェーンドルフ卿がベギールデと通じているとは」
「さあ、どうだかな。だが事実がどうであれ、上からの通達だ。俺たちは逆らえない」
 足音が完全に遠ざかったのを確認してから、ルイスはミヒャエルに囁いた。
「どういうことだ? なぜおまえがベギールデと……」
「だれかが密告したんだ」
 まだ事態が飲み込めずにいるルイスに、ミヒャエルがため息をつく。
「だから、そういうことだ。わたしが犯人なんだよ、ルイス」
 ミヒャエルはそう言って皮肉っぽく笑った。