第46話 地下での遭遇

 逃げ惑う人々の中で、ルイスとルーツィアはなんとか移動しようとしていた。
「ルーツィア!」
 つないでいた手が離れ、人波にさらわれそうになったルーツィアをルイスは抱き寄せた。ぶつかられ、みくちゃにされながら二人はやっと群衆の中から抜け出した。
「ルイス様!」
 ルイスが声のしたほうを見ると、ヴェルナーが群衆をかき分け、こちらに駆け寄ってくるところだった。彼の警備の担当は会場だったらしい。
「どうなってるんですか? まさかこれも……」
 しかし、ルイスはヴェルナーの話を聞いていなかった。
「ヴェルナー、ルーツィアを頼む」
「ええ? ちょっとルイス様――」
「わたしはリートのところに行かなくては」
 抗議しようとするヴェルナーを遮ってルイスはそう言うと、ルーツィアのほうに向き直った。
「すまない、ルーツィア」
「いいえ、どうかお気をつけて」
 ルイスはルーツィアにすばやく口づけると、貴賓席のほうに走りだした。
 ルイスの後ろ姿を見送りながら、ヴェルナーがぼやく。
「まったく、こんなときまで仕事優先なんてどうかしてるよ……」
「ルイス様はそういう方ですから」
 そう言って微笑むルーツィアの横で、ヴェルナーはやれやれという顔で頭をいた。

 エミリアたちが戻ると、トリスタンがすぐに駆け寄ってきた。
「ご無事でしたか、王女」
「わたしは大丈夫。ミヒャエルもいるし」
「なにがあったの?」
「舞台の後ろ側から爆発音が上がって煙が」
 エミリアとミヒャエルは顔を見合わせた。
「陛下と王妃様は王宮に戻られました。早く避難なさってください」
「リート!」
 そこに飛び込んできたのはルイスだった。
「ミリィ、リートはどこだ?」
「ここにはいないわ」
 エミリアは瞼を閉じ、ややあってから答えた。自分の失態を責めているような表情だった。
「どこにいる?」
「ユーリエの部屋に一緒にいるはずよ。でも今はわからない。もう自分の部屋に戻ったかも」
「リートの部屋にはわたしが行こう。手分けして探したほうが速い」
 ミヒャエルがそう言うと、ルイスがうなずいた。
「ああ、頼む」
「わたしも行くわ」
 エミリアが言うと、ミヒャエルとルイスが同時に首を振った。
「駄目だ。その格好では走れないだろう」
「君はここを動かないほうがいい。トリスタン、エミリアを頼む」
「わかった」
 トリスタンがうなずき、腰に下げていた自分の剣を引き抜くと、ルイスに差し出した。
「ルイス、これを。今日は帯剣していないだろう」
「ありがとう、トリスタン」
「行こう」
 ミヒャエルが言うのと同時に、ルイスはもう聖殿の方角に走りだしていた。
「ああもう、こういうときにかぎって動きにくいドレスに靴なんて……」
 二人に置き去りにされたエミリアは、悔しそうに独りごちた。

「ユーリエ!」
 リートはやっとユーリエに追いついた。
 入り口の所に衛兵が二人倒れている。リートは慌てて彼らに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 リートが声をかけると、衛兵が微かにうめいた。どうやら気絶しているだけのようだ。
「今日は祝日で、聖殿にはだれもいないんです」
「でも、僕たちだけで入っちゃ駄目だよ。騎士団にこの事を伝えにいかないと。それに、祈り場にはエヴェリーンの結界もあるし」
 リートはそう言って、今にも中に入りそうな様子のユーリエを引き止めた。
 ユーリエがすっと瞼を閉じる。
「だれかが聖殿の中にいます。中を歩いている……そのまま祈り場のほうに」
 ユーリエの実況中継を聞きながら、リートは侵入者がそのまま歩いてくれることを願った。結界に触れさえすれば、気絶させられる。しかし、ユーリエは瞼を閉じたまま首を振った。
「そんな、どうして……エヴェリーンの結界があるのに」
「中に入ったの?」
 ユーリエがうなずく。
「このままでは祈り場が」
 ユーリエがそう言ったその途端、リートの前で突如突風が巻き起こった。リートは反射的に瞼を閉じ、両腕で顔をかばった。
「ユーリエ……?」
 瞼を開けると、ユーリエの姿は消えていた。彼女は地下に行ってしまったのだ。
 リートは螺旋階段を覗き込んだ。壁のあかりがすべて消えた階段は暗く、一番下まで見通せない。
 リートは一瞬迷ったが、螺旋階段に慎重に足をかけた。このままユーリエを一人にはしておけない。そう思った途端、壁に取り付けられた松明たいまつに次々と灯りがともった。おそらくユーリエがやったのだろう。
 リートは急いで階段を下りた。
 聖殿の中を走り、エヴェリーンの結界をくぐる。
 祈り場ではユーリエが侵入者とたいしていた。侵入者は黒い頭巾を頭からすっぽりかぶっていて、顔が見えない。
「あなたは何者ですか。名を名乗りなさい」
 ユーリエの詰問に影は答えなかった。
 ユーリエが人影の前で手をかざす。すると一陣の風が巻き起こり、侵入者がかぶっていた頭巾がひとりでに外れた。
 あらわになった顔を見てリートは驚いた。
 そこに立っていたのは、金茶色の髪の年若い青年だった。二十歳は超えていそうだが、ルイスやミヒャエルより年下かもしれない。
 男は整った顔立ちをしていたが、その顔には表情というものがなく、まるで仮面をつけているようだった。切れ長の瞳が冷たくこちらを見る。
 どうすればいい。リートはなにもできずすくんだ。
 話してわかってくれる相手には見えない。やはり自分たちだけで太刀打ちできる相手ではなかったのだとリートは思った。
 どうしていいか途方に暮れ、リートは反射的に隣にいるユーリエを見たが、彼女の顔を見た途端、ぎょっとして言葉を失った。
 ユーリエの瞳から、一筋の涙がほおを伝っていた。リートが驚いていると、その瞬間、なんの前触れもなくユーリエの身体がぐらりと後ろに傾いた。
「ユーリエ?」
 リートは手を伸ばしてなんとかユーリエを受け止めたが、重さでよろけて床に膝をついた。
「ユーリエ、しっかりして」
 しかし、いくらリートが声をかけてもユーリエはぴくりとも動かなかった。
 男がこちらにゆっくりとした足取りで近寄ってくる。歩くたびに靴音が反響した。
「そのピアス、なぜおまえがつけている」
 リートは混乱した。なぜピアスのことを知っているのだろう。
 しかしリートが答える前に、男がなにかに気づいたように目を大きく見開いた。その瞳の色は、たかのようなはくいろだった。
「黒目黒髪……まさか、おまえなのか?」
 囁くような声には、信じられないという純粋な驚きが感じられた。
「今日この日に会えるとは、まさにリヒトの導きだ」
 言いながら男はすばやい動作で剣を抜き、リートの眼前に突きつけた。
「出てこい。おまえと話がしたい」
 訳もわからずリートが固まっていると、青年が険しい顔で睨んだ。
「他人のふりをするのはやめろ。わたしを忘れたとは言わせないぞ」
 リートは彼が狂っているのではないかと思った。でなければだれかと人違いをしているとしか思えない。
「わたしをだますつもりか? おまえをエヴェリーンには会わせない。力を失っているというなら、わたしがおまえを殺す」
 男が剣を構え、躊躇なくリートに振り下ろした。やられると思う間もなかった。
 しかしリートの身体に痛みは訪れなかった。リートがそろそろと瞼を開けると、リートの前にはだれかが庇うように男の剣を受け止めていた。
「ルイス!」
 ルイスは青年の剣をこんしんの力で弾き、リートに向かって叫ぶ。
「リート、ユーリエを連れて早く逃げろ!」
「駄目なんだ、ルイス! ユーリエが気を失って動けなくて」
 リートは必死でユーリエに呼びかけた。
「起きてよ、ユーリエ!」
 リートはユーリエの身体を揺すったり頬を軽くたたいたりしたが、ユーリエは一向に目を覚まさない。それどころか体温がみるみるうちに下がっていく。まるで死んでいるような状態にリートはぞっとした。
 リートがそうしているあいだに、男はもう立ち上がっていた。冷たい瞳がルイスを無表情に見つめる。ルイスは真っ向からその視線を受け止めた。
 青と琥珀色の瞳が交錯する。
「……邪魔をするな」
 男が構えを取り、地を蹴った。
 二人の剣の技量はきっこうしていたが、リートにはわずかにルイスが押されているように見えた。
 男は血気にはやることも熱くなることもなく、冷静で落ち着き払っていた。とてもルイスより年下には見えない。
 リートはルイスが苦戦している姿を見るのは初めてだった。
 男が仕掛けたのはその時だった。
 男が無謀とも言える大胆さで間合いを詰めた。ルイスは即座に後退してかわし、反撃に転じようとした。しかし、男の攻撃はそれで終わらなかった。躱された瞬間、男はすばやく手首を返し、ルイスの上体を狙って剣を振り下ろした。
 ルイスは気づいてすぐに上体を反らしたが、躱しきれなかった剣先がルイスの頬を切り裂き、血が流れ落ちた。体勢を崩したルイスを男は逃さなかった。距離を一気に詰め、がら空きになったルイスの懐を剣先が襲う。
 リートが叫ぶより速く、ユストゥスの剣がためらいなくルイスの身体を刺し貫いた。
 剣を引き抜かれた瞬間、ルイスの膝から力が抜け、崩れ落ちるように倒れた。
 うそだ。
 ライナスが死んだあの時と同じ状況に、リートは恐怖と罪悪感で動けなかった。
 リートはユーリエを抱えたまま必死に後ろにあと退ずさったが、すぐに壁際まで追い詰められてしまった。
「言い残した言葉はないか」
 リートはユーリエの身体から手を離し、立ち上がった。
「殺すなら僕を殺して終わりにして。もう、僕のせいでだれにも死んでほしくない」
 自分の独り善がりなのだとしても、リートの願いはそれだけだった。
「殺したいなら殺せばいい」
 そう言ってリートは目をつむった。
 その瞬間、眠っていたユーリエがはっと目を覚ました。彼女が見たのは今まさに男がリートの身体を剣が貫こうとしている光景だった。
「リート様!」
 ユーリエが叫んだその瞬間、バチッと電撃が走るような音がしたか思うと、男はなにかに弾かれたように後ろに吹き飛んでいた。
 男がもう一度剣を構え、リートに向かってくるが、見えない障壁が立ちはだかっているように剣はリートの身体の前で停止し、それ以上進むことができずバチバチと音を立てた。
 リートがぼうぜんとしていると、男が剣を取り落とし、利き手を庇うような仕草をした。どうやら手がしびれて剣を握れないらしい。その時、頭上から声が降ってきてリートははっとした。
「リート! ルイス!」
 ミヒャエルの声だ。階段のほうから聞こえてくる。足音からして近衛騎士たちも一緒のようだった。
 リートはほっとして息を吐いた。もう逃げられない。
 しかし男は焦った様子もなく、逃げるそぶりも見せなかった。
 男はリートには目もくれず、祭壇に近づくと壁に体当たりした。すると驚いたことにくるりと壁が回転し、男の姿は壁の向こう側に消えていた。
「リート!」
「僕は大丈夫。それよりルイスが」
 駆け寄ってきたミヒャエルにリートが力なくそう答えると、ミヒャエルは倒れているルイスに駆け寄った。リートもあとに続いた。
「ルイス!」
 白い礼服が血に染まっていた。
 ミヒャエルが心音を確認し、脈を取る。
「出血が酷い。早く止血しなければ命に関わる」
「そんな、ルイス!」
「離れていてください、リート様。できるだけ音を立てないで」
 ユーリエはそう言うと、ルイスの前に坐った。
 上着とシャツのぼたんが勝手に外れ、露わになった患部に手を翳し、ユーリエが瞼を閉じる。
 その瞬間、ルイスの身体から流れ出た血が、まるで意思を持った生き物のように動き、身体に戻りはじめた。それと同時に、服に付いた血痕がみるみるうちに消えていく。
 リートはまばたきするのも忘れ、その光景を食い入るように見つめていた。まるでそこだけ時間が逆戻りしているようだった。それが終わると、今度はまるで動画を早送りしているような速度で傷がふさがり、肌が滑らかな状態に戻った。
 傷が治るにつれ、ルイスの呼吸が穏やかになっていく。
「脈が戻ってる……」
 ルイスの手首に指を当てたまま、ミヒャエルが呆然と言った。
「これでもう大丈夫です。しばらくすれば目覚めるはずです」
 ユーリエはそう言って立ち上がったが、こめかみの辺りを抑えてその場にすわんでしまった。
「ユーリエ」
 リートは慌ててユーリエに駆け寄った。
「大丈夫?」
 ユーリエが瞼を閉じたままうなずく。
「はい。いつもより集中が必要だったので、少し疲れただけです」
 言われてリートは納得した。
 だから彼女は音を立てるなと言ったのだ。しかし、命に関わるような傷を治すのは、ユーリエにとってはかなりの負担になるようだ。
 それでなくても、彼女は病み上がりだ。もう帰って寝ていなければならない。
「ルイス、まだ寝ていろ」
「平気だ」
 ミヒャエルの制止を振り切って、ルイスが起き上がろうとしていた。
「もう大丈夫なの?」
「……ああ」
 ルイスはうなずいたが、硬い表情のままだった。
 流れた血は元に戻ったし、傷も塞がったのだから、ルイスの身体はもうどこも悪くないはずだ。だが、リートはなぜか喜べなかった。
 ルイスが死ななくてよかった。そう思っているはずなのに、なぜこんなに沈んだ気持ちでいるのだろう。
「あの男はどこに?」
 ルイスの問いに、リートは首を振った。
「わからない。祭壇の奥に隠し扉があって、そこから逃げたみたいだけど」
 リートがそう言うと、ミヒャエルが立ち上がって祭壇のほうに歩み寄った。
 ルイスがユーリエの前でかがみ、視線を合わせた。
「ありがとう、ユーリエ」
 ユーリエが静かに首を振る。
「お気になさらないでください。感謝するならわたしではなく、どうかリヒトに。あなたが助かったのはリヒトの意志なのですから」
 リートは二人のやりとりを聞きながら、ユーリエに礼を言い忘れていたことを思い出した。
「ありがとう、ユーリエ。ユーリエがいなかったら僕は死んでた」
 リートは心からそう言ったが、ユーリエは首を振った。
「いいえ、わたしはなにもしていません」
「え……?」
 ユーリエの薄紫色の瞳がリートをじっと見た。
「あれは、リート様の力です」