第53話 好きなこと

 次の日、エミリアはリートの部屋の前でルイスに入室を阻まれていた。
「ちょっと、どういうことよ面会謝絶って」
 エミリアが抗議すると、ルイスが淡々と答えた。
「リートの頼みだ。知りたいことがわかるまでだれにも会わないと」
 エミリアが訝しげな顔になる。
「読むって……だって、リートはまだ読めないはずでしょ? 文法がわかっても単語を覚えてないのに。辞書もないし」
「それが読めるんだ。確認したらきちんと理解していた」
「それからずーっと読んでるの?」
 ルイスが無言でうなずくと、エミリアが肩を竦めた。
「……呆れた」
「君も帰って勉強したらどうだ」
「あのね、前から言ってるでしょ、わたしは勉強してないわけじゃないって。高等官吏試験に受かるぐらいの知識ならあるのよ」
「知識を覚えるだけが勉強じゃないだろう」
「それはそうだけど……メルヒオルには言わなくていいの?」
「それは考えたが、ただ字が読めるになっただけだからな。リートにも報告するなら全部読み終えたあとにしてほしいと頼まれて」
 エミリアが考えながらうなずく。
「まあ、そうよね。べつに悪影響があるわけじゃないし……仕方ないから、ゾフィーの唱える論を覆す研究でもするわ」
 エミリアはそう言って去っていった。
 エミリアを見送ってから、ルイスは部屋に入った。
「リート、入るぞ」
 ルイスが入ってきても、リートは顔を上げなかった。
「……ごめんね、変なことばかり頼んで。ミリィ様は怒ってなかった?」
 そう言いながら、自分でも心がまったくこもっていないのはわかっていたが、リートはそんなことにはかまっていられなかった。
 こうなった自分にとっては、他人がどう思うということは所詮そんなことでしかない。
「大丈夫だ。ミリィは勝手だが、人の邪魔になることはしないし、根に持つことはない」
「……そうだね」
 台本から目を離さずにリートはルイスに言った。
「これでわかったでしょ、僕が変なやつだって。それがわかると、みんな僕から離れていくんだ」
 頁を捲りながら、リートは淡々と言った。
「僕がこうなったときは、いつも周りの状況なんてどうでもよくなる。他人の話なんてなにも耳に入らない。ただ自分の考えに没頭してる。ノルベルトとたいして変わらない。みんなと話すのは好きだよ。でも、僕は結局こうやって一人でいるのが一番楽しいんだ」
「リート。君は自分の目的のために人を傷つけることはしないだろう? 君はノルベルトとは違う」
「どうかな」
 本当のことを言うと、リートは善悪の判断に自信がなかった。知りたいことのためなら自分は手段を選ばない。
 そういう自分がときどき怖くなるときもあった。
 人を傷つけてまで知りたいとは思わない。だが、知らず知らずのうちに傷つけている可能性はある。
 だから自分はいつも一人なのかもしれない。
「もう行って、ルイス。集中したら、もっと雑な対応しかできなくなるから」
 しかし、ルイスは離れなかった。
「リート。わたしは君から離れないし、嫌われたとも思わない。邪魔になるようなこともしない。これまで通り、なにも変わらない。約束する」
 その言葉を聞いたとき、リートはふと心が温かくなるのを感じた。相変わらず字を目で追い続けながら、リートは言った。
「……ありがとう」
 根拠もなく彼の言葉を信じているわけではない。
 ただ、ルイスは自分が今まで出会ってきた人間とは違う。それが事実だから信用している。それだけのことだ。リートはそう自分に言い聞かせ、また作業に戻った。

「リート!」
 ある日、リートが目を覚ますと、いきなりルイスの顔が飛び込んできたので、リートは驚いて危うくソファから落ちそうになった。
「なに、もう朝? いつの朝?」
 混乱してそんなことを口走りながら、リートはソファから起き上がった。
「いつからここで寝ていたんだ?」
「そんなに寝てないよ。昨日は夢中になりすぎて寝る機会を逃したけど……だからそのまま朝食を食べて、ルイスが来るのを待ってたら、さすがに眠くてうたた寝してただけで……今日は何曜日だっけ?」
「六曜日だ」
 ルイスの答えにそうだったとリートは思い出した。
 リヒトガルテンは、リートの世界と同じ七曜日制だった。一か月は二十八日で、月は全部で十二。それに加えて二、三年に一度、暦を調整するためにうるうづきがあるというのがルイスの説明だった。
 要するに、リートの世界でいう太陰太陽暦のことだった。こちらでは、暦を制定した初代女王アーデルハイトのミドルネームにちなんでシュテラ暦というらしい。
 今はシュテラ暦一七九八年の十月だった。
「リート、このやりとりをするのは今月に入ってからもう三度めだ」
「あー、そうだっけ?」
 ため息をつくルイスに、リートは目を泳がせた。
 この一か月間、台本を読んで、解釈をメモすることに没頭していたので、リートはほかに自分がなにをしていたのかよく覚えていなかった。
「いくらなんでもやりすぎた。好きなことをやるのはいいが、生活習慣は守ったほうがいい」
「ごめん。ちなみに今日の宿直は……」
「わたしだ」
「ちゃんと寝室で寝るよ」
 リートは即座に言った。
 そうしなければ、ルイスは自分がきちんと寝ているか確認しに来るに違いない。
「でも、もう大丈夫だよ。全部読み終わったし、あとは考えるだけだから。それでさ、あの……」
 リートはよどんだが、思いきって言ってみることにした。
「考えがまとまったら一度聞いてくれないかな? そのほうが僕も考えを整理できていいし……」
 そこまで言ってから、リートはちらりとルイスを窺い見た。
 ルイスは、リートが今まで見た中で一番真剣な表情でうなずいた。
「わかった。それが君の頼みなら」
「ありがとう」
 その答えを聞いて、リートはほっとした。

「えーっとね、まずユストゥスとエヴェリーンは、二人が禁断の恋に落ちて、それをよく思わないフリーデリケやゴットフリートたちの謀略のせいでユストゥスが捕まって死んで、エヴェリーンがそのあとを追って死んでしまうっていう悲しい話なんだけど、話の大筋自体は、戯曲も歌劇も同じだった。でも、戯曲と歌劇ではエヴェリーンの態度が違うんだ。戯曲のエヴェリーンは恋愛することに葛藤がなくて積極的なんだけど、歌劇のエヴェリーンは消極的で、信仰心とのあいだで常に葛藤してるんだ」
 そう言い終えてから、リートは自分の説明のつたなさに自分でがっかりした。
(なんで僕ってこうなんだろうな……)
 頭の中では整然としているのだが、言葉にするといつも自分の説明は要領を得ないものになってしまう。
(これじゃ全然わかんないよね)
「だとしたら、そこからなにが言える?」
「え?」
 リートはルイスの質問の意図がわからず戸惑った。ルイスの青に金の虹彩が散った瞳が、万華鏡のようにリートを違う世界へ誘う。
「研究だろう? ならそこから仮説を立てなくては」
 言われてリートは考え込んだ。そうだ。事実を調べるだけなら、やろうと思えばだれにだってできる。大事なのはそこからなにが言えるかを考えることだ。
「……だとしたら、最初は二人の悲恋が主題のはずだったのに、だんだんリヒトへの信仰心に変わってきたっていうことかな」
 リートがそう言うと、真剣な表情で聞いていたルイスがふっと笑みを浮かべた。
「……なるほど」
 リートは驚いた。ルーツィアのこと以外で、こんな嬉しそうに笑う彼をリートは初めて見た気がした。
「でもまだわからないことだらけだ。どうして歌劇になったときにエヴェリーンのところだけ変えたのかが僕は気になる」
「話が変わったのは、降臨祭の内容に相応しいものにするためだろう」
「それはそうなんだろうけど……僕はそれだけじゃない気がする」
「なぜそう思うんだ?」
「なぜって言われると困るけど……強いて言うなら、僕にはエヴェリーンをこういう性格に描くことに、なにかもっと別の意味があるように感じられるから、かな」
 リートがそう言うと、ルイスの目が遠くにあるものを見るときのように細まった、
「別の意味が……?」
「うん。全然根拠とかはないんだけど」
「わたしにはわからないが、君がそう考えるならなにかあるんだろう。メルヒオルから聞いたことがある。普通はある事実を元にそこから答えを導きだすが、直観を使うと、推理に頼らなくてもいきなり物事の本質に到達できるのだと」
 まさか。リートは冗談だろうと思った。
「そんな魔法みたいなこと、僕にはできないよ」
 自分は学校の成績だって悪いし、まるで勘も良くないし、人の気持ちもわからない。
 そんなことができるなら、これまでだって自分はもっと楽に生きられたはずだ。
「そういえば、歌劇が作られたのは前の王様のときだって言ってたけど、陛下はいつ即位したの?」
「六年前だ」
「まだ王様になってそんなに経ってないんだね」
「先帝の在位期間が長かったからな」
 リートは、ユーリエが教えてくれたヴォルヴァについての歴史を思い出した。
「こっちの歴史も勉強したいな。そうしたらもっといろいろなことが言えるかも」
「すればいい。本が読めるようになったなら」
(でも、こうやって分析したからってなんになるんだって話だけど)
 リートはそう思った。べつになにかの役に立つわけではない。完全な自己満足だ。
「前から思っていたが、リートは勉強が好きなんだな」
「勉強というか、人の知らないことを知るのが好きなんだ。でも向こうの世界じゃ、僕は落ちこぼれだよ。僕みたいな人間は役に立たない。役に立つのは協調性があって、人に反抗しなくて、いちいち疑問を差し挟まずに素直に言われたことをちゃんとやる人とか、てきぱきしててなんでもそつなく物事をこなす人とか、明るくて話すのが苦にならない人とか、そんなのだから」
 リートがそう言うと、ルイスは衝撃を受けたような表情になった。
「それならわたしも役に立たないな」
 そう言って考え込む表情になったルイスを見ながら、リートは思わず笑ってしまった。自分の世界に彼が来てしまったら、周りの人間と価値観がまるで合わず、さぞ大変だろう。だがルイスは自分と違って文武両道で、努力家で、その上優れた記憶力も持っている。彼の能力があれば、たとえ周りから孤立しても生計を立てるのに困ることはないだろう。
 そこまで考えて、リートは苦い気持ちになった。
 それに比べて、自分はいったいなんの役に立つというのだろう?
 自分にできることといえば、いつも頭の中でなにかを考えることだけだ。
「でもそう思うのは、学校がそういうところだからかも。学校には居場所がないから」
「学校が嫌いなのか?」
「嫌いなんてものじゃないよ。学校の話をするのもいやだ」
 リートは顔をしかめてそう言った。
 授業も教師も学校行事も、そして教室という空間も、学校という存在そのものがリートは嫌いだった。なにから何まで規則でがんがらめにされるし、自分が本当に教えてほしいことはなにひとつ教えてくれない。
 そう、なにひとつとして。
「もし向こうに帰れたとしても、学校には行きたくないな」
「行かなければならないのか?」
「国民の義務みたいなものだからね」
 リートがそう言うと、ルイスが理解に苦しむといわんばかりに眉をひそめた。
「国が強制的に教育するのか? それも変な話だな。そもそも全員が勉強する必要もないだろう。したい人間だけすればいい」
「でも、ミリィ様には勉強しろって――」
「ミリィは次期女王だからだ。責任ある仕事に就く人間は常に努力を怠らず、勉強し続けなければ」
「僕はそういうのは苦手だな」
「だが、それは勉強の本質じゃない。知りたいことを知るのが勉強だ」
 リートは目をまたたかせた。
 それならいつだって自分はしている。
 むしろ、それしかできないと言ってもいい。
 自分は知りたいことのためなら手段を選ばないし、いったん考えはじめると他人のことなどお構いなしだ。
 リートは恐る恐るルイスを見ながら言った。
「じゃあ、僕は勉強が好きってこと?」
 ルイスがリートを見つめ、ふっと微笑んだ。
「わたしは最初からそう言っているぞ、リート」
 そうだっけ、とリートは首を傾げた。
 自分は勉強が好き。そんなふうに思ったことはなかった。
(君は自分のいいところをまったくわかってないんだな)
 不意にミヒャエルに言われた言葉がよみがえる。
 自分は役に立たない。ずっとそう思っていた。だが自分はまだ、自分で思っているよりも、自分自身のことをよくわかっていないのかもしれない。リートはこの時初めてそう思った。
「こっちの世界はみんな学校に行くの?」
「行くのは貴族だけだ。それに位の高い貴族は、直接家庭教師を雇うことのほうが多い」
「ルイスはどっちだったの?」
「わたしは行かなかったんだ。大学には入ったが、それまでに必要なことはすべてメルヒオルに教わった」
「そうなんだ……」
 リートはルイスが羨ましくなった。だから彼には俗世間に染まったところがないのかもしれない。
「でも、まだ疑問の答えが見つからないんだ」
 リートはそう言いながら考え込んだ。
「どうしてエヴェリーンはだんだん神格化が進んで美化されるようになったんだろう」
 メルヒオルから聞いた史実のエヴェリーンに抱いた印象と、劇の中のエヴェリーン像が一致しない。それがリートの疑問だった。
 だが、まだその答えも出てないのに、また新たな疑問が出てきてしまった。
「国の歴史は常に、勝利者側の視点でしか物事を語ってくれない。それは国を支配する人間、つまり為政者の都合で決まるということだ。だからみにしてはいけない」
 その言葉を聞いた瞬間、リートのかすみがかっていた視界は急速に晴れ、輪郭がはっきり見えた気がした。それはまるで、雲隠れしていた月が夜空に姿を現したときにも似ていた。言葉の真偽を検討する必要もない。
 確かに彼の言うとおりだ。しかし一方では、なんだかルイスらしくない言葉だとリートは思った。
 彼は基本的に穿うがった見方をしない。自分のように疑ったりはせず、なんでも素直に信じてしまう人間なのに。
「メルヒオルがそう言っていたんだ。大学で講義を受けているときにそれを言ったら、教授に不快な顔をされたが」
 ルイスらしいな、と思ってリートは笑った。
「僕もそう思うよ。歴史はそのときの為政者の都合で作られる。でもそれが事実なら、エヴェリーンを神格化したほうが為政者にとって都合がいいってことになるけど……」
 いつの間にか、リートは自分の考えに没頭しながら話していた。自分の気持ちを言葉にするのは苦手だが、こういう話はいくらでも言葉が湧いて出てくる気がした。
「でも、エヴェリーンは力を暴走させて貴族を何人も死なせてる。かばう意味がよくわからない」
 ヴォルヴァを廃止させないため? そのためにエヴェリーンが同情されるように仕向けたのだろうか。
 この説明ではまだ納得できない。
 第一まだ材料が少なすぎる。材料が少ない状態で考えるのはとても危険なことだとリートは最近わかってきた。それでは間違った結論しか出ない。
「リヒトのように、ヴォルヴァを信仰の対象にしている人はいるの?」
「リヒト原理主義者はそうだ。だが、ほとんどの人間はヴォルヴァのことを信仰の対象にはしない」
「どうして?」
「教義でそう決まっているからだ。ヴォルヴァは信仰対象にしてはならないと」
「偶像崇拝は禁止ってこと?」
 偶像崇拝とは、目に見えない存在を目に見える形――例えば像や絵などに表して、それ自体をあがめる行為のことだ。
「褒められた行為ではないが、禁止されているわけではない。宗派によっても違いがあるし、現にこうやってリヒトは偶像化されている」
 ルイスはそう言ってペンダントを取り出した。銀色のぼうせいが光を反射して輝いた。
「リヒトガルテンの紋章は、偶像崇拝を避けるためにはちぼうせいになったといわれているが、わたしはそこまで厳格になることはあまり意味がないと思っている」
「ルイスは教典を一言一句正確に守ってるわけじゃないんだね」
「教典の教えを守るのは大事だ。だが、それより大切なのは、自分の頭で考えて理解し、その上で教義を実践することだ。盲目的に言われたことを実行することじゃない」
 そこまで言ってから、ルイスは手に持ったままのペンダントに視線を落とした。
「しかし、そう考えているのは、わたしとメルヒオルだけのようだ」
「そうなの?」
「わたし自身もよくわかっていないが、なにかが違う。言葉ではうまく言えないんだが」
 リートは首を傾げた。
 同じリヒト信者なのに、同じではない。それはどういうことだろう。
 信じているなら、皆同じような信じ方をしているものだと、リートは勝手に決めつけていた。
 信じるという行為にも、なにか決まりがあるのだろうか。これは正しい信じ方、間違った信じ方というようなものが。
 考え込む表情になったルイスを、リートは質問攻めにしたい衝動に駆られたが、今はエヴェリーンのことで頭がいっぱいだったのでやめておくことにした。これ以上疑問を増やしては、さすがに身動きが取れなくなってしまう。
 ユストゥスとエヴェリーンの研究が終わったら、ルイスとほかの信者の違いを分析して自分の納得のいく答えを見つけてみたい。リートはそう思った。