第63話 内通者

「あったよ」
「ありがとうございます」
 リートがハンカチーフを差し出すと、ルーツィアは大切そうに受け取った。
「まだ使っていたのか」
 ルイスが目を細めて言うと、ルーツィアが微笑んだ。
「ルイス様がわたくしに初めて贈ってくださった物ですから。大事な物なので、特別なときにだけ使うようにしているんです」
 特別なときにだけ。
 リートはうつろな気持ちでその言葉を聞いていた。
 大事なものなら、そもそも彼女は部屋にハンカチーフを置き忘れなかったはずだ。
 彼女はルイスに気づいてほしかったのだろうか。自分はそれを取ってしまった。
 だが、ルーツィアのもく通りルイスは気づいただろうか?
 それとも、気づいてくれるならどちらでもよかった?
 そもそも、これはすべて自分の考えすぎなのだろうか。
 しかし、それではこの出来事に説明がつかない。偶然にしては出来すぎている。
 わからない。いったい彼女はどういうつもりで、教典をあんな目につく場所に置いていたのだろう。
 自分の考えに没頭して歩いていたせいで、リートはルイスの背中にまともにぶつかってしまった。
「わ、ごめん」
「大丈夫か?」
 ルイスが心配そうにこちらを振り返る。ルイスの目を見たとき、リートは一瞬息を詰めた。心臓がどくどくと音を立てはじめる。
 言うなら今だ。でも、なんて言えばいい?
 しかも、ルーツィアがいる前で。いや、二人きりになっても言えるはずもない。
 婚約者である彼女が、ベギールデと通じているかもしれないなんて。
 リートが返事をしないので、ルイスが怪訝な表情になる。
「リート?」
 リートは無理やり笑みを浮かべた。
「……なんでもない。研究のことでいろいろ考えてただけ」
 なんでもない。この台詞を自分も言うはめになるなんて。
(違う。そんなわけがない。ルーツィアがディートリヒみたいに、ベギールデに内通しているなんて)
 彼女はきっとだれかに利用されているのだ。そうだ、そうに決まっている。
 ルーツィアを助けなければ。リートはそう思った。
 だがそれが事実だとしたら、なぜ彼女はだれにも言わずに、こんな回りくどい方法で知らせてきたのだろう。
 リートは、胸の裡に湧き上がるさまざまな疑念をひとまず打ち消した。
 今はそのことを考えるよりも、とにかくミヒャエルに会わなくてはならない。
 それも、ルイスには悟られないように。
 そんなことが自分にできるのか?
 だがやらなくては。
 リートはそう決意を固めた。

 会場に着くと、すぐにエミリアが三人に近寄ってきた。
「こんばんは、ルーツィア。そのドレス、よく似合っているわ」
 エミリアが笑顔でそう言うと、ルーツィアが恐縮したように頭を下げた。
「なにから何まで用意していただいて、ありがとうございます」
「いいのよ。あの時と同じことをしただけ」
 エミリアがそう言って片目をつむってみせると、ルーツィアが一瞬目をみはり、恐れ入りますとまた頭を下げた。
「式はいつ挙げるの?」
「来年の春に」
「ぜひ行きたいけど、わたしが行くと、みんな気を使って無礼講じゃなくなってしまうんでしょうね。残念だわ」
 エミリアがそう言うと、ルーツィアは目を伏せた。
「いえ、式はメルヒオル様に取り仕切っていただいて、二人だけで挙げようとルイス様と決めているんです。わたくしもルイス様も、騒がしいことは苦手ですから」
 エミリアは肩透かしを食らったように、目をまたたかせた。
「……そうなの」
「今から言っておくが、余計なことは考えるなよ、ミリィ」
 ルイスがくぎを刺すと、エミリアがむっとした顔で腕を組む。
「失礼ね。なにもたくらんでないわよ」
「エミリア」
 その時、背後からかかった声にリートたちが振り向くと、礼装姿のミヒャエルがそこに立っていた。
「遅いわ、ミヒャエル」
「すまない、仕事が立て込んでいて」
 そう言ってミヒャエルはエミリアに微笑んだが、その表情がリートにはいつもより硬いように思えた。
 ミヒャエルがそばにいたルーツィアに視線を向ける。
「やっとご挨拶できますね。ハーナル騎士団所属、ミヒャエル・フォン・シェーンドルフと申します」
 ミヒャエルがいつも通りの優雅さでお辞儀すると、ルーツィアもそれに応えて膝を折った。
「ルーツィア・フォン・シュネーベルと申します」
 二人の様子は、まるでよくできた映画の一場面のように洗練されていた。
「捜査にご協力いただき感謝します。部下がなにか粗相をしませんでしたか」
「いいえ、とても礼儀正しい方でしたから」
 ルーツィアが静かな口調で答えると、ミヒャエルは微笑を浮かべた。
「それならよかった」

 その時、二人の会話が終わったのを見計らったかのように、楽団の演奏が始まった。
 着飾った男女が次々にフロアに繰り出していく。
「ルイス、ルーツィアと二人で踊ってきたら?」
 さりげなさを装ってリートはそう言った。
 少々強引だが、方法はこれしかない。
 ルイスが突然なにを言い出すんだとばかりに眉をひそめる。
「リート、今は仕事中だ」
「じゃあ命令。ルーツィアと一曲踊ってくること」
「リート」
 ルイスが困惑した顔になる。ルーツィアも隣で驚いた顔をしていた。その成り行きを眺めていたエミリアが横から楽しそうに口を挟む。
「あらルイス、主人の命令に背くつもり?」
 ルイスはしばらく葛藤しているようだったが、リートとルーツィアを交互に見つめ、ため息をついた。
「行こう、ルーツィア」
 ルイスがすっと手を差し出すと、ルーツィアが淡く微笑み、指先をそっとルイスの手に重ねた。
(ごめん、ルイス)
 リートは心の中で謝った。
 一曲はだいたい七、八分だ。それだけあればミヒャエルにじゅうぶん事情を話せる。 しかし辺りを見渡しても、肝心のミヒャエルの姿は見当たらなかった。

「ミリィ様、ミヒャエルは?」
 エミリアが周りを見回して首を傾げた。
「変ね、さっきまで隣にいたのに」
 リートは人を避けながら、ミヒャエルを捜して会場を歩き回った。
 あれほど目立つ容姿をしているのだからすぐにわかるはずなのに、ミヒャエルの姿はどこにもなかった。
(まさか外に?)
 そう思ったリートは急いで会場を出ようとしたが、立ちはだかった影に体当たりしてしまった。
 謝ろうとして顔を上げたリートは、それがだれかわかって思わずつぶやいた。
「トリスタン……」
 黒の上下の礼服を着たトリスタンが、リートの身体を支えていた。
「走ると危ないですよ」
 リートは部屋から出られず、部屋の中央に連れ戻されてしまった。
 エミリアがほっとしたような顔でこちらに近寄ってくる。
「ありがとう、トリスタン。捕まえてくれたのね」
 エミリアがにやっと笑ってリートを見た。
「あなたも悪くなったわね。ルイスを巻いて抜け出そうするなんて。まあ、母の宴が退屈なのは事実だけど」
「そうじゃなくて……」
 早くミヒャエルを見つけ出さなければ曲が終わってしまう。
 エミリアはこの事は秘密にすると約束してくれたが、リートはうわの空だった。
 どうすればいい。どうすれば……。
 その時、リートはやっとミヒャエルの姿を見つけた。
 椅子に坐っているペトロネラの傍らで談笑している。
 リートはエミリアたちを置いて、ミヒャエルのほうに歩み寄った。
 歩いているあいだ、リートは会場の音楽も話し声もまるで気にならなかった。周囲のけんそうを別世界のことのように感じながら、リートはペトロネラとミヒャエルの前で立ち止まった。
「……ミヒャエル。話があるんだ」
 リートは単刀直入にそう言った。
 隣にいるペトロネラが、リートのしつけな態度に顔をしかめる。
 礼儀を欠いていることはわかっていたが、そんなことはどうでもよかった。今はそれよりもっと大事なことがある。
 ミヒャエルが困ったように笑う。
「今じゃないといけないことなのか?」
「どうしても今じゃないと駄目なんだ」
 リートはミヒャエルを見つめたまま、ぎゅっと片手を握りしめてそう言った。
 ミヒャエルはしばらく考えているようだったが、逃れられないと悟ったのか、ふっとため息をついた。
「申し訳ありません、王妃様。少しのあいだ失礼します」
「ちょっと、ミヒャエル――」
 ペトロネラが抗議の声を上げたが、ミヒャエルはそれには応えなかった。
 またペトロネラに嫌われてしまいそうだなと思いながら、リートはミヒャエルを伴って歩きだした。

 舞踏を終えて戻ってきたルイスとルーツィア、それにエミリアが困惑した顔でリートのほうを見ていた。
「リート」
「ちょっとミヒャエルと話してくるよ」
 リートはそう言うと、ルイスに屈むように手振りで示し、耳元で囁いた。
「ルイス、ルーツィアから目を離さないで」
「リート?」
 ルイスがいぶかしげな顔になったが、リートはこれで大丈夫だと思った。詳しく話している時間はない。
 それでも、ルイスは必ず自分の命令を忠実に実行するはずだ。
「こっちだ、リート」
 ミヒャエルにそう促され、リートはルイスたちを残してミヒャエルのあとに続いた。
「リート、待ってくれ」
 ルイスが追いかけようとしたが、ルーツィアがルイスの礼服の袖を指先で引っ張った。驚いたようにルイスが振り返る。
「ルイス様。二人だけでお話しできませんか」
「しかし今は」
 切実さを伴った表情で、ルーツィアがささやくように言う。
「お願いです。……大事なお話なんです」