第66話 ミヒャエルの過去

 ユーリエがふっとメルヒオルの前に現れる。
「ルイス様は宿舎の自室にお運びしました」
「ありがとう、ユーリエ」
 メルヒオルはそう言ってユーリエに微笑んだあと、応接用のソファにうなれて坐っているミヒャエルに視線を向けた。
「……ミヒャエル」
「わかっています。これからすべてを話そう」
「でも、それはルイスに話したほうが」
 リートがそう言うと、ミヒャエルは静かに首を振った。
「あいつはわたしの話を冷静に聞けないだろう。君たちから話してやってくれ」
「わたしから話すよ。それに、わたしも当事者の一人だったからね」
 メルヒオルがそう言うと、ミヒャエルがうなずいた。
「そうしてください」
「ユーリエ、君は戻りなさい。ゾフィーが心配している」
「でも」
 メルヒオルにそう促されても、ユーリエは心配そうな表情でリートのほうを見ていた。リートは心配ないという気持ちを込めて、無言でユーリエにうなずいてみせた。
 ユーリエはリートの意図を悟ったのか、それ以上はなにも言わず、静かに一礼して部屋を出ていった。
 ドアが閉まってから、ミヒャエルは向かい側のソファに坐っているエミリアのほうを見た。
「君はどうする?」
 しかし、エミリアの表情を見てミヒャエルはすべてを悟ったようだった。
「ああ、そうか。君は知っていたんだな」
「……知ったのは昨日よ」
 そう言ってエミリアは目を伏せた。
「ごめんなさい。宴のときからあなたの態度が気になって調べさせていたの。母はろくに調査をしていないと思ったから」
 ミヒャエルが静かに首を振る。
「いや、いつかわかることだった。なにも言わなかったわたしが悪い」
「じゃあ本当なのね。なにもかも」
「……ああ」
 エミリアはしばらくミヒャエルを見つめていたが、ソファから立ち上がった。
 扉の前で立ち止まり、エミリアはリートたちに告げた。
「わたしはもう行くわ。おやすみなさい」

 扉が閉まってから、リートはミヒャエルのほうを見た。
「ミヒャエル。本当に僕が聞いてもいいの?」
「君はどうしたい?」
 ミヒャエルにそう問われ、リートは黙り込んだ。
 知ってしまったらもう戻れない。
 すべてを受け止められるかもわからない。
 それでも。
 リートはさっきまでエミリアが坐っていた、ミヒャエルの向かい側のソファに腰を下ろした。
「聞くよ、全部」
 リートがミヒャエルの目をまっすぐに見つめてそう言うと、ミヒャエルが微笑んだ。そのまなざしの優しさに、リートは胸が苦しくなった。
 ミヒャエルがゆっくりと口を開く。
「すべては、わたしがルーツィアと出会ったことが始まりだった。彼女の父上――ラファエル様が亡くなっていることを知っているか?」
 リートはうなずいた。
「死因は自殺だ。そして、その原因を作ったのはわたしと、わたしの父だ」
 父、という言葉にリートは目を見開いた。
 ミヒャエルの身の上に関わる話を、リートは一度も聞いたことがなかった。
 リートは自分の話をするのは苦手だったので、てっきり彼もそうなのだと思って特に気にしていなかった。
 ミヒャエルの私的なことについて詮索する気はなかったし、もともとリートは、他人の個人的な話にさほど興味を抱いたことがなかった。
「わたしの父は、一言で言えばひどい人間だった。父親としても、夫としても……議員としては有能だったが、それだけだ。外に愛人を何人も作って、家に帰ってこないことはしょっちゅうで、そうする必要のあるときだけ、人前で善い夫を演じていた。母はそのことに気づいていたが、離婚しようとはしなかった。母は、結婚してすぐに両親を亡くしていて、頼るところがどこにもなかったんだ。わたしが物心ついた頃には、二人の仲は修復不能なまでに壊れていた。だがわたしとガブリエレは、両親の前では精一杯子どもらしく振る舞っていた。そうしていなければ、愛してもらえないとわかっていたからだ」
 リートはがくぜんとした。まだ年端のいかない年齢の頃から、ミヒャエルは自分を演じていたのだ。ずっと両親の顔色を窺って生きてきたせいで、きっと彼は人の心に入り込むのがうまくなったのだろう。
「わたしは物わかりのいい子どもを演じながら、内心では両親を軽蔑していた。だが一方では愛してもいた。父が死んでハーナルに入るまで、わたしはずっと父に認めてもらうために生きていた。学校で優秀な成績を収めて、父の跡を継いで議員になる。それ以外のことに興味はなかった」
 リートは信じられなかった。ほかのだれにも悟られないように笑顔で本心を隠したまま、父親に認められるためだけに二十数年を過ごしていたなんて。普通ならどこかで限界が来るはずだ。なのに、彼は優秀だったせいでそれができなかったのだ。
 ミヒャエルは淡々と話を続けた。
「自分の容姿が目を引くらしいことはわかっていたが、そんなことはどうでもよかった。貴族の世界では、見た目や肩書きが立派で、気の利いた会話ができる――そんなくだらないことでしか人を評価しない。わたしに近づいてくるのは、愛想良く振る舞いながら、心の中ではなんらかの思惑を抱えている人間ばかりだった。だから恋愛なんてするつもりはなかった。どうせ父が決めた相手と結婚することになる。それが一番安全で手堅く、自分も他人も傷つかずにすむ方法だと割り切っていた。だが、わたしは出会ってしまったんだ」
「それがルーツィア?」
 リートがそう言うと、ミヒャエルは自虐めいた笑みを浮かべた。
「出来の悪い恋愛小説みたいな筋書きだろう? 初めて彼女に会ったのは、成人してすぐの頃だった。最初は本気じゃなかった。わたしは愛なんて信じていなかったし、すぐにやめられると思っていた。恋愛に夢中になる人間は馬鹿だ――そう信じていた。だが、気づいたときには彼女なしでは耐えられなくなっていた。ただの遊びだと思っていたのに、いつの間にかわたしは恋に落ちていたんだ」
 それは無理もないことだとリートは思った。彼はずっと自分を押し込めて生きていたのだから。ミヒャエルはきっとルーツィアに出会って自分らしい感情を取り戻したのだ。ユーリエがリートと関わってから、少しだけ自分の気持ちに気づけたのと同じように。
「だが、彼女はフォンとは名ばかりの下級貴族で、シェーンドルフの家格とは到底釣り合わなかった。しかもラファエル様は、貴族でありながら医術に手を出した人間だと周りからはさげすまれていた」
 ミヒャエルの言葉にリートはうつむいた。
「ルーツィアからも聞いたけど、そんなの変だよ。人を救える技術を持ってるのに蔑むなんて」
「貴族が病人や死体に触れることは、貴族の権威そのものを脅かす。高貴な人間のすることではない。この世界ではそういうつまらない偏見があるんだよ、リート」
 メルヒオルの説明を聞いても、リートは納得できなかった。
 医師は人の生命を預かる重要な職業だ。リートの世界でも医師の地位は高い。医師の貢献なくして今の社会は成り立たなかっただろう。たとえそれが、政治のように多くの人に影響を与えるものではなかったとしても、その尊さは変わらないとリートは思った。
 ミヒャエルがまた口を開く。
「たとえ貴族でも、そんな人間の娘を父が認めるわけがない。だから言い出せなかった。わたしは父を失望させたくなった。だが、わたしがルーツィアとつき合っているという話は、すぐに大貴族たちの耳に入った。そこからルーツィアとラファエル様への嫌がらせが始まった。大貴族たちは、飛ぶ鳥を落とす勢いだったシェーンドルフ家を取り込むために、なんとかしてわたしに自分の娘を嫁がせようと競っていた。なのにそこにルーツィアが現れたものだから、面白くなかったんだ。彼らは遊戯感覚でシュネーベル家を潰そうとした」
 遊戯感覚という言葉にリートはぞっとした。
 面白くないから。邪魔だから。そんな理由で人を破滅に追いやろうとすることが、リートには信じられなかった。
「それで誤診をでっちあげたというのか」
 メルヒオルにミヒャエルがうなずく。
「ええ。陛下の妹君であるエリーザベト王女が亡くなられたのは、ラファエル様の誤診が原因だと。当時医局の監督官でもあった父は、ラファエル様がぎぬを着せられていると知っていたのに、ろくに調査させなかった」
 メルヒオルが瞼を閉じた。そうすることで、当時の光景を脳裏に思い浮かべているかのようだった。
「ヴォルフラムはわたしの話に耳を貸そうとしなかった。当時ヴォルフラムは王権派に属していて、家の繁栄のために、当時権勢を誇っていたローゼンベルク家に忠誠を誓っていた」
 ミヒャエルがうつむいた。
「父はさっさと消えてほしかったんです。ラファエル様にも、ルーツィアにも。大貴族の娘とわたしを結婚させ、自分の勢力を拡大させる。父の頭にはそれしかなかった」
「それで、そのあとどうなったの?」
 リートは恐る恐る聞いた。最後に待っているのが悲劇だとしても、リートはその過程を克明に知りたかった。
「決定的な証拠がなく、罷免にはならなかったが、ラファエル様は王宮を騒がせた責任を取って辞任された。そしてその数か月後に急逝されたんだ。表向きは病死ということになっているが、本当は自殺だ。あの方は自分の医術道具で命を絶った」
「どうして知ってるの?」
「見たからだ。シュネーベル家の召し使いがわたしに連絡してきて、わたしはすぐに駆けつけた。そこで見たんだ。血まりの中で父親の遺体を抱えるルーツィアの姿を」
 リートはその様子を想像してぞっとした。いったいミヒャエルはどんな気持ちでこの光景を見たのだろう。
「なのに、ルーツィアはわたしのことを責めようとしなかった。なにもかも仕方のなかったことだと、そう繰り返した。だからわたしは、罪悪感から彼女を愛していると言ってしまったんだ」
 ミヒャエルが苦しげな顔になる。
「その言葉を、一度も彼女に言ったことはなかった。わたしは自分の都合だけでそう言ったんだ。そうしないと彼女まで失ってしまうと思った。彼女が生きていてくれるならわたしは、彼女のためならなんでもしようと思った。たとえ昔のようには戻れなくても、お互い傷つくことになっても」
 ミヒャエルは荒くなった呼吸をなんとか整え、また話しだした。
「何度も家を出ていこうと思ったが、わたしは父に愛されたいという望みを捨てきれなかった。父がわたしを政略の駒としてしか見ていないことはとっくにわかっていたんだが。わたしは父が改心してくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。永遠に自分の望みが叶うことはないのだという事実を受け入れられなかった。それに、母とガブリエレを置いてわたしだけが自由を選ぶなんて――そんなことはできなかった」
 リートは無意識に唇をみしめていた。
 ミヒャエルは優しすぎる。
 ルーツィアのことだけでなく、母親と妹のことまで自分一人で背負うなんて。
「そうこうしているうちに、今度は父が亡くなった。わたしはやっと父から解放された。だが、わたしはルーツィアを迎えに行けなかった。父を止められなかったのに、彼女より家を選んだ自分に、今更結婚する資格なんてないと思った。それにわたしは怖かった。わたしのせいではないと言いながら、彼女は本当はわたしのことを恨んでいる。そのことを知るのが怖かった。ルーツィアと一緒にいるかぎり、わたしは自分の犯した罪を死ぬまで突きつけられ続ける。それでも彼女を愛し続けるなんて――わたしにはできなかった」
 リートは当然だと思った。まだ二十歳かそこらで、そんな覚悟ができる人間がどれだけいるだろう。しかも周りに頼れる人間がだれもいない、一人きりの状態で。
「本当なら、もう二度と彼女とは関わらないようにすべきだった。だがわたしは、ルーツィアから離れられなかった。彼女に死んでほしくなくて、縛りつけていたんだ。わたしがいれば、少なくともルーツィアは死なない。愛なんかじゃない。すべて打算だった」
 ミヒャエルは自嘲するように笑った。
 こんなときでも笑いながら自分の罪を告白するミヒャエルの姿を見て、リートは苦しくなった。彼は傷ついていても笑うことしかできない。いや、傷ついているからこそ、笑うことしかできないのだ。
「別れたのは、ルーツィアがルイスと出会ってからだ。だが、その後もわたしはルーツィアのことを忘れられなかった。まさか彼女も同じことを考えていたなんて、わたしは認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。ルーツィアがまだわたしを愛しているなんて――うぬれているだけだと自分に言い聞かせて、わたしは彼女から逃げ続けた。たとえそれが事実だとしても、わたしよりルイスといるほうが、ルーツィアは幸せになれると信じていた」
 ミヒャエルは顔の前で祈るように指を組んだ。リートたちに話しているというより、自分自身にそう言い聞かせているかのようだった。
「今だってそう思っている。わたしではルーツィアを幸せにできなかった。父親に逆らうこともできず、大貴族たちから彼女を守れなかったわたしがだれを幸せにできる? そんなことはありえない。一緒にいても、わたしはいつかルーツィアを殺していた」
 ミヒャエルが顔をゆがめ、両手で覆う。
「わたしはそういう人間なんだ。わたしが殺したんだ。わたしの弱さが巡り巡って彼女を死に追いやった。……わたしはだれも守れない」
 部屋が完全に沈黙しても、ミヒャエルの痛切な声はいつまでも反響して部屋に響いているかのようにその場を支配し続けた。
 だれもなにも話さない。
 リートはかける言葉が見つからなかった。
 そんなものは、どこにもあるはずがなかった。自分の世界にも、この世界にも。
 それを破ったのは、ドアをノックする音だった。メルヒオルの秘書が滑るように部屋に入ってくる。
「お話中失礼いたします、メルヒオル様。ハーナル騎士団長がお見えになっていますが、お通ししてもよろしいでしょうか」
 メルヒオルがうなずく。
「ああ、通してくれ」
 部屋に入ってきた男の姿にリートは見覚えがあった。短く刈った銀髪に青灰色の瞳。 ミヒャエルを救うために、エミリアと王宮の門の前にいたときに出会った。
 エミリアに苦言を呈することを躊躇しない騎士。
「……団長」
 ミヒャエルが即座にソファから立ち上がった。リューディガーが静かな口調で言う。
「来い、ミヒャエル。アルフォンスからだいたいのことは聞いたが、おまえの話も聞かねばならん」
「リューディ、明日にしてやってくれないか。今日はもう遅い」
 メルヒオルがそう言うと、一転してリューディガーは険しい顔でメルヒオルを睨みつけた。
「わたしに指図するな、メルヒオル。ミヒャエルはわたしの部下だ。貴様の知ったことではない。行くぞ」
 しかし、ミヒャエルはその場を動かなかった。彼の視線の先にはメルヒオルがいた。
「あなたにお訊きしたいと思っていたことがあるのですが」
 メルヒオルが穏やかな目でミヒャエルを見つめた。
「なにかな」
「なぜルイスをリートの騎士にしたんです?」
 メルヒオルは考えるように少し首を傾けたが、ふっと笑って言った。
「さあ、なぜだろうね。彼に会う前は君を考えていたんだが、会ってみて、なんとなくルイスのほうがいいだろうと思ったんだよ」
「なんとなく、ですか」
「この答えでは不服かな」
 ミヒャエルが静かに首を振る。
「いいえ。ルイスでよかったと思います。わたしならきっと、彼のように真正面からリートにぶつかれなかった。もっといろいろ考えて、あの手この手でなんとか信用させようとしたでしょう。ルイスだからリートは信用した。わたしはそう思います」
 今度こそミヒャエルは上司の元に歩み寄り、扉の前で一礼した。
「失礼します」
 扉が閉まり、部屋にはリートとメルヒオルだけが残された。
 それはまるで、この世界に来て初めてこの部屋を訪れたときのようだった。
 また独りになってしまった。
 リートはなぜか、そう思った。