第70話 むなしい言葉

「大丈夫ですか?」
 物思いに耽っていたリートはその言葉ではっとした。ユーリエの薄紫色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
 初めて会った日に、ルーツィアにもそう訊かれたことをリートはふと思い出した。
 葬儀の翌日、リートは聖殿に来ていた。特に目的があったわけではなかったが、なんとなく自分の部屋にいたくなかったのだ。一人でいたら、落ち込んでどうにかなってしまいそうだった。
 いつも一人のほうがいいと思っているのに、自分は勝手な人間だ。そう思いながら、リートは無理やり口元を上げた。
「大丈夫だよ、僕は。ルイスやミヒャエルやミリィ様に比べれば」
「つらいという気持ちは、リート様も同じなのでは?」
「……そうだね。つらいよ」
 ルーツィアのことは好きだった。彼女はいつも自分に優しく接してくれた。
 それなのに、自分はなにもできなかった。
 だから、こんなにも苦しい。
「……あの時、どうして助けてくれなかったの?」
 リートがそう言うと、ユーリエがおびえた顔になった。
 リートは自分の口調が詰問めいていたことに気づいて反省した。
「ごめん。責めてるわけじゃないんだ。ただ知っておきたくて。聞いても、君を恨むなんてことはしないから。約束する」
 リートが真剣な口調で言うと、ユーリエはためらいがちに目を伏せていたが、やがて口を開いた。
「ルーツィア様を治すのは不可能でした。ひんの状態では、そもそも治しようがないのです」
「……どうして」
「わたしの力の負荷に身体が耐えられないからです。それにわたしだけではなく、本人の強い意志がなければ、傷が治っても意識が戻ることはありません」
「ルーツィアは、生きたいと思ってなかったの?」
 リートは愕然としながら言った。
 ユーリエが小さくうなずく。
「ルーツィア様は、ご自分が生きることよりも、ミヒャエル様に気持ちを伝えることを選ばれたのです」
 文字通り、ルーツィアは命懸けでミヒャエルに伝えたのだ。
 自分の命と引き換えに伝えたのがなぜあの言葉だったのかは、リートにはよくわからなかったが。
「リヒトの力は万能ではありません」
「……そうだね」
 そのことはユーリエから聞いていたのに。
 リヒトの力は、物語のような奇跡を起こしてくれるものではない。
 リートはその意味をまるでわかっていなかったことに初めて気づかされた。

 聖殿から戻ると、部屋の前に立っていた侍女が一礼して近づいてきた。
「どうした。来客か?」
 ヴェルナーが問うと、侍女がうなずいた。
「ガブリエレ様がいらっしゃっています」
「ガブリエレ様が?」
 驚いてヴェルナーが扉を開けると、応接用のソファに腰掛けていたガブリエレが立ち上がり、硬い表情のまま二人にお辞儀した。
「御機嫌よう、リート様、ヴェルナー」
 彼女に会うのは、ルーツィアの葬儀以来だった。
 侍女が出した紅茶にも手をつけず、ガブリエレはいきなり切り出した。
「兄を酷い人間だと思っているんでしょう?」
 リートがなにも言えずにいると、ガブリエレはまた口を開いた。
「兄は悪くありません。兄はわたくしと母のためにルーツィアを諦めたんですもの」
「ルーツィアのこと、あなたは知ってたんだね」
 リートがそう言うと、ガブリエレは静かにうなずいた。
「ええ、もちろん知っていました。兄は本当に彼女のことが好きでしたから。でも、ラファエル様が亡くなってから兄は変わりました。数年前に母が病気で亡くなってから、兄とわたくしは住んでいた屋敷を売って今の家に引っ越したんです。その時に兄は、父に仕えていた召し使いを全員解雇してしまって、身近にはわたくし以外だれも人を寄せつけなくなりました」
 そうだ。だからあの家には召し使いがいないのだ。
 最初に彼の家に招待されたとき、リートはそのことを疑問に思った。
 今となっては、そのことがもう遠い昔の出来事のように思えた。
「昔から兄は、本当に思っていることはなにも言わないんです。だれにも本心を打ち明けず、笑顔ですべてを覆い隠してしまう。でも兄は、わたくしと母のために無理やり大人にならなければならなかったんです」
 無理やり大人になる。それは、精神状態が子どものまま大人を演じるということだ。
 リートには大人になるということがどういうことなのか、まだよくわからなかった。
 だがもし仮に、幼虫がさなぎになったあと、羽化してちょうになるように精神が大人になっていくのだとしたら、ミヒャエルは長いあいだ、蛹のまま蝶のふりをしている状態だったのだ。
 それは、とてもつらくて苦しいことのようにリートには思えた。
「でも兄がそうしてくれたから、父が亡くなったあともわたくしたちは何不自由なく暮らせていたんです。それをわかっていただきたくて。兄はずっと罪悪感に苦しんできたんです。罰ならじゅうぶん受けています。仕事ばかりしてほとんど休みを取らないのも、婚約するまで特定の恋人を作らなかったのもそのせいです。どうか兄を責めないで」
「でもミヒャエルはルーツィアに気持ちを伝えなかった。それでルイスが傷つかなきゃいけないのは変だ」
「なら、兄がルイス様から、ルーツィアを奪えばよかったとおっしゃいますの?」
 ガブリエレに険しい視線を向けられ、リートは口ごもった。
「それは、そうじゃないけど……」
 そんなことをルーツィアは望んでいなかっただろう。
 ミヒャエルがそんなことをしたら、ルーツィアはもっと傷ついたはずだ。
 だからきっと彼女は、だれにもなにも言わなかったのだ。
 どちらかを選ぶなんて、そんなことはしたくなかったから。
「リート様や王女やルイス様に会うようになってから、兄はずいぶん変わりました。だれかを家に呼ぶなんて思いもよらないことでしたし、あんな楽しそうな兄は久しぶりに見ました。わたくしはいつも、兄のためになにもしてあげられないんです」
 ガブリエレがそう言って、リートの手をそっと取った。
「兄は悪くないんです。ただ、いつも自分の感情より先に、頭で答えを出してしまうだけ。お願いですから、兄を一人にしないでください」
 ガブリエレが退出してから、リートはソファにうつ伏せに寝転がった。
 なぜ、好きなのにうまくいかないのだろう。すれ違ってばかりなのだろう。
 それとも、好きだからこそそうなってしまうのだろうか。
 わからない。
 どんな事象より、人の気持ちが一番わからない。
 リートはそう思いながら瞼を閉じた。

「ルイス様の調書です」
 アルフォンスから差し出された書類を、礼を言ってからミヒャエルは受け取った。
「あの人の記憶はこんなときでも正確ですよ。怖いくらいに」
「そういう奴だからな」
 苦い表情でそう語るアルフォンスに、ミヒャエルは微笑んだ。
「ありがとう、アル。なにも訊かずにいてくれて」
 アルフォンスがミヒャエルから目を逸らし、口ごもる。
「……わたしはなにも」
 ミヒャエルはその様子を見て少しだけ表情を緩めた。
 アルフォンスはハーナルに入ってきたときから、真面目だがあいきょうがなく、誤解を招きやすい人間だったが、彼のそういう不器用なところがミヒャエルは気に入っていた。
「あの、ミヒャエル様」
「どうした?」
 アルフォンスは言おうかどうか迷っているようだったが、また口を開いた。
「ガブリエレがわたしのところに来たんです。部下ならなんとかして助けろと怒られました」
「それは気にするな。ガブリエレは――」
「わかっています。わたしにはどうすることもできないと断りました」
 そう言ったあと、アルフォンスがじっとミヒャエルを見つめた。
「ガブリエレはいつも、あなたのために茶会や社交界に出て、情報収集していたんですね。大貴族の動向を探るために」
「……わたしの下で働くのが嫌になったか?」
 ミヒャエルのわざと突き放すような問いかけに、アルフォンスは答えなかった。
「……一言だけ言わせてください」
 アルフォンスの濃い青色の瞳が、真摯さを湛えてミヒャエルを見つめた。
「たとえあなたの過去がどうであろうと、わたしがあなたを尊敬する気持ちに変わりはありません」
「アル――」
「失礼します」
 出過ぎたことを言ったと思ったのか、アルフォンスは礼をすると足早に部屋を出ていってしまった。
 扉が閉まると、ミヒャエルはため息をついた。
 自分は妹だけでなく、部下にまで気を使わせている。
 だれかが自分のことを思ってかける言葉の一つひとつが、ミヒャエルには呪いのように感じられた。言われれば言われるほど、言葉が自分の心を固く縛って、身動きが取れなくなっていく。そのことにもう疲れ果てていた。
 もう自分のことは放っておいてほしい。
 だれとも関わり合いになりたくない。
 一人になりたい。
 他人の言葉を素直に受け取れない自分は、酷い人間だと思う。
 だがミヒャエルは、彼らの気持ちを受け止めることがどうしてもできなかった。
 酷い人間だとののしられたほうがマシだった。
 ルイスに胸倉を掴まれ、壁に叩きつけられたときのほうが、よほど自分は――。
 そこまで考えてから、ミヒャエルは違うと思った。
 ルイスはミヒャエルを責める言葉をなにひとつ口にしなかった。彼はミヒャエルを通して、その背後にある不条理そのものに対して憤っていた。なぜこんなことになるのか、なぜルーツィアだけが死ななければならなかったのかと。
 ルイスが自分の部屋に来たときに言われた言葉が、今もミヒャエルの心の片隅に引っかかっていた。
(おまえは本当は、自分のことなんてどうでもいいと思っているんだ)
 あの言葉の意味が、ミヒャエルにはよくわからなかった。
 自分はいつだって自己中心的に生きていた。愛していないと言われても、最後までルーツィアのために行動するルイスとはまるで違う。
 愛する人間を失ってもなお、彼の心からはまっすぐさが失われることがない。
 その事実が、ミヒャエルの心を屈折させていた。
 自責感の波に押し流されそうな心をどうにか保ち、ミヒャエルは立ち上がった。
 自分がしでかしたことの責任を取らなければならなかった。

 部屋に通されると、ミヒャエルの姿を認めたエミリアが椅子から立ち上がった。
「すまない、急に」
 ミヒャエルがそう言うと、エミリアは顔をうつむけた。
「……いいえ、気にしないで」
 椅子に掛けたミヒャエルは、改めて部屋の中を見渡した。
 エミリアの部屋を彩る青と金の調度品。それが彼女のおもい人の瞳の色だと、初めてこの部屋に入ったときからミヒャエルは気づいていた。
 レーネがれた茶には手をつけず、ミヒャエルはエミリアに向き直った。
 この決心が鈍らないうちに、早く言ってしまいたかった。
「……エミリア。婚約は破棄させてほしい」
 いつもの自分なら軽く世間話をしてから本題に入った。だが、そんなものは自分と彼女のあいだには不要だった。もともと、そんなものを必要だと思ったことがミヒャエルは一度もなかった。ただいつも、世間の基準に合わせていただけだった。
 エミリアはなにを言われるか、予想がついていたようだった。
「……わかったわ。大丈夫よ。わたしがいやだと言えば、父も母も折れてくれてると思うし」
 ミヒャエルは下を向いた。
「それはできない。これはわたしの落ち度だ。わたしから陛下と王妃殿下に――」
「それで通用すると思う? あなたの言い分で母を納得させられるの?」
 エミリアの問いに、ミヒャエルはなにも答えられず、押し黙るしかなかった。それが不可能なことは、ミヒャエル自身が一番よくわかっていた。
「でもね、ミヒャエル。わたしはこのまま結婚してもかまわないと思っているわ。あなたがわたしを好きでも、好きでなくても」
 いつか自分がエミリアに言った言葉をそのまま返され、ミヒャエルはまた言葉に詰まった。
「君は本当にそれでいいのか?」
「だってわたしたち、きっとそれなりにうまくやれるでしょう?」
 どこまでも明るい表情を崩さないエミリアに、ミヒャエルは顔を歪めた。
 彼女はどんな事態になろうが、ミヒャエルを頼らない。
 自分一人で結論を出してしまう。
「君はひどい。君が泣いてすがったなら、わたしは言い訳できたのに。……君を愛していると言えたのに」
 いつもそうやってミヒャエルは他人につけ込んできた。相手の望みに応えることで、優しい人間を演じることで、傷つかないように自分を守ってきた。
 そんなミヒャエルの様子をエミリアは黙って見つめていたが、静かに口を開いた。
「ミヒャエル。人を傷つけないために愛していると言うのはやめて」
 厳しい口調とは裏腹に、エミリアのまなざしは優しかった。
「愛しているから、愛していると言うのよ。……わたしは言えなくなってしまったけど」
 ミヒャエルは今度こそ言葉を失った。自分のしてきたことの罪の重さを、この時彼は初めて自覚した。
 話は終わりだというようにエミリアが椅子から立ち上がり、ミヒャエルに背を向ける。ミヒャエルはとっさに呼び止めた。
「エミリア」
 エミリアは立ち止まったが、振り返らなかった。
「わたしはなにかを手に入れるためにだれかに縋ったりしないわ。これから先もずっと」
 エミリアはそう言い捨てると、レーネにミヒャエルを見送るように告げてから、寝室に消えた。
 扉が閉まる音が響いたとき、ミヒャエルはすべてが終わったことを悟った。
 状況はなにも変わっていない。だが、自分たちの関係は壊れてしまった。
 しばらくのあいだ、ミヒャエルはその場に無言でたたずんでいた。
 レーネが気遣わしげにミヒャエルのほうを見ていたが、今のミヒャエルは彼女に言葉をかける余裕すら持ち合わせていなかった。
 なにかに追い立てられるように、ミヒャエルは部屋を出た。
 背後で扉が重々しい音を立てて閉まる。その途端、ミヒャエルの喉から乾いた笑い声が漏れた。視界を片手で覆い、その場にずるずると崩れ落ちる。
 今更だれの視線も気にならなかったが、幸い廊下にはだれもいなかった。
 自分の愚かさがしくて仕方ないとでもいうように、ミヒャエルは笑い続けた。
 そうしていなければ、この虚しさには到底耐えられそうにもなかった。
 だれもいない廊下で、ミヒャエルの指にめられた銀の指輪だけが、彼を見守るようにいつまでも淡い光を放ち続けていた。