庭園の端に広がる湖の土手に、リートは腰を下ろした。
この数日、リートは時間があればずっとここで物思いに耽っていた。部屋にいるのは息が詰まったし、良くない感情に囚われて抜け出せなくなってしまいそうだったからだ。
膝を抱えて座り込み、湖面を見つめながらリートは考え込んだ。
事の次第をヴェルナーに告げたとき、ヴェルナーは当惑した様子だったが、すぐに了承してくれた。
クラウスとルイスのやりとりを思い出すたび、リートは胸が痛かった。
傷つき、失望し、落胆し、自分の無力さに打ちひしがれる。そんなことはルイスには似合わない。
彼はいつだって一生懸命で、まっすぐだった。それなのに、これからはずっとやり場のない思いを抱えて過ごさなければならないなんて――。
そこまで考えてから、リートはふと思った。
(僕はきっと、ああいうふうになりたくなかったからこの世界に来たんだ)
自分の望みはきっとそれだった。
自分がなにを望んでいるのかと問われたとき、リートは答えられなかった。
だが、きっとこれが答えだったのだ。
向こうの世界に馴染めないこと。
だれにも理解されず、孤立しているということ。
自分はずっと、その事実を直視することを避けていた。
現実を受け入れることから逃げていた。
ルイスの姿はきっと、そう遠くない未来の自分なのだとリートは思った。
(でも、わからないよ。どうすればよかったのか)
どうすれば苦しまずにすんだのだろう。
ルイスのように、まっすぐに生きられたらいいと思っていた。だが、それでなにもかもうまくいくわけではなかった。
ルーツィアはだれにも助けてと言えずに死んでしまった。
ルイスはそのことに気づかなかった。クラウスの言うとおり、それはルイスのせいなのだろうか。
――そんなわけない。直接の原因を作ったのはベギールデだ。
でも、それだけじゃない。
では、彼女を迎えに行けなかったミヒャエルのせい?
ミヒャエルと婚約したエミリアのせい?
彼女に嫌がらせをした大貴族たちのせい?
わからない。
本当のところは、ルーツィアに訊いてみなければわからない。
人は、いつもなにかのせいにしたがる。
昔から、リートはそう思っていた。
両親もそうだ。同級生たちも、教師も、電子紙芝居のなかの大人たちも。
起きたことに対してあとからああだこうだと理由をつけたがるが、その根本的な原因については深く考えてみようとはしない。自分を省みることもない。
本当はなにがいけなかったのか、なにを見落としていたのか、なにをわかっていなかったのか。そういうことはなにも考えない。
そうすれば、責任から逃れられるからだ。他人事にできるからだ。
一応筋の通る理屈をつければ、頭を納得させられる。もうあれこれ考えずにすむ。
そうやってひとしきり騒いだあとで、またなにごともなかったかのように日常に戻っていく。
そして、すべてが忘れ去られていく。その繰り返し。
だが、そんなことに意味はない。
今の自分にできることはひとつだけだ。
この痛みを受け止めること。
痛みを受け入れず、避けようとすればするほど苦しくなる。そのことにリートはライナスを亡くしたときに気がついた。
ただ感情的になったり、無感情な計算機のようになったりして、苦しみや痛みをすべてなかったことにするような人間には、もうなりたくなかった。
ルーツィアは、こんなことになったのは、すべて自分のせいだと思っていたのだろうか。リートはふとそんなことを思った。本当はミヒャエルが好きなのに、なにも話さずにルイスと一緒にいた自分が悪いのだと。
(ごめんなさい)
彼女はなにかあるたびに、いつもそうやって謝っていた。
彼女はずっと罪悪感を抱いて生きていたのだろうか。
だが、ルイスは真実を聞いても、一方的にルーツィアを詰ることはしなかったはずだ。彼女が死んだあとも、ミヒャエルに葬儀に出てほしいと頼む彼が、そんなことをするはずがない。きっとルーツィアのために、できるかぎりのことをしてくれたのに。
だが――ユーリエの言うことが本当なら、そこまでしてルーツィアは生きたいとは思っていなかったのだ。
(でも、生きていてほしかった)
過去になにがあっても。
たとえ、ルイスを傷つけることになっても。
ミヒャエルと一緒に生きていけなくても。
打ち明ける機会は何度もあったはずなのに、彼女は話そうとしなかった。
(あなたがいなくなるほうが、二人は悲しむのに)
どうして彼女にはそれがわからなかったのだろう。
(……あなたは優しすぎたんだ)
もっと自分のために、だれかを頼ってもよかったのに。
彼女はいつも他人の心配ばかりしていた。
初めて会ったときに、緊張している自分に声をかけてくれた。
つたない話を嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。
なのに、自分はルーツィアを助けるためになにもできなかった。
そのことが、ただただ苦しかった。
「リート」
柔らかな声が頭上から降ってくる。
見上げなくても、それがだれかリートにはわかっていた。
「……ミヒャエル」
そこにはいつもの穏やかな笑みを浮かべた、制服姿のミヒャエルが立っていた。
ミヒャエルはリートの隣に腰を下ろした。
彼が自分と同じように地べたに坐るのは、なんだか違和感があるとリートは思った。
彼は華麗な装飾が施された椅子に坐っているのが一番似合っているのに。
「君がここにいるとエミリアから聞いたんだ。エミリアが心配していたぞ」
リートは最近エミリアに会っていなかった。エミリア自身も、勉強と父親の政務の手伝いで忙しいようだった。
自分がルイスにした仕打ちを、エミリアはどう思っているのだろう。
それを知るのがいやで、自分はエミリアを無意識に避けていたのかもしれないとリートは思った。
「僕は恩知らずなのかな。必要なときだけ頼って、そうじゃなくなったらクビにするなんて」
「そんなことはないさ。今のあいつでは君を守れないかもしれない。聖殿で会った相手には万全の状態でも負けたんだ。それに、君はあいつに余計な負担をかけたくなかったんだろう?」
リートは自嘲ぎみに笑った。
ミヒャエルはいつも自分の味方でいてくれる。欲しい言葉をくれる。
だが、そうやって自分で自分を正当化していただけなのかもしれないと、最近リートは思うようになっていた。
「変だよね。そんな心配するなんて。余計なことは考えず、ただ彼に守ってもらえばいいのに……でもできないんだ」
リートは考えながら言った。
「たぶん僕ら、騎士と主人っていうには近づきすぎたんだ。僕は、彼が悩んでる姿をこれ以上見たくない。彼に傷ついてほしくないんだ」
そこで言葉を切って、リートはうつむいた。
「……一緒にいるのはつらい」
そう口に出してから、リートはふと、前にもこんなことがあったなと思った。
あれはいつのときだっただろう。
ライナスの墓に行ったときだとリートは思い出した。
(わたしはどこにも行かない。君のそばにいる)
あの時は、自分の愚かさをルイスに突きつけられている気がしてつらかった。
だれかにそばにいてもらう価値など、自分にはないと思った。
だが、今は違う。
「君がそう思うのは、ルイスに心を許しているからだ」
まるで自分の心を読んだかのように、ミヒャエルが微笑みながらそう言った。
リートは一瞬目を見開いたあと、またうつむいた。
「そっか。僕は、いつの間にかルイスのことを好きになってたんだね」
(全然気づかなかった。これが好きってことなんだ)
今まで他人のことにはまったく興味がなかったのに。
だれかと親しくなったことも一度もなかったのに。
いつも自分は、自分の本当の気持ちになかなか気づけない。
「でも、人を好きになるってつらいね」
普通に人を好きになるだけでこんなにもつらいのに、最愛の人を失った二人はどれだけつらい思いを抱えているのだろう。リートは想像もつかなかった。
「ミヒャエルのことも、ちゃんと好きになれたらよかったんだけど」
「君はわたしを好きになってくれたじゃないか」
「でも、そういう人はたくさんいたでしょ? 僕もその人たちと同じだよ。ミヒャエルの外側に惹かれたんだ」
そう言ってから、リートはミヒャエルのグレーの瞳をじっと見つめた。
「あなたが、僕の欲しいものを全部持ってるように見えたから。ミヒャエルの真似をすれば、人の中にいても傷つかずに振る舞えるんじゃないかって、そう思ったんだけど」
「幻滅したか?」
ミヒャエルの問いかけに、リートは苦く笑った。
「本音を言えば、ちょっとね。でも、それは僕が勝手にそう思っていただけだから。自分の願望をミヒャエルに投影してたんだ」
リートはミヒャエルから視線を切り、静かに凪いだ湖面を見つめた。
「ミヒャエルだって人間なんだから、傷つくことがあるはずなのに、僕はミヒャエルが傷つかずに全部巧く躱せる人だと思ってた」
リートはまたミヒャエルの顔を見た。
「ごめんね、ミヒャエル」
ミヒャエルはしばらく黙っていたが、湖面に視線を向けながら答えた。
「なにを言われても動じない人間は、わたしのように躱そうとしたり、そつなく振る舞おうとしたりはしないさ。そういう人間は、傷つくのが怖いとは思っていない」
「ミヒャエルは、傷つくのが怖かったの?」
「ああ。理由は君と違うかもしれないが」
そう言ってから、ミヒャエルがためらいがちにまた口を開いた。
「君は、わたしの話を信じたのか?」
「嘘だったの?」
リートがそう言うと、ミヒャエルは静かに首を振った。
「いや、そうじゃない。だが、わたしが自分に都合のいいように事実を歪めて語っている可能性はあるだろう?」
リートは苦笑した。
彼と言う人は、自分より疑り深い。
「ミヒャエルがそう思っているなら、だれがなんと言おうとそれが事実だよ」
リートはそう答えた。
「前にルイスに言われたんだ。君がそう感じているなら、それはそういうことなんだって。それで思ったんだ。自分の感じたことや考えたことを、自分が一番信じてあげなきゃいけないんだってこと」
それからリートは、自分の気持ちをごまかすのはやめた。
自分の気持ちを否定してばかりで、信じられなかったから苦しかったのだ。
すべてを疑っていては、前に進めない。
いつだって、物事はなにかを認めるところから始まるのだ。
「ミヒャエルはむしろ、自分に厳しすぎるよ。だからそういう意味では信じてないかな。あなたは、自分のことを悪く言いすぎてると思うから」
ミヒャエルが目を伏せ、静かに息を吐いた。
「……君はお人好しだな、リート」
