第82話 愛がなくても

 ルイスと別れて部署に戻った瞬間、騎士たちの視線が一斉に自分に集中したので、ミヒャエルは当惑した。しかし原因はすぐにわかった。
 自室の前に、トリスタンが直立不動の姿勢で立っている。
 それが意味することはひとつだった。
 トリスタンが扉を開け、問答無用でミヒャエルを部屋の中へと促す。
 これではまるで自分が取り調べを受ける人間のようだと思いながら、ミヒャエルは部屋に入った。
 背後で扉が閉まると、応接用のソファに腰掛けていた人影がさっと立ち上がり、ミヒャエルのほうを向く。ミヒャエルの前で、エミリアがいたずらが成功した子どものような顔で笑っていた。
「びっくりした?」
 彼女の笑顔を見た途端、ミヒャエルは自然と口元を緩ませていた。
「……ああ、驚いた」 
 意識せず笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。

 エミリアは、手に持っていた白い封筒を机の上に置いた。
 封筒には、リヒトガルテンの国章である、はちぼうせいの刻印が入った赤いふうろうがされている。
「婚約式の日程が変更になったから知らせに来たの。詳細はここに書いてあるわ」
 ミヒャエルは手紙には手を触れず、探るようにエミリアを見た。
「わざわざそれを伝えに?」
 エミリアが首を傾げてみせる。
 その拍子に、ミヒャエルが贈った銀色の耳飾りが揺れた。
「婚約者に会うのに、いちいち理由がいるの?」
 それはいつも自分が女性に言うような口説き文句だったが、彼女が言うと、どこまでも率直な言葉に聞こえるから不思議だった。
 ミヒャエルがどう答えたものかしゅんじゅんしていると、エミリアがふふっと笑った。
「うそよ。実は、一度ここに来てみたかったの」
「わたしの部屋に?」
 エミリアは立ち上がると、部屋の中をおもむろに見回した。
「だって、あなたはわたしの部屋に二度も入ったことがあるのに、わたしがあなたの部屋に入ったことがないのは不公平でしょう? でも、ずいぶん殺風景なのね」
「片づけるのが苦手だから、できるだけ物を置かないようにしてるんだ」
 ミヒャエルがそう答えると、エミリアが不意にくすくす笑った。
「なぜ笑う?」
「それでルイスを召し使い代わりにしてるんだと思って」
 ミヒャエルは思わずにやりと笑っていた。
 エミリアがルイスに対する自分の仕打ちを詰らないので、ミヒャエルは内心ほっとしていた。
「……ずいぶん助かってるよ」
 実際、ルイスの事務処理能力は驚くほど高かった。
 書類の作成も分類も整理も。記憶力が優れているから、一度説明すればすぐに覚えるし、みも早かった。
 あの男は、騎士よりも官吏になったほうがよかったのではないかとミヒャエルは思っていた。
 エミリアがまたソファに坐りながら口を開く。
「それよりね、聞いてよ。お母様ったら、わたしを元気づけようとしてるのか知らないけど、婚約式のためにいろいろはりきって用意しててね。ドレスとか靴とか装飾品とか……まるで自分があなたと結婚するみたい。婚約式の日程を早めたのも、たぶんそのせいだし。あなたに逃げられるのがいやなのよ。そういう勘だけは鋭いの」
 ミヒャエルは苦笑した。
 なぜ自分がそこまでペトロネラに好かれているのかミヒャエルはいまだによくわからなかったが、一度三人でお茶をしたときの様子からして、ペトロネラはエミリアとまったく価値観が合わないようだった。
 彼女が自分に執着するのは、娘のエミリアや夫のマティアスが話を聞いてくれないからではないか――ミヒャエルはそう推測していた。
 要するに、ペトロネラは寂しいのだ。
 エミリアが微笑む。
「大丈夫よ。お母様はあなたとルーツィアの件は知らぬ存ぜぬで通すつもりみたいだから」
 ミヒャエルはエミリアをじっと見た。
「君はこのままなにも訊かないつもりか?」
「必要ないわ。だからわたしはあの時、あなたの話を聞かなかったのよ」
 エミリアはきっぱりと言うと、まっすぐにミヒャエルを見た。
「あなたの過去は、これからのこととは関係ない。大事なのは過去より未来でしょう」
「それは君の本心じゃないだろう」
 ミヒャエルがそう言うと、エミリアが息を吐き、自嘲するように笑った。
「やっぱりあなたにはわかっちゃうのね」
「……そんな自分が嫌になることもあるが」
 ミヒャエルはうつむいて言った。
 なぜ自分はいつも、相手の言葉を都合のいいように信じられないのだろう。
 どうしても、相手の意図が透けて見えてしまう。
 エミリアは自分と距離を縮める気がない。だからなにも訊かないのだ。
 そのことに対してミヒャエルに異論はなかった。
 下手に相手のことを知ってもお互いに傷つくだけで、なにも得るところがないとわかっていた。
 その選択ができてしまうからこそ、自分はいつもだれにも自分をさらけ出せない。
 また同じことを繰り返している。
 わかっているのに、抜け出せない。
 なのに、彼女はそんな自分にずっとつき合ってくれる気でいる。
「……すまない、エミリア」
 ミヒャエルがそう言うと、エミリアが小さく首を振った。
「いいえ、謝るのはわたしのほう」
 エミリアはソファから立ち上がり、ミヒャエルの隣に坐った。
 その大胆さにミヒャエルは気後れしていた。
 こういうことをする女性は今までもいたが、彼女たちの目的はいつもミヒャエルを誘惑することだった。
 しかし、出会ったときから今まで、エミリアには性的な雰囲気が一切感じられなかった。だからこそ自分はエミリアに気を許せたのだとミヒャエルは思っていた。
 そういった男女の駆け引きには、いいかげんうんざりしていた。
 そんな動揺しているミヒャエルの横で、エミリアがうつむいたまま口を開いた。
「わたしは結局、いつもだれかに守られているし、権力を持ってる側の人間なの。でもそのことが嫌だった。自分の力でできることもあるって証明したかった。女だって人を守れるって意地になってた。でも、わたしは人を守る難しさを全然わかってなかった」
 エミリアは苦しげな顔でそう言うと、膝の上に置いた手を握り締めた。
「わたしに力があるのは王族だからで、男とか女とか、そんなことは関係なかったのに、守ってあげるなんて簡単に言って……剣の腕がちょっと立つからって、わたしは調子に乗ってたの。あなたはずっと苦しんでいたのに、わたしはなにもできなかった」
 エミリアが自嘲めいた笑みを浮かべる。
「わたしと決闘した人たちは、みんなわたしが女だから手加減してたのかしら。だから勝てたのかしら」
 エミリアがミヒャエルをじっと見る。
「あなたはわたしを勝たせる?」
 ミヒャエルは一瞬考え込んだ。
 彼女にはこれ以上うそをつきたくなかった。
「……勝たせるだろうな」
「そうよね。あなたはそういう人よね」
 そう言ったきり、エミリアは黙り込んでしまった。
 ミヒャエルは、うつむいているエミリアの横顔を見つめた。
 ここで励ますのは簡単だった。ミヒャエルはいつもそうやって他人の弱さを利用して、懐に入り込んで信用を勝ち取ってきた。
 しかし、エミリアは一度も自分を頼らなかった。
 彼女はいつだって勝ち気で、だれにもびないし甘えない。そういうことはしたくなかった。
 しかしそれ以上に、落ち込んでいる彼女を見るのがいやだった。
「……この数か月、君と一緒にいるのは楽しかった」
 そんな言葉がするりと出たことに、ミヒャエルは自分で少し驚いていた。
「君はいつも、わたしに対して正直だった。それどころかわたしの嘘を見抜いて、わたしが引いた線を簡単に踏み越えてしまった。なのに、君はわたしになにも望まなかった」
 エミリアが苦く笑う。
「よく言いすぎよ」
「そんなことはない。いつの間にか、わたしは君を好きになりかけていた」
 劇を見るときにエミリアに指摘されるまで、作り笑いをやめていたことにもミヒャエルは気づいていなかった。
 駆け引きにはうんざりしていたはずだったのに、自分からエミリアに仕掛けた。
 だが、きっとルーツィアはそんな自分の変化に気づいていた。
 彼女は昔から、人の気持ちには自分よりずっと敏感だった。
 きっと、彼女を絶望させたのは自分だ。
 ミヒャエルはエミリアの瞳をまっすぐに見つめた。
「今だって好きなんだ。……信じてもらえないかもしれないが」
 空色の瞳が、ミヒャエルの瞳を見つめ返す。
「信じるわ。だってあなたは優しい人だもの。でも、あなたの気持ちには応えられない」
 ミヒャエルは静かにうなずいた。
「わかってる。それでも言っておきたかった。……君を幸せにできなくても」
 そうだ。自分は彼女を幸せにできない。そして、彼女もそれは同じだった。
 お互いに、それがわかっているから結婚する。
 彼女の心の扉を開けられるのは、一人だけだ。
 エミリアはしばらく黙ったままミヒャエルの顔を見つめていたが、彼女がいきなり自分のほうに身を乗り出してきたので、ミヒャエルはどきりとした。
 ミヒャエルが動揺しているのに気づかず、エミリアがなんとも言えない表情でミヒャエルの顔を眺めながら言った。
「……やっぱり、あなたってれいな顔をしているわよね」
 ミヒャエルはこらえきれず笑いだしてしまった。
 やはり彼女は面白い。
 至近距離で見つめ合っておきながら、第一声が、言うに事欠いて自分の顔の話だなんて。
「君は口説かれるより、口説くほうが好きなようだな」
 ミヒャエルが指摘すると、エミリアは小さく笑った。
「……確かにそうね。でも、わたしはずっと口説き方を間違えていたの」
 ミヒャエルはくすりと笑った。
 確かにあの男は、相手が王女だろうが絶世の美女であろうが、遠回しに口説かれてもまったく気づかないだろう。
「それはわたしも同じだ」
 ミヒャエルが迫っても、まったくエミリアに効果はなかった。
 きっと本当は、最初から策など必要なかったのだ。
 だがどうしても自分は真正面からぶつかれない。
 それはだれが相手であろうと同じだった。
「降臨祭のとき、どうしてわたしに口づけようとしたの?」
「……君にルーツィアのことを聞かれて動揺していたのを悟られたくなかったんだ。君こそなぜすぐに離れなかった?」
 エミリアがふっと笑った。
「迷っていたから。一瞬だけど、思ってしまったの。あなたが相手ならべつにいいかもしれないって。あなたの言うとおり、わたしは女になりたかったのよ」
「なら、惜しいことをしたかな」
 ミヒャエルが苦笑交じりにエミリアにささやいた。
 その時、扉が開いて二人は同時に振り返った。
 入ってきたのはルイスだった。