第86話 最後の決闘

 次の日の早朝、ルイスはいつも通り稽古を終えたあと、指定された場所でエミリアを待っていた。
 勇気を振り絞って開けたにもかかわらず、手紙に記されていたのは日時と場所だけだった。
 しかし、時間になってもエミリアはやって来なかった。
 彼女は自分がいつも時間通りに来ることを知っているはずだ。だとすれば、きっとエミリアは最初から自分を待たせるつもりであの時間を書いてしたのだ。
(そのとおりよ)
 そう言わんばかりの時機で、芝生を踏みしめる足音が近づいてきたのはその時だった。
「ルイス」
 エミリアの声に、ルイスはゆっくりと振り返ったが、そのままの姿勢でその場を一歩も動けなくなった。
 彼女にれたからではない。
 ルイスは、エミリアに訓練用の剣を心臓の真上に突きつけられていた。
 いきなり剣先を向けられ、ルイスはエミリアを見つめた。
 今日のエミリアはいつものミモレ丈のドレスに、足元は深靴姿だった。普段は半分だけ結い上げている長い髪は、後ろでまとめて一本の三つ編みになっている。
「……なんのつもりだ?」
 エミリアが口元を上げる。
つき合ってよ、ルイス」
「そのために呼んだのか?」
「……そうよ」
 ルイスはこの時、ようやくエミリアの意図を悟った。
 あれは、果たし状だったのだ。

 ルイスとエミリアは距離を置いて向き合っていた。
 決闘に負ければ婚約成立、勝てば破談。
 それが、エミリアが自身に課した誓約だった。
 だがこの場合、自分が負けたらどうなるのだろう。
 そしてもし、自分が勝ってしまったら?
 エミリアの真意がわからず、ルイスは剣を構えたものの動くことができなかった。
「なにを遠慮してるの?」
 エミリアが挑発するような視線をルイスに向ける。
「なら、わたしから行くわ」
 そう言った途端、一気にエミリアが地を蹴り、距離を詰めた。
 大胆な踏み込みに一瞬ルイスの反応が遅れた。後退し、なんとか攻撃を受ける。
 しかしエミリアは止まらなかった。連続で浴びせられる攻撃をなんとか弾きながら、ルイスは内心驚いていた。
 数年前に手合わせしたときより、彼女の腕前は格段に上げっていた。一打一打が重い。昔から彼女は常に攻めの人間だった。守り主体で攻撃する機会を待ち、反撃する自分の戦い方とはまるで違う。
 ルイスは防戦一方だった。エミリアの果敢な攻撃が怖かった。
 ただの遊びではない。エミリアは本気だった。いや、彼女が遊びで自分と戦ったことなど今まで一度もなかった。
 だがその時とはまるで気迫が違う。エミリアは己のすべてを懸けていた。力の限りを尽くして、すべてを自分にぶつけていた。
 なにが彼女をここまで突き動かすのだろう。
 怒り、憎しみ、苛立ち、焦り、悲しみ、嘆き。
 どれも違う。その正体がわからない。
 衝動的で冷静さを欠いていて、愚かなまでにひたむきで、計り知れない力がある。
 つばいをしながらエミリアが叫ぶ。
「どうしたのよ! それで勝てるほどわたしは弱くない!」
 押し返そうと力を込めながら、ルイスはエミリアの空色の瞳を見つめた。
 あれからもう十年。
 あの頃の気持ちを思い出したかった。彼女に勝つために練習に明け暮れた日々を。おそれを知らなかったときを。前だけを見つめていられたときを。
 だが、あの頃にはもう戻れない。取り戻すことはできない。
 けれど今だけは、なにもかも忘れて戦っていたかった。
 ただ心の赴くままに。
 ルイスは押し返そうとしていた力をふっと抜いた。エミリアが体勢を崩す。
 ルイスはその一瞬の隙を見逃さなかった。一気に攻勢に転じ、間合いを詰める。
 無心に剣を振るいながら、あの時と同じだとルイスは思った。
 初めて彼女に勝ったあの時と。なにもかも鮮明に覚えている。手に取るように思い出せる。
 自分の動きも、彼女の表情も、勝負がついたときの高揚感も、空気の手触りも。
 忘れることなんてできない。
 ルイスの攻撃を防ぎきれず、エミリアの手から剣がはじぶ。
 ルイスは息を弾ませながらエミリアの喉元に剣を突きつけていた。
 それで終わりだった。
 エミリアはしばらく肩で息をしていたが、やるじゃないというように笑みを浮かべた。
「……負けちゃった」

「あー疲れた」
 結んでいた髪を解き、エミリアは芝生の上にあおけに寝転んで伸びをした。長い赤毛が芝生の上に散らばる。
 ルイスは彼女の隣に腰を下ろした。
 湖が見渡せるこの丘は、自分たちが何度も剣を合わせてきた場所だった。
「……ルイス。わたしはもうだれとも戦わない。あなたともね」
 唐突にそう言われ、ルイスははっとしてエミリアのほうを見た。エミリアは仰向けになったまま、空を見つめていた。
「決めたの。元に戻るつもりはない」
 それは当然のことだった。ミヒャエルと婚約するのだから、彼女はもう戦う必要はない。
 これは、彼女にとって最後の決闘だったのだ。そしてその相手は自分だった。
 それはつまり、なにを意味しているのだろう。
 彼女と戦うことをやめる。
 そのことを考えたとき、ルイスはなにかが自分の中で失われていくような気がした。
 だが、いったいなにが? わからない。
 混乱しているルイスの隣で、エミリアがまた口を開いた。
「ルイス。わたしはね、あなたみたいになりたかったの。女だけど、強くて格好良くなりたかったの」
 ルイスは顔をうつむけた。
「わたしは強くも格好良くもなかっただろう」
 エミリアが小さく笑う。
「そうね。あなたはなにも知らなかったから、強くいられただけだった。そのことにちょっとがっかりもした。でも、わたしにそんな資格はないの。わたしはずっと逃げていたんだから」
「なにから逃げていたんだ?」
「……いろんなこと」
 そう言ってから、エミリアは寝転んだまま湖面を見つめた。
「女として生きなきゃいけないってこと、死ぬまで自分以外のだれかに品評され続けること、いつか決められただれかと結婚しなきゃいけないってこと。短い丈のドレスを着て、深靴を履いて、剣の稽古をして――やりたいようにやってきたつもりだったけど、そうやってわたしは考えなきゃいけないことを先送りにしていたの」
 エミリアはそこでいったん言葉を切ってから、また口を開いた。
「それから、あなたとのこと。わたしはあなたのことが好きだったけど、あなたに女として見られるのがいやだった。今までのわたしじゃいられなくなるような気がして怖かった。でもそれ以上に、あなたと今までの関係でいられなくなるのがいやだった。だからどうしても言えなかった。なのにわたしは、どうしてあなたはわたしを好きになってくれないのってそればっかりで、ルーツィアに嫉妬してた。あなたが全然気づいてくれなくて腹が立ったから、わざと傷つけるようなことをたくさん言った」
 エミリアは起き上がり、ルイスのほうを見た。
「……ごめんなさい。わたしは、いつもあなたを困らせてばかりだった。格好良くなりたいって思っていたくせに、今のわたしは最高に格好悪い」
 エミリアの空色の瞳がそっと伏せられるのを、ルイスはまばたきもせず見つめていた。
 そんな彼女の姿は美しいと、なぜかそう思った。
「……エミリア」
 ルイスがそっと彼女の名を口にすると、エミリアが首を傾げた。
「どうしたの、急に」
「いや、君はそういう名前だったなと思って」
「正確には、エミリア・アデーレ・アマーリエ・ギーゼラ・リヒトガルテンよ。覚えておいてね」
「知っている。ずっと前から」
「最初に会ったときはわたしが王女だって気づいてなかったくせに」
 エミリアの指摘にルイスは言葉に詰まった。
 そのとおりだった。
 メルヒオルをはじめ、屋敷にいる使用人たちもみんな彼女の正体を知っていたのに、だれも教えてくれなかった。
 気づいたのは、エミリアと稽古をしている最中にルイスが熱を出して倒れ、王宮にある医務室に運び込まれたときだった。
「それは、君のような王女がいるとは思わなかったから」
「王宮にいるんだから普通気づくでしょ。まあいいけど。そういうことにしておいてあげる」
 ルイスは思わず苦笑した。
 これからも自分は、事ある毎にエミリアにこの件についてからかわれ続けるのだろうか。そんなことを思ってルイスはすぐにその考えを打ち消した。
 そんなはずがない。ずっと続くことなどこの世には存在しないのだから。
 ルイスは立ち上がった。
 そろそろ行かなければならない。
 待ち合わせはいつも時間通りに行くが、仕事場にはいつも十五分前に入るのがルイスの習慣だった。
 それに間に合うように準備しなければならない。
「ねえ、ルイス。あなたがなぜわたしをミリィって呼ぶようになったのか覚えている?」
 エミリアの問いかけに、ルイスは彼女のほうを見て答えた。
「君がそうわたしに命令したからだ」
 エミリアが王女だと気づいたとき、ルイスは呼び方を改めようとした。だがエミリアはそれを断った。
(これは命令よ、ルイス)
 あの時彼女はそう言った。
「そう。わたしが命令したから。わたしはずっとそうやってあなたに甘えていたの。あなたが逆らえないと知っていたから」
 そう言って寂しそうに笑うエミリアを見たとき、ルイスはとっさに口を開いていた。
「ミリィ。わたしはただ君に命令されたから従っていたわけじゃない。君に頼まれたからそうしていただけだ」
 自分がなぜこんなことを言っているのか、ルイスにはよくわからなかった。
 だが、なにかをつなめたくて、ルイスは必死にそう言っていた。
「それに、君は困らせてばかりだと言ったが、それは違う。むしろ、わたしのほうが君を困らせていたんだ」
 言葉に詰まりながら、なんとかルイスはそう言い終えて顔を上げた。
 エミリアは静かに微笑んでいた。
「なら、これからはもうお互い困らなくてすむわね」
「ああ」
「じゃあ」
 二人はそれぞれ逆の方向に歩きだした。
 もう、振り返らなかった。