第97話 エヴェリーンの過去(3)

 騎士たちが去り、その場にはユストゥスとエヴェリーンだけが残された。
「……本当に行くのか? これはアウグストと貴族の自業自得だ」
 ユストゥスが硬い表情で言うと、エヴェリーンが目を伏せた。
「わかっているわ。でもわたしはこれ以上彼に……エルフリードに罪を犯してほしくないの」
 そう言ってエヴェリーンは歩きだしたが、数歩も行かないうちに、すぐに立ち止まってしまった。
 気づいたユストゥスが振り返る。
「エヴェリーン?」
「これは、わたしのせいなのかしら」
 そう言いながら、エヴェリーンがユストゥスから表情を隠そうとするように両手で顔を覆った。
「でも、わたしがなにもしなければ、エルフリードはずっと独りぼっちで閉じ込められたままだった。あなただって独りのままだったかもしれない」
 エヴェリーンは顔を悲痛に歪め、ユストゥスに詰め寄った。
「わたしはどうすればよかったの? なにもしなければよかったの? そうすれば、こんなことにはならなかったの? わたしがずっと独りなら、だれとも関わらなければ。勝手なことをしなければ――」
 ユストゥスがエヴェリーンのほうにそっと手を伸ばす。
「エヴェリーン」
 エヴェリーンが弾かれたように後ろに下がる。
「触らないで。わたしは――」
 しかし、手を振り払われ、拒絶されてもユストゥスはためらわなかった。
 ユストゥスはエヴェリーンの背中に手を回し、そっと抱き締めた。
「俺は君に助けられたんだ。ほかのだれでもない君に。君は悪くない。悪いのは俺だ。君を愛した俺のせいだよ」
 エヴェリーンがあふれ出る感情を封じ込めるように瞼を閉じた。瞳から涙がこぼちる。
「いいえ、違うわ、ユストゥス。それは絶対に違う。だってわたしはあなたを――」
 そこで言葉を切り、エヴェリーンはユストゥスから離れた。
「……彼を止めるわ」
「君と最後まで一緒にいる」
「……ありがとう」
 二人は互いにうなずき、歩きだした。
 しかし、その時エヴェリーンの足元がふらついた。
「エヴェリーン!」
 慌ててユストゥスがエヴェリーンを支える。
「大丈夫。少し疲れているだけ。わたしはリヒトの力を借りているだけだから、力を使いすぎて死ぬことはないわ」
 エヴェリーンは微笑み、再び立ち上がった。
「……行きましょう」

 せん階段を降り、二人は聖殿に着いた。
 聖殿の内部は不気味なほど静かだった。
 エヴェリーンを手で制し、ユストゥスが物陰から中の様子を窺っていたが、すぐに振り向いて首を振った。
「駄目だ、君は来ないほうがいい」
 しかし、エヴェリーンに迷いはなかった。
「大丈夫よ」
 二人の目の前には、凄惨な光景が広がっていた。
 死体が折り重なるようにして転がっている。どの遺体も一様に首を掻きむしった痕があり、顔はもんの表情に歪んでいた。
 リートははっとした。同時にユストゥスとエヴェリーンも互いの顔を見合わせた。
 声が聞こえる。
 二人は祈り場に駆け込んだ。
 そこにいたのは、エルフリードとアウグストだった。
「さあ、これで残っているのはあなただけだ。もうあなたを庇ってくれる人間はいない」
 まがまがしい笑顔を浮かべて近づいてくるエルフリードに、アウグストが坐ったままの姿勢で後退った。
「あなたの息子も側近も、あなたを見捨てて近衛騎士たちと退避したよ。王様も最期は惨めだね」
「やめなさい、エルフリード!」
 エヴェリーンが叫んだ瞬間、エルフリードの動きが止まった。
 よろめき、その場に立っていられずにエルフリードは床に倒れした。まるで上から見えないなにかに身体を押さえつけられているようだった。
 これがエヴェリーンの力なのだとリートは思った。
 ガラの破片を宙に浮かせたときもそうだったが、彼女は重力を操るのが得意なのだ。
 リヒトの声を聞くことができる。それは、エヴェリーンがこの世界の森羅万象に通じているという意味なのかもしれない。
「陛下!」
 エヴェリーンがアウグストに駆け寄る。
「エヴェリーン、無事であったか」
 エヴェリーンがアウグストの背後にある空間をじっと見つめた。
「陛下、決してここを動かないでください。わたしが生きているかぎり、この結界の守りは持続します」
「そなたはどうする」
「エルフリードを止めます」
「行くな、エヴェリーン。行ってはならん」
 アウグストの声はいつものように感情のこもらない淡々としたものだったが、どこか悲痛さを伴っていた。
 エヴェリーンが微笑む。
「……彼を止められるのはわたしだけです」
 エヴェリーンの力による拘束を打ち破り、エルフリードがエヴェリーンを冷たく睨みつけた。
「僕の邪魔をするつもりなのか、エヴェリーン」
「そうよ、エルフリード。あなたにこの世界を見せると言ったのはわたし。あなたを傷つけたのもわたし。なら、わたしがすべてを終わらせなくては」
 しかし、エルフリードはその言葉を聞いていなかった。
 エルフリードがエヴェリーンに手を差し出す。
「僕と来るんだ、エヴェリーン。僕が王でありリヒトだ。そして君は死ぬまで僕のヴォルヴァだ。僕らは彼らとは違う。リヒトに選ばれた人間なんだ。ほかの人間なんて必要ない。君と僕がいれば、この世界のすべてを変えられる。もう迫害されることはないんだ」
「そのためにあなたはこの国の人たちを全員殺すつもりなの? わたしはそんなことは望まない」
 エルフリードは、エヴェリーンの傍らにいるユストゥスを冷ややかに睨みつけた。
「こいつといたって君は幸せになれない。こいつはなんの力もない、ただの人間だ」
 エヴェリーンがユストゥスの前に庇うように立った。
「わたしはあなたに従わない」
 エルフリードの視線がさっと冷徹なものに変わる。
 それと同時に、エルフリードは右手の甲を表に向けて指を軽く折り曲げ、エヴェリーンに向かって手招きする仕草をした。
 すると、エヴェリーンの身体がまるで磁石に引きつけられるように、エルフリードのほうに引き寄せられた。力を発動し、エヴェリーンはその場になんとか踏みとどまろうとしたが、ずるずるとられた。
「エヴェリーン!」
 ユストゥスがとっさに腕を伸ばし、エヴェリーンの手を掴む。
「それが好きな人間にすることか!」
 ユストゥスの叫びに、エルフリードが凍てついた瞳を向ける。
「……恋愛感情なんかじゃない。エヴェリーンは僕のすべてだ。おまえのような人間には渡さない」
「それはこっちの台詞せりふだ。他人を暴力で支配するような人間に、エヴェリーンは渡さない」
 ユストゥスの言葉に、エルフリードがかっと目を見開く。
「支配されてきたのは僕のほうだ!」
 エルフリードが声を発した瞬間、エヴェリーンとユストゥスは床に押しつけられた。エヴェリーンがやったのと同じことを、エルフリードは二人にやり返していた。
「僕はだれも支配しない。悪いのは僕を虐げる人間だ!」
「ユストゥス、あなただけでも逃げて」
 身体を押さえつけられたまま、苦しげな表情で言うエヴェリーンに、ユストゥスが弾かれたように顔を上げる。
「駄目だ! 君を置いて逃げるなんてできない。約束しただろう。最後まで一緒にいると」
 エルフリードがユストゥスを睨む。
「……逃がさないよ」
 突然ユストゥスが自分の喉を抑え、その場に倒れ込んだ。
「ユストゥス!」
 エヴェリーンがユストゥスを抱き寄せる。ユストゥスが呻き、喉に両手を当てる。
 ユストゥスの手の動きは、まるで自分の首を絞めている見えない手をがそうとしているようだった。
 エルフリードが手を宙に掲げ、空中で折り曲げた指をバラバラに動かして、なにかを掴むような動きを繰り返す。まるでそうすることで、ユストゥスの命を搾り取ろうとしているようだった。
「どうして君はこんな奴を好きになったの? 僕のほうがなんでもできるのに……こいつさえ現れなければ、僕らは平穏に生きられたのに」
 首を絞められ、声にならない音がユストゥスの喉から漏れる。
 エヴェリーンはユストゥスの手に自分の手を重ね、見えない手を動かそうと試みたが、エヴェリーンの力をもってしてもそれは叶わなかった。
「僕はだれも信用しない。父は僕を恐れたし、母は僕を置いて自殺した。力を制御できるようになっても、みんな僕を遠ざけようとする。いつもリヒトは僕を助けてくれない。僕はいつも独りだ。僕の居場所はどこにもない。だから僕はこいつを殺さなきゃいけない。しかも、できるだけ苦しませてから」
「ユストゥス!」
 エルフリードを見もせず、エヴェリーンが叫ぶ。
 二人を見るエルフリードの片目から、涙が静かに流れ落ちた。
「おまえなんて死ねばいいんだ」
 エルフリードはそう言って、手を指揮者が演奏を終えるときのようにぎゅっと握り込んだ。
 それと同時に、ユストゥスの身体から力が抜けていく。
「ユストゥス! しっかりして!」
「エヴェリーン、俺は君が無事なら、それで」
 ユストゥスが掠れた声でそう言うと、エヴェリーンが激しく首を振った。
「駄目! 行かないで。お願い」
 エヴェリーンが胸の前で手を祈るように組み合わせ、瞼を閉じた。
「……リヒトよ。わたしをお赦しください」
 エヴェリーンはユストゥスに近づき、深く口づけた。
 ユストゥスは抗っていたが、瞼を閉じてエヴェリーンを受け入れた。
 唇を離した瞬間、エヴェリーンの身体がぐらりと傾いた。
「エヴェリーン」
 ユストゥスが起き上がり、エヴェリーンの身体を支えた。
「ユストゥス、早くここから逃げて」
「駄目だ、君を置いてはいけない」
「大丈夫。わたしは少し眠るだけだから」
 エヴェリーンは手を伸ばし、ユストゥスの頬にそっと触れた。
「次に目覚めたときに言うわ。あなたに、わたしの真実を。だから、それまで生きていて」
 そう途切れがちに囁くように言うと、エヴェリーンはゆっくりと瞼を閉じた。
 同時に手がユストゥスの頬から滑り落ちる。
「……エヴェリーン?」
 ユストゥスは震える声で名を呼んだ。
「エヴェリーン!」
「……やめた」
「エヴェリーンがいない世界なんて意味がない。身体なんて、もう僕には必要ない。
僕は違う世界に行く」
「……じゃあね」
 その瞬間、エルフリードの身体は人形のようにうつ伏せに倒れた。
「いたぞ!」
 ユストゥスははっとして周囲を警戒した。このままここにいては、エヴェリーンもエルフリードも殺した人間としてユストゥスは捕まってしまう。ユストゥスはそう考えたのだろう。
 ユストゥスはエヴェリーンの身体を床にそっと横たえ、リートたちから逃げたときのように、隠し扉から姿を消した。