第105話 帰還

 それから日々は瞬く間に過ぎた。
 旅行から帰るときのように荷造りする必要がないので、リートは気楽なものだった。
 帰る前日に、エミリアがルイスとミヒャエルを呼んで、また四人で話す機会を作ってくれた。
 リートはそれが嬉しかった。
 いつものように、皿に盛られたレーネ自作の菓子を摘まみながら、エミリアが言った。
「結局、アルベリヒはなにがしたかったのかしらね。わたしたちを散々振り回しておいて、自分の計画はさんだなんて。やろうと思えば、もっと計画的にやれたはずよ。権力が欲しいなら、さっさとわたしたちを殺せばよかったのにそうしなかったし。本気で王宮を乗っ取ろうとしていたとは思えない」
「犯罪者の考えることだ。きっとろくなことじゃない」
 ルイスがきっぱりと言ったが、隣ではミヒャエルが考え込むような表情をしていた。
「だがアルベリヒのやり方は賢い。生きる意味を見出せない人間に救いをちらつかせることで、大勢の人間を動かすことに成功していた。信者たちは、自分が救われるためならなんでもしてしまう」
「自分のことは自分で救うしかないだろう」
 ルイスがそう言うと、ミヒャエルがふっと瞼を閉じた。
「……それができない人間もいる」
「そうね。自分の力だけじゃ、どうにもできないことはあるし」
 エミリアが考え込むような表情でうなずいたが、不意にぽつりと言った。
「……できるなら、そういう人を助けられる女王になりたいわ」
「なれるよ、ミリィ様なら」
 リートが即座に言うと、ミヒャエルも微笑みながらうなずいた。
「ああ、わたしもそう思う」
「ありがとう」
 エミリアが微笑むと、ミヒャエルが片眉を上げてルイスのほうを見た。
「おまえはどうなんだ、ルイス」
 名指しされたルイスは、なぜか戸惑っている様子だった。
「……それなら、まずはゾフィー殿の授業に」
「出るわよ、これからは。サボらずにね」
 エミリアがそう言ってルイスに片目を瞑って微笑んだ。それを受けたルイスは、気まずげな表情で視線をらしてしまった。
 リートとミヒャエルは、そんな二人の様子に顔を見合わせてひそやかに笑った。
 その時、リートは自分の中でひらめくことがあった。
 最後に会ったときの、アルベリヒのうつろな瞳がよみがえる。
「自分でも、どうしていいかわからなかったのかも。……アルベリヒのことだけど」
 リートがそう言うと、三人の視線が一斉にリートに集まった。
「なにも信じられなくて、だれかに助けてほしかったのかも」
「君の解釈は優しすぎるな」
 ミヒャエルの指摘にリートは苦笑した。
「そうかな、やっぱり」
「だが、わたしは好きだ」
 ルイスがそう言うと、エミリアがくすりと笑った。
「リートの言ったとおりね」
「なにがだ?」
「結局、最後は自分の好き嫌いで決めてる」
 エミリアの指摘に、ルイスが言葉に詰まる。おもむろにせきばらいしてから、ルイスは厳粛な調子で言った。
「自分がなにを好きか嫌いか知っているのは、大事なことだ」
「僕もそう思う」
 リートがすぐさま同意すると、エミリアが面白そうに笑った。
「なんだかんだで、あなたたちって気が合うのね」
「まったく似ていないのにな」
 そう言って作り笑いではない、彼本来の皮肉っぽい笑い方をするミヒャエルに、リートもにやっと笑い返した。
「似てないからいいんだよ。ね、ルイス?」
「……そうなのか?」
 首を傾げているルイスを見ながら、リートはふふっと笑った。
「僕はそう思ってるよ。でも最近思うのは、そこからもう一歩踏み込んで、どうして自分が好きか嫌いかを考えるのが大事なんじゃないかってこと。そのためには――」
 そう言いながら、リートがなにげなくルイスのほうを見たとき、不意に彼の青い瞳の中にある金のきらめきが反射した。
「あ」
 その瞬間、リートは思い出した。
(君は俺にとって、鏡みたいなものだ)
 それは、エヴェリーンの記憶のなかで聞いたユストゥスの言葉だった。
「……そうだ。そうだよ。わかった。ああ、すっごく嬉しい!」
 リートは椅子から立ち上がって声を弾ませた。
 今なら地球を光速で三十周できそうなほど興奮していた。
 その場でくるりと回ってから、リートはっと我に返った。
 ……しまった。
 リートはぎくしゃくした動作で三人のほうを振り向いた。
 ミヒャエルが興味深げに顎に手をやる。
「君でも大喜びすることがあるんだな」
「……そりゃあるよ。大抵の人は共感してくれないだろうけど」
 どうにも気まずい気持ちのままリートがそう言うと、エミリアが立ち上がった。
「よくわからないけど、なんだかわたしまで嬉しくなってきたわ。最後にわたしと踊りましょうよ、リート」
「えー、それはちょっと……ミリィ様とは身長差があるし」
「いいからいいから」
 リートはなんとかエミリアの誘いを振り切って、やれやれと椅子に坐った(交代で今はミヒャエルとエミリアが踊っていた)。
 そういえば、婚約式は中止になったようだが、これから二人はどうするのだろうとリートは思った。
 エミリアもミヒャエルもお互いが好きなわけではないはずだが、二人は友人になったのだろうか。こういうことは自分にはよくわからない。
 だが今はそれよりも。
 リートはルイスをじっと見つめて言った。
「わかったよ、ルイス」
 視線に気づいたルイスがリートを見返した。
「なにがわかったんだ?」
 リートは自分に耳を近づけるようにルイスに仕草で示し、こっそり言った。
「……君が僕にとってどういう存在かってこと」
 リートの言葉に、ルイスが驚いたように目をみはった。
 そんな二人の様子にざとく気づいたエミリアが、踊りながら言う。
「あら、二人で内緒話? ずるいわ」
 ミヒャエルが華麗にターンを決めながら微笑む。
「わたしたちには教えてくれないのか、リート」
 リートはそんな二人に苦笑した。
「そんなに大したことじゃないよ」
 そうだ。わかってしまったら、たとえ飛び上がるほど嬉しくても、それはもう自分にとって大したことではない。
 流れ星のようにきらりと光るその一瞬をすくれたら、その輝きはまたどこかに消えてしまう。そして、ただ光っていたという事実だけが自分の胸に残るのだ。
 いつまでも、永遠に。

 次の日、リートは歩きながら、早朝の湿ってれている芝生の匂いを吸い込んだ。
 リートは、近衛騎士団の訓練場に向かって歩いていた。
 あの日――ライナスの眠っている場所を訪れた次の日の朝、リートは彼を追いかけてここに来た。
 違うのは、今の自分が学校の制服を着ているということだけだ。
 自分は今日ここを去る。だから最後に会っておこうと思った。
 彼がそこにいないかもしれないとは、なぜかリートは思わなかった。
 なぜだろう。だが会えると確信していた。彼はいつも自分の予想をいい意味で裏切ってくれるが、落胆させられたことはなかったから。
 果たしてリートの予想通り、そこにはあの日とまったく同じように剣術の訓練をするルイスがいた。あれからいろいろな出来事があったのに、彼の日課が変わることはないようだった。
 ルイスの動きをじっと見つめながら、リートはふと思った。
 ただじっと待っているだけでは駄目なのだ。
 知りたいなら、いつだって自分のほうから手を伸ばさなければならない。
 自分自身が強く望めば、それと同じぶんだけ答えが得られる。
 きっと、世界はそんなふうにできている。今はそう思う。
「おはよう、ルイス」
 リートはいつものように挨拶した。
 あの時と同じように、シャツを腕まくりしたルイスが動きを止め、こちらをまっすぐに見た。
「おはよう、リート」
 今まではそう返ってくることが当然だと思っていた。
 だが本当はそうではなかった。
 当然のことなど、おそらくこの世界にはなにひとつ存在しないのだ。

 二人は並んで芝生の上に坐っていた。
 初めてルイスとまともに話したのもこの場所だった。
 そして自分は、彼の瞳の中にある金の虹彩を見つけた。そのことを、リートは今でも昨日のことのようにはっきりと覚えていた。
(ねえ、君は覚えてる?)
 そう問いかけようとして、リートはまた口を閉じた。
 彼には愚問だ。彼はリートがここに来てからすべてのことを覚えている。それだけでリートは少し気が楽になる気がした。
 たとえ、これからずっと離れてしまうのだとしても。
「あのね、ルイス。僕は人が怖かった。でも本当はね、ずっと自分のことが怖かったんだ」
 善悪の判断が曖昧で、知りたいことのためならほかのことは頭からすっ飛んでしまう、集中したら他人のことなんてお構いなしな、そういう自分を受け入れることが、リートは怖かった。
「僕の世界じゃ、僕みたいな人間は変わってるってことになっちゃうから。僕はただ普通にしてるだけなのにね」
 ただそういう人間が少ないというだけで、自分は変わっているということになってしまう。だが、それがこの世の中というものなのだろう。
「僕は、ずっと普通になりたいと思ってたんだ。目の前のことに一喜一憂できる普通の人間に。でも僕は、目の前でなにかが起きたら、その前にまず考えてしまうんだ。どうしてそうなるんだろうって。それに、納得できるまでずっと頭の中でなにかを考えてる」
 リートが話しているあいだ、ルイスは口を挟む気はないようだった。
 そういうところが、彼と自分はまるで違っている。
 自分ならきっと我慢できず、いろいろ突っ込んでいてしまうのに、彼はいつもきちんと話を聞いてくれる。そのことをずっと自分は望んでいたのだとリートは思った。
 ただだれかに話を――自分の嘘偽りのない考えや、気持ちを聞いてほしかった。
 本当は、それだけでよかったのだ。
「僕の国の人たちは、自分が思ってるほど人は見てないとか、特別じゃないとか、変わってると思ってるのは自分だけだとか、すぐにそういうことを言うけど、それは僕の場合は当てはまらなかった。自分が特別だと思い込んでうぬれることは不誠実だけど、自分が変わってることを認めないのも、同じくらい自分に不誠実だと思ったんだ。だって、そもそも普通の人間なんてものは、どこにも存在しないんだから」
 そう、ルイスといるようになってから、そんなふうに思うようになった。
 本当に大事なのは、知識でも能力でも権力でもない。誠実さなのだと。
「ルイス。僕はね、この世界に来てからずっと、君のことを研究してたみたいなものなんだよ」
 リートがそう言うと、ルイスがわずかに目を瞠った。
「わたしを?」
「うん。だって、僕の世界には君みたいな人間はいないから。他人なんてみんなつまらないと思ってたし、たいして興味もなかったけど、僕は君に興味を持った」
 なんとなくと言っていたが、メルヒオルはあの短時間でそれを見抜いていたのだろうか。
(だとしたら、ちょっと怖いな)
「ミヒャエルに言われたんだ。僕はいつもミヒャエルじゃなくて、ルイスを選んでるって。それからずっと考えてた。なんで僕はミヒャエルに代わってもらうことは考えなかったのかなって。それで一応、自分の納得のいく答えを見つけた」
 そう言って、リートはまっすぐにルイスの瞳を見つめた。
「ルイスは僕の望みに応えてくれるわけじゃない。でも、僕が本当はなにを望んでいるのか、いつも気づかせてくれるんだ」
 君はなにを望んでいるんだ? その問いに、リートはずっと答えられなかった。
「僕はだれかに優しくされたかったわけじゃなくて、ずっと、自分自身を知りたかったんだ。……それが僕の本当の望み」
「それで、わかるようになったのか?」
「前よりはね。でもまだ全然だよ。やっと少しだけ、わかりはじめてきたところ」
 だがあの空間に飛ばされて帰ってきてから、自分の中でなにかが変わりはじめていることを、リートは実感していた。
 ずっと立ち止まったままだったが、少しずつ自分は前進している。じれったいほど、ゆっくりではあるが。
「前に、人の数だけ世界があるって言ってたよね。それで思ったんだ。人だけじゃなくて、どんなことにも世界があるんじゃないかなって」
「どんなことにも?」
「うん。一つひとつの世界は小さいかもしれないけど、それを知ることは無駄なことじゃないと思う。その世界の一つひとつを知っていけば、僕はより大きな世界を知ることができるんじゃないかって、そう思うんだ」
(たぶん、その世界を広げるために僕は生きてるんだ)
 リートはそう思った。
「どんなことにでも真実が存在している。そう考えるともう怖くないんだ」
 リートはルイスをまっすぐに見た。
「ありがとう、ルイス。僕に世界を教えてくれて」
 ルイスの瞳が一瞬当惑したように揺れたが、静かに首を横に振った。
「わたしはなにもしていない。それはこの世界に来る前から、君自身が望んでいたことだ」
「そうだね。でも言いたかったんだ」
 リートはそう言ってから立ち上がった。
「じゃあ、もう行くよ。昨日も言ったけど、聖殿には来ないでね。僕は見送るのも見送られるのも好きじゃないから」
 リートは責任者のメルヒオルを除いて、あとの見送りはすべて断っていた。
 気恥ずかしいというのも理由のひとつだったが、それだけではなかった。
 この世界に来たとき自分は一人だった。だから帰るときも一人でなければならない。
 なぜか、そうでなければならない気がしていた。
「ごめんね、最後までわがままで」
 リートがそう言うと、ルイスが少しだけ口元を上げた。
「気にするな。実はわたしもそうだ。その上、わたしは待つのも待たせるのも好きじゃない」
 リートは目を瞬かせた。
 そして、彼という人の本質に初めて少しだけ触れられた気がした。
 ひょっとしたら、この答えを聞くために自分はこの世界に来たのかもしれない。
 リートは、なぜかふとそんなことを思った。
「だからいつも時間きっかりに来てたんだね」
「ああ」
「これでまた一つわかったよ。君のことが」
 そして、この世界のことが。

 螺旋階段を下り、リートは聖殿に入った。
 そこで待ち受けていたメルヒオルが柔和に微笑み、うなずいた。
 こういうときに言葉がいらないことを、彼は知っているようだった。
 リートはメルヒオルの横を通り過ぎ、聖殿の結界をくぐった。
 そこにはユーリエがいた。
 薄紫色の瞳がじっとリートを見つめた。
「リート様、これを」
 そう言ってユーリエは、自分の手のひらをリートのほうに差し出した。
 そこには、青い石の中に金のはちぼうせいまれた、自分が着けているのとそっくり同じピアスが乗っていた。
「模造品です」
「僕にくれるの?」
 リートがそう言うと、ユーリエがうなずいた。
 差し出した手に乗せられたピアスの番いを、リートはそっと握り締めた。
「……ありがとう。大切にするよ」
 ピアスをつけ替えたあとで、リートの正面にユーリエが立った。
 二人は両手を握り、自分の額に相手の額をくっつけた。
 その瞬間、本当に帰れるだろうかという不安や迷いは、不思議とリートの中から消えていた。
 彼女とならできる。
 あの時は戻ってこられた。ならば、行くことだってできるはずだ。
 なんの根拠がなくてもそう思う。そう思える。
 リートは瞼を閉じ、その声に耳を傾けた。
(なにも考えないで。ただ自分の行きたい場所を思い浮かべて)

 理人はゆっくりと瞼を開けた。
 最初に目に飛び込んできたのは、見慣れたせっこうボードの天井と、発光ダイオードの照明だった。
(帰ってきたんだ)
 理人はそう思った。
 薬品の臭いがするところからして、どうやら学校の医務室らしい。
 辺りがまだ明るいことに驚きながら、理人は寝台から起き上がったが、時計が指している時刻を見て目を疑った。
(まだ十二時前?)
 確かあの時は、一時間目が終わったあとだった。あれからたった三時間ほどしか経っていないなんて。
「あ、起きたの?」
 寝台に近寄ってきたのは校医の女性だった。
「あなた、階段から落ちてずっと気を失ってたの。頭に問題があるかもしれないから、念のためにこれから病院に行かないといけないんだけど――」
 校医の説明を聞いた途端、理人は落胆した。
(やっぱり、ただの夢だったのかな)
 その時、校医が首を傾げて自分の耳を指差した。
「あれ、そんなの着けてたっけ? 見つかったら校則違反で没収されるよ?」
 理人は校医の言葉にはっとして、自分の耳を触ろうといったん手を持っていったが、すんでのところでやめた。
 理人は勢いよく寝台を降り、靴を履くのももどかしく走りだした。校医がなにか言っているのも気にならなかった。
 洗面所に駆け込むと、理人は鏡に映った自分の姿を見た。
 鏡の中のもう一人の自分は、確かにあの青い石の中に、リヒトガルテンの星を嵌め込んだピアスをしていた。
 行き先を示す羅針盤のような金の八芒星が、まるで理人を導くように一瞬光を放ち、揺れた。