第1話 憂鬱な朝

 ずっと、同じ毎日を繰り返している。
 最近シュンはそう思うようになっていた。
 一回目でも二回目でもなく、三回目の携帯電話のアラームを止め、シュンは布団の中でまた固く瞼を閉じた。
 ――会社に行きたくない。
 会社勤めの人間ならだれでも一度は思うことを思いながら、シュンは寝返りを打った。それでもなんとか寝台からいだして、洗面を済ませ、食事をし、会社に行く用意をしているあいだにそんなことはどうでもよくなる。
 それはわかっている。わかっているのだが。
 思えば昨日も同じだった。その前も、その前の前の日も。
 この二週間、シュンはずっと同じことを繰り返していた。
 それでも、会社を辞めるという選択肢はなかった。
 理由はひとつしかない。
 働かなければ、生きていけないから。
 家賃、食費、光熱費、携帯代、社会保険料、年金、税金。
 金がなければ、アパートの電気とガスと水道を止められ、家賃を払えず追い出される。病気になってもだれにも連絡できなくなり、倒れて病院に搬送されれば高額な医療費を請求されるはめになる。
 そんなことはわかっている。わかっているが、五日働けば土日は疲れて寝ているだけでどこにも行けないし、給料が入れば、ストレスを発散するために無駄に使ってしまう。こんな生活をあと五十年近く繰り返すことには、耐えられそうになかった。
ぜいたくだ。仕事があるだけありがたいと思え)
 心の中でそうだれかの声がする。
 インターネットの掲示板に悩みを書き込んでも、寄せられる回答は大概そんなものだ。
(わかってるさ、そんなことは)
 だからシュンは、このことをだれにも相談したことがなかった。どうせ打ち明けても、そのまま会社にいろと言われるのは目に見えていたからだ。
 そもそも自分には相談できる友人もいない。専門学校を卒業して働きだしてからは、同世代の人間とは一度も連絡を取っていなかった。寂しいと思うことがないわけではないが、もともと人づき合いは苦手だったし、こちらからわざわざ連絡をとって会いたいと思ったことは一度もなかった。向こうも連絡してこないということは、しょせん自分もその程度の存在だったのだろう。
 シュンはまた寝返りを打ってあおけになり、ぼんやりと天井を見つめた。
(俺って、なんのために生きてるんだろ……?)
 シュンは、枕元に置いていた携帯電話のタッチパネルを操作して、検索サイトを立ちあげたが、すぐに閉じた。
 そこには根本的な解決策は絶対に書かれていない。人生に悩んでいる人間から金を収奪してやろうと目論む人間のメールマガジンや、オンラインサロンに誘導されるのがオチだ。
 そして結局、そんなものに騙されて職を失うくらいなら、現状維持が最善だという結論になり、またふりだしに戻ってしまう。
 三回目のアラームをいやいや止めて、これが現実なのだと割りきったふりをして、会社に行くことを繰り返す日々に。
 いいかげん、シュンはそんな堂々めぐりにうんざりしていた。
(昔の人って、人生に悩んだときはどうしてたんだろう。いや、そもそも悩む暇もなかったのか)
 だったらそのほうがいいとシュンは思った。休む時間がないくらい働いていれば、こうしてうだうだと悩む必要もない。中途半端に時間があるから、こうして余計なことを考えてしまうのだ。
 そうだ。実際、本気で会社を辞めようと思ったことは一度もない。
 辞めたところで行くあてなどないし、どんな仕事についたとしても、自分の不満が解消されることはない。
 だって、そもそも自分は働くこと自体が嫌なのだから。
 そう、結局はそこだ。金のために働いているのだと割りきれない自分が一番悪い。
 それはわかっている。わかっているのだが。
(でも、嫌なものは嫌なんだ)
 いっそ、今日はサボってしまおうか。そんな甘美な誘惑がシュンの脳裏をよぎった。
 無意識に頭の中にゲームの選択肢の画面が浮かびあがる。
 会社をサボる。
 諦めてこのまま寝台を出る。
 シュンはしばらく悩んだが、また携帯電話を操作して、アドレス帳から上司の連絡先を呼びだした。
「おはようございます。時任です。朝早くに失礼します。申し訳ないんですが、今日は体調が悪くて……」
 連絡を終え、シュンはほっとしてまた寝台に寝転がったが、すぐにはっとして飛び起きた。
(決めたのはいいけど、ごみ出さないといけないの忘れてた!)
 シュンは慌てて寝台から出ると、スウェット姿のまま、昨夜に用意していたごみ袋を引っ掴んで玄関の扉を開けた。

 ごみを無事出し終えて、シュンはまたほっとしながらアパートの駐車場を歩いていた。
(よかった、間に合った)
 実家がある地域は三十分くらい遅れたところでどうということはなかったが、この地域は回収に来るのが早いのだ。
 これからなにをしよう。せっかく起きているのに寝直すのはもったいない。
 部屋の掃除でもしようか。昼食はいつもよりもっと手の込んだものを――そんなことを考えていたとき、シュンはふと目に映った光景に足を止めた。
 ひとりの若い女性が、駐車場の花壇の前にしゃがみこんでいる。
 季節柄、花壇はアジサイの花が満開だった。
 初め、シュンはなぜ彼女が気になったのかよくわからなかった。
 肩より少し下で切り揃えられた髪が、ブリーチも染髪もせず、パーマも当てていない、つややかでまっすぐな黒髪だったからか。雨が降っているのに、傘を差していないからか。それとも六月にも関わらず、半袖の白い襟付きのワンピースを着ていたからか。
 シュンは、彼女が花壇に植わっているアジサイを見ているのだろうと思ったが、女性は顔をうつむけて、ぼんやりと考え事にふけっているようだった。
 その時、ふいに女性が顔を上げ、シュンのほうを見た。
(やば)
 目が合ってしまい、シュンは慌てて目を逸らそうとして失敗した。
 こちらをじっと見ている女性から、シュンはなぜか目を離せなくなっていた。
 雨が降る駐車場で、二人はしばらく無言で見つめ合っていた。
 その時、女性がふいにシュンに微笑みかけたので、シュンははっとして思わず一歩後ずさった。
(……関わっちゃだめだ)
 普通の若い女性は、早朝にひとりでこんなところにいない。
 もしかしたら、精神状態がおかしいのかもしれない。
 しかも今日は雨だ。シュンは急いでいて傘を持っていなかったので、早く部屋に戻りたかった。こうして立っているあいだにも、雨が時折首筋に落ちては流れ、身体が冷えていく。
 シュンは無言で女性に背を向けると、雨を避けるために頭を腕で庇いながら、アパートの階段を足早に上った。
(……なにも起きるわけないだろ。映画の主人公じゃないんだから)
 シュンは自分に言い聞かせた。
 関わり合いになどならない。
 すごくきれいだ――彼女の笑顔を見たときに、そう思っていたのだとしても。

 部屋に戻って着替えてから、シュンはカーテンを少しだけめくり、その隙間から窓の外をのぞいてみた。
(ま、まだいる……)
 女性は相変わらず、駐車場の花壇の前に坐り込んでいた。
 傘を渡したほうがいいかもしれない。シュンはそう思った。
 でも、
(さすがにずっといないだろ)
 それからは、シュンは女性のことは考えずに午前中を過ごした。
 溜まっていた雑用を片づけ、部屋の掃除をしながら、シュンはまたカーテンの隙間から外を覗いてみたが、やはり女性はそこにいた。
(もう三時間だぞ。なんで雨宿りしないんだよ)
 これでは傘を渡しても意味がない。きっと服はずぶ濡れだ。
 シュンは携帯電話を操作して、今日の天気を確認した。一時間ごとの天気の移り変わりを示したマークはどれも曇りと雨で、晴れのマークはどこにもなかった。
 予報通りなら、このままでは彼女は風邪を引いてしまう。
 そう考えてから、シュンはうつむいた。
(関係ないよ。関係ないけどさ)
 他人に関わっている場合ではない。いつも自分は自分のことで精一杯だし、経済的にも精神的にも他人を助ける余裕はない。
 だいたい、そんなことは柄じゃない。普段は高齢者に電車で席を譲ることもしないし、階段でベビーカーを押す女性を助けたこともない。
 雨宿りせずに、ずっとあそこにいる彼女が悪いのだ。
(わかってるよ。それはわかってるけど、でも――)
 放っておけない。相反する思いを抱えながら、シュンは玄関に向かった。
 シュンは部屋の外に出てみて驚いた。シュンが外にいたときよりも、雨脚はかなり激しくなっていた。手にしている傘を開き、滑らないように気をつけながら、シュンは濡れている階段を駆け降りた。
 シュンが傘を女性に差し掛けると、それに気づいた女性が振り返り、驚いた表情でシュンを見た。
「来て」
「でも……」
「いいから」
 シュンは女性の腕を掴んで走りだした。その腕の冷たさに焦燥を感じながら、シュンは走った。そのあいだも心臓は早鐘を打ち続けていた。
 この激しい動悸は、走っているせいだけではない。
 緊張と不安、それから、ほんの少しの期待と高揚感。
 どうしよう。このあとどうすればいい? まったくわからない。
 でも、彼女をこれ以上放っておけない。
 今のシュンは、そのことしか頭になかった。