(……どうしよう)
廊下を歩きながら、リートは今日何度めになるかわからないため息をついた。
リートは、王族に会うために謁見の間に赴いていた。
エミリアの言っていたことが本当だったとルイスが告げたのは、昨日のことだった。 ルイスによると、べつに大したことではないので、メルヒオルは前日に伝えればそれでじゅうぶんだと思っていたのだという。
(普通の人はそれでいいのかもしれないけど……もう少し前に教えてほしかったよ)
どうしても人に会うのは緊張する。もう何日か前に言ってくれれば、心の準備ができたのに。
そう思いながら、リートは後ろにいるルイスのほうを振り返った。
「ねえルイス、王様に挨拶するのに、なにも練習しなくてよかったの? 僕はこの国の文化も礼儀作法も知らないし……失礼なことをしてしまうかも」
「大丈夫だ。メルヒオルからは、特になにもしなくていいと言われている。君は客人なのだから、なにも気にする必要はない」
リートはまたため息をついた。
(そうは言ってもなぁ……)
リートは、昨日ルイスから王族に関する基本的な情報を教えてもらった。
リヒトガルテンの二十三代目の国王、マティアス・クレメンス・リヒトガルテン。その妻で王妃のペトロネラと、一人娘で王太女のエミリア。現在王宮に住んでいる王族は、この三人だけなのだという。
リートは、あの夜の一件のときに見たエミリアの姿を思い出した。
ずいぶん活発な王女だというのがリートの感想だったが、それは自分の偏見かもしれないとリートは思い直した。
こちらの世界では、女性は当たり前に武芸を嗜んでいるものなのかもしれない。
リートはルイスに気づかれないように、彼のほうをちらりと窺い見た。
ルイスとエミリアの会話から察するに、二人は知り合いのようだったが、いったいどういう関係なのだろう。しかしまだ知り合って間もないのに、彼の個人的なことを詮索するのは憚られたので、リートはなんとなく訊けなかった。
それからは会話らしい会話もなく、リートはルイスを伴って控えの間に入った。
扉の前には二人の近衛騎士が立っている。
これからリートが出会う人間は、この扉の先にいるのだ。
扉の前でルイスが立ち止まった。
「わたしはここからは入れない」
ルイスは心配そうな表情でリートを見た。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫じゃない」
リートは正直にそう答えた。ルイスが屈み込み、リートと視線を合わせる。
「昨日も言ったが、陛下もミリィも礼儀作法のことはいちいちうるさく言わない人間だ。君はそのままでいればいい」
「……うん」
リートは心もとない気持ちでうなずいた。
「謁見が終わったあとで、ミリィが君とお茶がしたいと言っていた」
ルイスの言葉にリートは驚いた。
「ミリィ……様が?」
「ミリィは自由だからな。気に入られたら、きっと君の部屋に日参するぞ」
「それは困るかも」
「なら、あまり気に入られようとしないことだ」
そうあくまで生真面目な口調と顔で言うルイスに、リートは少しだけ笑った。
「……そうするよ」
「あとでまた会おう」
「うん」
リートが扉の前に立つと、ルイスが騎士たちにうなずいた。扉がゆっくり開く。扉の内側で待っていたメルヒオルがリートに微笑みかけた。
「よく来たね、リート。では行こうか」
リートはうなずき、メルヒオルのあとについて部屋の中央を進んだ。
部屋の床と壁は、すべて真紅で統一されており、頭上にはリートの部屋にあるものよりひときわ豪奢な室内燈が燦然と輝きを放っていた。
部屋の奥には二つの椅子が並べられ、国王夫妻が坐っている。そしてその傍らにはエミリアが立っていた。
メルヒオルから紹介を受けながら、リートは穴の開くほどエミリアを見つめてしまった。
(び、美人だ……)
暗い場所ではよくわからなかったが、彼女はとても美しい顔立ちをしていた。淹れたての紅茶のような赤みがかった髪に、明るい空色の瞳。それが勝ち気そうな雰囲気の彼女によく似合っている。
あの時のようなミモレ丈のドレスに深靴姿ではなく(もちろん剣は持っていない)、頭に半冠を着け、露出の少ない白のドレスに身を包んだ姿は、王女らしい気品と威厳に満ちていた。そんなリートの様子を見咎めたのは、彼女の母親であるペトロネラ王妃だった。
「娘の顔になにか付いていまして? さっきからじっと見ていらっしゃるから」
ペトロネラにそう言われ、リートは大いに慌てた。
「いえ! な、なんでもないです! じろじろ見てすみませんでした」
「そうですか。ならいいのですが」
ペトロネラがまだ疑わしげにこちらを見ているので、リートは内心ひやひやした。初めて会ったふりをしなければならないというのに、これでは先が思いやられる。
「陛下、彼が天啓者のリートです」
メルヒオルがリートをそう紹介すると、マティアスがリートに微笑みかけた。この国の最高権力者は、白髪交じりの褐色の髪にエミリアとそっくりの空色の瞳をしていた。
「初めまして、リート」
「……初めまして」
リートは言葉少なにそう言った。もう少しマシなことを言いたかったが、社交辞令などなにも知らない。
「少しはこの国に慣れたかな?」
いいえ、全然。リートはそう答えたかったが、それはさすがにまずいと思い直した。いくらこういうことに疎い自分でも、それくらいはわかる。だが、嘘をつくわけにもいかない。
「心配してくださってありがとうございます。でも今は毎日眠れてるし、大丈夫です」
リートがそう言うと、マティアスが眉を上げた。
「前まで眠れなかったのかね」
まさかその部分を突っ込まれるとは思わず、リートはまたしても言葉に詰まった。
「えーと……」
助け船を出したのはエミリアだった。
「お父様、リートはリヒト原理主義者に殺されかけたのよ」
「ああ、そうだったね。すまない、忘れていた」
忘れていたというマティアスの言葉を聞いて、リートはやりきれない気持ちになった。やはり国王というものは、どの世界でも人の死に鈍感なものなのだろうか。だが、自分の国にいる為政者なら、たいしてライナスのことを知りもしないくせに、自分の人気取りや政略のためだけにその死を悼んでみせたかもしれない。それを思えば、マティアスの態度はまだマシなほうだとリートは思った。
マティアスがエミリアのほうを見る。
「おまえは彼と話をしたことがあるんだろう?」
エミリアが静かにうなずいた。
「ええ、ライナスは立派な騎士だったわ。まだ入って一年くらいしか経っていなかったのに。本当に残念」
エミリアの口ぶりは本当にライナスの死を惜しんでくれているようだったので、リートはささくれ立っていた気分が少し和らぐのを感じた。
「僕も――」
残念だとリートは言おうとしたが、それは叶わなかった。
「あなたがいたのに、なぜ彼は助からなかったのです?」
唐突な言葉に、リートは固まった。
問いを投げかけたのは、それまで黙って三人の話を聞いていたペトロネラだった。手に持った扇子を広げて口元を隠し、目だけでこちらを窺っている。
ペトロネラは金髪に青い目の持ち主で、どことなく押しの強そうな雰囲気は娘のエミリアと共通しているものの、顔立ちはあまり似ていなかった。顔には入念に化粧が施されており、若作りに余念がない――いや、容姿の手入れを怠らない女性のようだとリートは思った。
「天啓者と言うからには、ユーリエのような特別な力があるのだと思っていたのに」
「お母様」
エミリアが咎めるような表情を母親に向ける。
リートは返答に窮した。
「僕は、あの」
どうしよう。自分はまだ、天啓者がどういう存在なのか説明してもらっていない。リートは助けてほしくてメルヒオルに視線を向けたが、彼は微笑みを浮かべるだけだった。
言葉を探しながら、なぜかリートは、向こうの世界で自己紹介をしたときのことを唐突に思い出した。中学生になって初めての自己紹介で、リートはなにも気にせず、本当に自分が好きなことを挙げたら、あまりに周りと趣味が違いすぎていて、恥ずかしい思いをするはめになったのだ。好きな漫画とか映像戯画とか芸能人とか、そういうだれでも理解できるようなことを言えばよかったのにとリートは後悔したが、すべてはあとの祭りだった。
そのせいでリートは、自己紹介することが憂鬱で仕方なかった。高校生になってもそれは同じだった。自分だけが取り残された教室で、笑い、さざめき合う同級生たちをぼんやり眺めながら、リートはいつも不思議で仕方なかった。
どうしてみんなあんなふうに、最初から示し合わせていたみたいに友達になれるんだろう? あれこそまるで魔法かなにかを使っているようだと、リートは大真面目にそう思っていた。
黙っているリートに、ペトロネラが不審そうに眉を上げる。
「どうしてなにもおっしゃらないの?」
エミリアが呆れた顔で腕を組む。
「お母様が不躾な質問をするからです。それに、見知らぬ場所にいきなり一人放り込まれれば、どんな人間でも緊張するに決まっています」
エミリアは母親をそう諌めると、まっすぐにリートを見つめた。
「今思っていることを話してください。ほかのだれでもない、あなた自身の言葉で」
リートはうつむけていた顔を上げ、ちらりとエミリアのほうを窺い見た。
エミリアが微かにうなずく。彼女の明るい空色の瞳を見ていると、不思議と心が楽になっていることにリートは気づいた。
リートは拳をぎゅっと握りしめた。
「僕はべつに、なにができるというわけでもないし、特別なことはなにもできないんです」
言いながらリートは自分が情けなくなった。だが、これが今の自分に言える精一杯のことだった。もう、自分を偽りたくなかった。
「ごめんなさい……」
マティアスはうつむくリートをじっと見ていたが、不意にくっくと笑った。
「特別なことはなにもできないか。なら、君はわたしと同じだな」
リートは恐る恐る顔を上げた。最悪の事態はどうやら回避できたらしい。
「なんの因果か王になる家系に生まれてしまったが、それがなければわたしは特別でもなんでもない。ただの人間だ」
マティアスの言い方は、リートに向けて言っているというより、自分に言い聞かせているようにも思えた。
「異世界から来たというから、もっと超然とした人間だと思っていたのに、君のような少年が来るとは思わなかったよ」
リートが目をまたたかせていると、国王は朗らかに続けた。
「なに、怖かったのはわたしも同じということだよ。わたしよりもっと立派な人間が来て、おまえなど王に相応しくないと玉座から蹴落とされたらどうしようとね。まあ、わたしより王に相応しい人間がいれば、わたしも早く引退できていいんだが」
「陛下! そんなことまでおっしゃらなくても」
「冗談だよ」
ペトロネラが声を上げたが、マティアスはあっさり笑い、リートに向き直った。
「君はまだなにも知らないだけだ。いろいろ試していけば、いずれなにもかもわかるようになる。自分の向き不向きも、好き嫌いも。でも、たとえなにもできないとしても、君は君だよ、リート」
話を聞きながら、今の自分はとてもそんなふうに思えないとリートは思った。できることがなにもないから、自分はこんなにも自信がないのに。
「わかったときははい、陛下と言うんだよ、リート」
「……はい、陛下」
メルヒオルにそう言われ、リートがとりあえず言われたとおりに返事をすると、マティアスが眉を上げた。
「メルヒオル、納得していない人間に返事を強要するのはよくないと思うよ。まあ、偉い人間はいつだって、だれかにうなずいてほしくて仕方ないんだけどね」
「身分に拘わらず、初対面の人間に反論することは、礼儀上避けるべきことだとわたしは考えます。さらに言えば、わたしはわかったときはという前提を付けましたよ、陛下」
メルヒオルが微笑みながら答えると、マティアスが肩を竦めた。
「まったく、論戦になったら君には勝てる気がしないな。こうやっていつも彼はわたしを丸め込むんだよ、リート」
リートは二人のやりとりを呆気にとられて見つめていた。
臣下であるはずのメルヒオルにやりこめられても、この国の最高権力者は、まるでそのことを気にしていないようだった。
「でもね、自分になにができるか探すのは大事だけれど、自分の望みを知るのも同じくらい大事だとわたしは思うよ」
「自分の望み……?」
リートは思わず口に出していた。
(君はなにを望んでいるんだ?)
ルイスにもそう訊かれたが、リートは答えられなかった。
「まあ、それを見つけるのはとても難しいんだけどね」
そう言ってマティアスが微笑んだ。
エミリアがリートのほうを見て片目をつむったあと、母親を見ながらにこやかに微笑んだ。
「ほら、わたしの言ったとおりではありませんか、お母様。リート様はとても謙虚で善い方です」
ペトロネラがじろりとエミリアのほうを見る。
「あなたは早速わたしの言ったことを忘れて、今度は異世界から来た人間と婚約するつもりなのかしら」
「そんなことはしません。わたしの婚約者はミヒャエル・フォン・シェーンドルフ。ほら、まだ忘れていませんわ」
「それなら結構」
そう言ってペトロネラは手にしていた扇子をぱちりと閉じ、またちらりとリートのほうを見た。リートは居心地の悪い思いで目を逸らした。
もしかしたら、あの扇子は彼女がだれかを叩くために持っているのかもしれない。そんな妄想が一瞬リートの頭をよぎった。
「忘れているといえば、聖殿に侵入した人間は特定できたの?」
エミリアが自分の父親とメルヒオルのほうを向いて訊ねると、ペトロネラが顔をしかめた。
「エミリア、なにも今ここでその話をしなくても」
「リート様の安全に関わることです。本人こそ知っておくべきだと思いますが。そうでしょう、メルヒオル」
「まだ調査中だよ」
メルヒオルはやんわりと言葉を濁したが、エミリアは探るような視線を向けた。
「あなたのことだから、本当はもうわかっているんじゃない? お父様にはもう報告を?」
「エミリア」
父親にたしなめられ、エミリアはあっさり引き下がった。
「わかりました。あとで執務室に伺います。微妙な問題のようですから」
メルヒオルが苦笑する。
「君はいつもはっきり言うね、エミリア」
「思わせぶりなのは好きじゃないの。それに、隠し事は災いの元よ。バレないように動けば動くほど身動きが取れなくなって、やがて破綻してしまう。なら、最初から隠さなければなにも困ることはないでしょう?」
「それはそうだが、そっと心にしまっておくことも大事だよ」
そう言ってメルヒオルは意味ありげな表情でエミリアを見た。
「例えば、なぜ夜中に城の芝生が荒れていたのかとか、なぜ近衛騎士がそれを見逃したのかとかね」
リートはぎくりとしたが、エミリアは平然としていた。
「まあ、それは大変。調査しなくていいの?」
「調査しようにも、目撃者がいないのではなにもなかったのと同じだからね」
「そう。それでは仕方ないわね」
そう言ってエミリアがちらりとこちらを見た瞬間、リートは気づいた。
彼女は、バレないかハラハラしている自分の反応を見て楽しんでいたに違いない。
それからは、ペトロネラがこの会見に乗り気ではなかったこともあって、リートはそれから特に話すこともなく謁見は終了した。
