その男の指は、長く繊細でほっそりとした形をしていた。
男の指が、馬をかたどった黒色硝子の騎士の駒にかかり、白と黒の市松模様の描かれた盤上を滑るように移動させる。
男の服装は奇妙なもので、上は襟飾りからシャツ、胴着、上着、下は長袴、靴に至るまで、なにもかもが黒尽くめだった。
そんな男の傍らには、一人の青年が控えていた。リヒトガルテンで一番ありふれた組み合わせである、金髪に青い目。取り立てて印象に残らない、地味で平凡な面立ち。しかも、青年の顔にはまるで表情というものがなく、部屋に飾ってある甲冑かなにかのように、直立不動の姿勢のままぴくりとも動かなかった。
そして、男の向かい側のソファに腰掛けている小柄で太った男――ハインリヒの忠臣、ブロスフェルト卿は、苛立たしげな表情で指を組んだり解いたりを忙しなく繰り返していた。
「……面倒なことになった」
「仕方がありません。あの男を始末した以上、発覚はまぬがれなかった」
盤面に視線を注いだまま、男がゆったりとした口調で言うと、それが気に入らなかったのか、ブロスフェルトは男をじとりと睨んだ。
「わたしのせいだと言いたいのか?」
「いいえ、まさか」
答えながら、男が微笑む。
「たいした問題ではありません。むしろ、わたしと教団に目がいったほうが好都合というもの。あなたにとってもそうでしょう?」
「それはそうだが、大丈夫なのか?」
「もちろんです。ですが、彼は面倒ですね」
ブロスフェルトが怪訝な顔をすると、男がまた口を開いた。
「ルイス・フォン・ブラウエンシュタイン」
男が口にした名前に、ブロスフェルトは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ルイスだと? ミヒャエルならともかく――確かに煩わしい男だが、どこが面倒だというのだ。剣を振り回すしか能のないただの騎士ではないか」
「そうともかぎりませんよ」
男はまた微笑むと、また駒を手に取って移動させた。
ブロスフェルトが帰ったあと、男は傍らに控えていた青年に話しかけた。
「彼はわかっていないね、アンスヘルム」
身じろぎ一つせず中空を見つめていた青年は、そこで初めて視線を動かし、男のほうを見た。
「……理屈で動かない人間が、一番怖いんだ」
そう言ったきり、男はまた沈黙し、物思いに耽るような表情になった。
そんな男の様子を、青年はまばたき一つせずにじっと見つめていた。
男は、黒の騎士の駒を手に取ってしばらく指先で弄んでいたが、不意にその手を止めて言った。
「彼らはきっとここに来るよ」
「お会いになるのですか?」
「もちろん。歓迎するのが筋というものだ」
青年の問いかけに答えながら、男は手に持っていた騎士の駒を盤面にそっと据えた。
男の内側に寄った瞳の奥が笑う。
「……彼らこそ、わたしたちが救ってやらねばならない人間だ」
秒針がちょうど午後一時を指したところで、ミヒャエルは懐中時計の蓋を閉めて制服の胸ポケットに戻した。この男と一緒にいれば時計は必要ないかもしれない。
「本当に時間通りに来るとはな」
そう声をかけると、グラニを連れて庁舎前に現れたルイスがミヒャエルを睨んだ。
「約束は一時だと思ったが?」
今日のルイスはいつもの詰め襟の騎士服ではなく、紺の上着に襟飾り姿だった。私服でもきっちり首元で結ばれた白い襟飾りが彼の性格を表しているようで、ミヒャエルは笑い出しそうになるのをなんとかこらえた。
彼はたとえだれも見ていなくても、自室でその格好のまま過ごしているに違いない。
「べつに来なくてもよかったんだぞ」
ミヒャエルはからかうような口調でそう言ったが、ミヒャエルの予想に反して、ルイスは食ってかかってこなかった。
「メルヒオルに頼まれた仕事だ。断るわけにはいかない。それに、わたしが行かないとミリィがここに来かねなかったからな」
「王女が? さすがにそれはないだろう」
エミリアが行動的な女性だということは昔から知っていたが、彼女が犯罪捜査にまで同行したいと言うとはミヒャエルには到底思えなかった。
ルイスが憮然とした表情で横を向く。
「おまえはミリィのことを知らなすぎる」
ミヒャエルは思わず眉をひそめていた。
なぜそんなことを言われなければならないのだろう。彼女のことを知らなすぎるのは、どう考えてもこの男のほうだ。
「それはわたしへの牽制か?」
「だから、なぜおまえはいつもそうやって茶化すんだ。わたしは真面目に話しているのに」
苛立たしげな口調になったルイスに、ミヒャエルは肩を竦めた。
「苦手だからだ。堅苦しいのもな」
「……真面目に戦うのもか」
不意を突かれたせいで、ミヒャエルは無意識に顔が強張るのを感じた。
ルイスがじっとミヒャエルを見る。その表情には一筋の揺らぎも感じられなかった。
「御前試合で、おまえはわたしと本気で戦わなかった」
「真面目に戦うなんて馬鹿げてるだろう。どうせ剣の腕ではおまえに敵わないのはわかりきっているのに」
「おまえは間違っている。相手が真剣ならば、おまえも真剣になるべきだ。それが相手を尊重するということじゃないのか」
どこまでもまっすぐなルイスの言葉に、ミヒャエルはため息をついた。
「いちいち真剣に相手をしていたらキリがないだろう。面倒なのは極力相手にしないことだ」
「納得できない」
「だろうな。それくらい、わたしとおまえは違うということだ」
そう言いながら、ミヒャエルはふと思いつくことがあって、ルイスのほうを見た。
「そのことをリートに言ったのか?」
ルイスが目を逸らす。
「……言うはずないだろう」
ミヒャエルは呆れた。まったく彼はどこまでもおめでたい人間だ。そんな意地の悪い気持ちが頭をもたげてくる。
「わたしの名誉に関わるからか? それともリートを幻滅させないために? どちらにせよ、お優しいことだな」
ミヒャエルは冷たく微笑みながら、ルイスをひたと見据えた。
「その優しさが、いつかおまえを殺すぞ」
しかし、ルイスはまるで動じる様子を見せなかった。
「それはリヒトにしかわからないことだ。どれだけ考えても、先のことはわからない。考えすぎてもいいことはない。ならば、わたしは今日明日をよくすることを考える」
ミヒャエルは内心で舌打ちした。
そうだ。この対応ができるからこそ、ルイスはだれになにを言われようと傷つくことがない。どんな人間も彼を傷つけようとしたところで、すべてこちらの徒労に終わる。悪意を持って発した言葉はすべて自分に跳ね返り、己の醜さを自己嫌悪する羽目になる。だから彼には友人がいないのだと、ミヒャエルは分析していた。
だが、そもそもこの男を傷つけて自分はどうしたいのだろうとミヒャエルは思った。 そんなことをしても、なんの意味もないのに。
「今日も明日も、わたしにとっては同じだ。なにも変わらない。きっと、それが死ぬまで続く」
ミヒャエルはそう言い捨てて、会話を無理やり終わらせた。
ルイスと議論したところで、意見は永遠に平行線を辿るだろう。理解を深め合うことなど不可能だ。それくらい、自分たちは生きている世界が違う。
なぜエミリアは、この男と自分が似ていると思ったのだろうとミヒャエルは訝しんだ。共通点といえば、友人がいないこと、組織に属していながら周りを出し抜いてばかりで、同僚からよく思われていないこと、それから――。
最後の共通点を、ミヒャエルは頭の片隅に無理やり押しやった。そのことは考えたくなかった。
「無駄話はこれくらいにして、とっとと面倒な仕事を片づけよう」
だいたい、こんなことになったのはメルヒオルがルイスを連れていけと言ったのが原因だ。メルヒオルの意図がミヒャエルにはまったくわからなかった。
純粋に一人で動くのが危ないと思ったのか、それとも自分を信用していないのか。
彼のやり方は、ハインリヒと違って予想がまったくつかない。ルイスをリートの騎士に変更したのもそうだ。
だが考えても仕方ない。ミヒャエルは思考を打ち切って馬に跨がった。
目的地に着いた瞬間、ミヒャエルは自分の目を疑った。
昨日見たときには廃墟だったはずの建物は、教会のような静謐な雰囲気の漂う建物に変貌していた。
「わたしは夢を見てるのか? ただの廃墟だったはずなのに」
ミヒャエルはルイスを疑わしげに見た。
「おまえがなにかしたのか?」
ルイスが心外そうに眉をひそめる。
「わたしがなにをどうするというんだ。わたしはなにも知らない。ここに来たのは初めてだ。前に来たときは、おまえが場所を間違えたんじゃないのか?」
馬鹿なことを口走ったとミヒャエルは後悔した。そんな不可思議な現象があるはずがない。それを否定して、自分は常に論理的なやり方で犯人を捕まえてきた。それで解明できない謎などなかったし、自分の推論が大きく間違っていることもなかった。
「行くのか行かないのか、どうするんだ」
「行くさ」
ミヒャエルはルイスにそう答え、敷地内に足を踏み入れた。
「リート、紹介するわね。近衛騎士のトリスタンよ。わたしの護衛の責任者で、剣の師匠でもあるの」
「本日はよろしくお願い致します」
エミリアから紹介を受けた、金髪碧眼の実直そうな騎士が、リートに礼をした。 年齢は三十代くらいだろうか。左手の薬指に金の指輪が嵌められていたので、おそらく妻帯者なのだろうとリートは思った。
時計を見ると、約束の時間がすぐそこまで迫っていた。
ベギールデの幹部とは、リートの部屋で会うことになっていた。
「本当に大丈夫なのかな」
リートが不安げにそう言うと、エミリアがにこりと笑った。
「もちろん。話をするだけだもの」
話をするだけ。リートは複雑な気持ちでエミリアの言葉を反芻した。
確かに、エミリアにとっては簡単な部類に入るかもしれないが、それが自分にとっては一番苦痛なのだ。
「怖い?」
「うん、怖いよ」
なにせ相手は犯罪者かもしれないのだ。
だが、最近は怖いという気持ちを素直に認めることにリートはためらいがなくなっていた。怖いという気持ちを認められないから、そこから逃れようとして不安に苛まれてしまうのだ。リートはそう思うようになっていた。
「向こうにしてみれば、ここは敵陣の真っ只中だし、なにかやらかしても逃げられないわ。大丈夫、なにかあってもわたしが守るから安心して」
「うん、ありがとう……」
リートは複雑な気持ちでエミリアに礼を言った。
異世界に来て、まさか王女に守ると言われるとは思わなかった。
自分の頼りなさに、リートは少し嫌気が差した。
「とりあえず、愛想良くしていればなんとかなるわ」
「いつも思ってたけど、ミリィ様もミヒャエルもいつも笑っているけど、疲れないの?」
なんとなく思ったままのことを口にしてから、リートは慌てた。
「あ、べつに嫌味じゃないよ、ただ」
エミリアが鷹揚に笑う。
「大丈夫よ、そんなすぐに怒らないから。笑いたくないなら無理に笑わなくていいわ。わたしも昔、全然笑えないときがあったし」
「そうなの?」
リートは目を丸くした。彼女はいつも機嫌がいいし、人当たりもいい。
愛想の悪いエミリアなど、リートにはまるでそう想像がつかなかった。
「ええ。それに作り笑いばかりしていると、本当に嬉しいかと思ってるかどうかわからなくなってしまうから。無理しなくても、楽しいと思うことをすれば、自然と笑っているものよ」
「じゃあ、ミリィ様はいつも楽しいんだね」
「ええ、とっても楽しいわ。その代わり、ゾフィーとルイスの顔をしかめさせてばかりだけど」
リートは笑った。
「でも、ミヒャエルはちょっと違うかもね」
そう言って神妙な面持ちになったエミリアに、リートは首を傾げた。
ミヒャエルはいつも穏やかな笑みを崩さない。彼でも泣いたり怒ったりすることがあるのだろうか。リートにはそんな彼の様子が想像ができなかった。
