扉を開けた先には、鮮やかな緑色の芝生が一面に広がっていた。実際にその上を歩かなくても匂いでわかる。人工芝ではなく、すべて天然の芝だ。
シュンたちの立っているすぐ近くには小川が流れていて、向こうには花畑や森が広がっている。ビルや工場の類はどこにも見当たらなかった。
「ここはなんなんだ?」
「もちろん公園よ。あなたたちの世界にもあるでしょう?」
「のわりに、全然人がいないけど……?」
辺りを見渡しても、自分たち以外にはだれもいない。街中にある公園は、たいてい子供連れの夫婦やカップルがいて、平日でも人で賑わっている。
「だって貸しきりだもの」
さらりと言われてシュンは固まったが、女性は気にしたふうもなく、シュンに笑いかけた。
「さあ、ピクニックしましょう」
女性が手を鳴らすと、どこからともなくローテーブルと敷物が現れた。クロスの敷かれたテーブルの上には、料理の乗った皿が所狭しと並べられていた。
シュンは現れた料理を見て驚いた。
「なんで俺の好物ばっかり」
女性が微笑む。
「あなたが美味しいと思うものを出してって願ったから。さあ、食べましょう」
腕時計を見るとまだ十一時を回ったところだったが、朝からなにも食べていなかったので、シュンは遠慮なく食べることにした。
まともな料理を食べるのは久しぶりだ。このところ仕事に追われてろくに料理ができず、冷凍食品やインスタント食品でしのいでいたが、それが嫌で仕方なかったのだ。
シュンは敷物の上に上がり、テーブルの前に坐った。
ひと口食べてみて、シュンは驚いた。
「これ……」
間違いない。
(母さんの味だ)
なにから何まで、シュンの記憶通りの味だった。
「……もう食べられないと思ってたのに」
「どうして泣いてるの?」
「え……?」
「なんでだろ」
「わからないの?」
シュンは苦笑した。人には理由を訊いておいて、いざ自分が同じ状態になったらわからないなんて。
「ずっと食べてなかったから、なんだか懐かしくて。高校を卒業して家を出てからは、ほとんど会ってないから」
専業主婦だった母は、シュンが三歳のときに父と離婚した。なぜそうなったのかは母が頑なに語ろうとしないので、シュンは知らない。知っているのは、父親が養育費を踏み倒して家を出ていってしまったせいで、母は自分を養うために朝から晩まで働くことになったということだけだった。
そのことに対して、シュンは不満に思ったことはなかった。母のことは尊敬していたし、母のためにも、他人に自慢できるような息子になろうと努力した。だが、どうしてもシュンは向こうの世界で優等生になることができなかった。なんとか高校は進学校に入ったが、授業にはまるでついていけず、教師に奨学金での大学進学を勧められるような成績は一度も取れなかった。
自分は母を失望させている。そう思っていた。だから高校を卒業してからすぐに家を出て、専門学校に通い、地元に帰らず就職した。
自分なんていないほうがいい。これ以上、母に迷惑をかけたくない。そう思ったからだった。母とは電話で事務的なやりとりをするだけで、ずっと会っていない。心配ばかりかけて、母親を失望させる息子なんていないほうがいい。今もそう思っていた。
「寂しいの?」
「心を読んだのか?」
「べつにそういうわけじゃないけど、見ていてそう思ったの」
女性がじっとシュンを見る。
「でも、あなたはほかの人よりわかりづらいわ」
「……よく言われるよ」
シュンはうつむいて言った。感情を表現するのは昔から苦手だった。なにか嬉しいことがあっても、素直に喜べない。怒ると相手に言いすぎてしまう。傷ついていても、まるで気づいてもらえない。集団行動も苦手で、いつも周囲から浮いてしまっていた。
「まだ、向こうに帰りたいと思ってる?」
「いや、そんなには……」
彼女にはつい怒ってしまったが、本当に帰りたくてああ言ったわけではなかった。それに彼女はこうしてもてなしてくれている。
「ほんと?」
途端に嬉しそうな顔になった彼女に、シュンは自分が絆されかけていることに気づいてはっとした。だめだ。そんな簡単に懐柔されてどうする。
「俺に会えないあいだ、雨を降らせてたって聞いたけど」
話題を変えるためにシュンがそう言うと、彼女が頷いた。
「ええ。わたしは力が人より強いせいで、制御するのが難しくて。天気もときどき変えてしまうの。でも、いつもは半日くらいでおさまるんだけど、今回はだめで……だから特別にあなたを連れてきてもらったの。あなたが怒るのは当然よね。さっきはあなたに会えたのが嬉しかったから、いろいろすっ飛ばしてしまったけど」
シュンは気まずくなって彼女から視線を外した。
「……それはいいよ、もう」
事情も訊かずにあんなに怒るんじゃなかったと、シュンは少し自分が恥ずかしくなった。それに自分に会えて嬉しいなんて、そんなことを言われるのは初めてで、どう反応していいのかわからなかった。
(俺のどこがそんなによかったんだろ)
自分は容姿端麗でもないし、気の利いた話ができるわけでもないのに。
訊きたいことはまだあったが、シュンはあくびを漏らした。
「眠いの?」
「うん……」
いろいろありすぎて忘れていたが、自分がずっと寝ていなかったことをシュンはまた思い出した。どうやら自分の身体は、ここで充電切れらしい。
「ごめん、もう無理……」
シュンはテーブルの上で腕を枕にすると、その上に突っ伏した。
瞼を閉じた瞬間に、シュンは眠りに落ちていた。
「ねえ、母さん。父さんはどんな人だったの?」
夕食が済んだあと、洗い物をしている母の横で、幼いシュンはそう問いかけた。
「シュン。お父さんの話はしないって約束したでしょう」
母が疲れた声で言ったが、シュンはめげずにわざと明るい声を作って言った。
「じゃあ俺が勝手に作っちゃお。俺の父さんはね、本当は魔法使いで、しかも旧家の出身なんだ。でも向こうの世界で戦争が起きて、悪いやつらから守るために俺と母さんをここに隠して――」
「そんな空想ばかりしていないで、もっと勉強したらどうなの」
母の冷たい声に、シュンはびくっとした。
母はそのあいだも、シュンのほうを見ずに、洗い物をしながら喋り続けていた。
「働かないと食べていけないんだから。お金がないと生きていけないのよ。シュン、あなたは男の子なんだから、勉強ができればいい学校に行けるし、いい就職先だってたくさん――」
「ごめんなさい……」
シュンはうつむいて小さな声で言った。自分の成績は良くない。母は自分のために必死に働いているのに、まったくその期待に応えられていない。このままでは大人になっても、母に楽をさせてあげることができない。
シュンが黙りこんでしまうと、母ははっとしたように洗い物をする手を止めて、シュンの前にしゃがみこんだ。
「ごめんね、瞬。瞬が悪いわけじゃないの。わたしがお父さんみたいなろくでもない人間と結婚したのが悪いのよ。そのせいであなたに我慢ばかりさせて……」
顔を覆って泣きだしてしまった母を見ながら、シュンは思った。
(違うよ、母さん。そんなことどうだっていいんだ。俺はただ)
母さんに、笑ってほしかっただけだったのに。
シュンははっとして瞼を開けた。
そしてすぐに、自分が異世界に連れてこられたことを思い出した。
「起きた? よく寝てたわね」
シュンは声のしたほうを見上げ、またしても固まった。女性が自分の顔を覗き込んでいる。そして自分はと言えば、彼女の太腿の上に頭を預け、敷物の上に寝転んでいた。
(ひ、膝枕……)
シュンは、今起きていることはすべて、自分の妄想か夢なのではないかと疑った。
「俺、いつから」
「寝てたのは二時間くらいよ」
「ほんとに? なんか、十二時間くらい寝た気がする……」
だが、なんの夢を見ていたのかはさっぱり思い出せなかった。悲しかったことは確かだ。身体にはっきりとその感覚が残っている。身体の内側が、胸の奥が、そのときに受けた衝撃でまだうまく機能しない。
いや、今はそんなことよりも、彼女の膝の上から退かなくては。でもちょっと惜しい気もする。なにせ胸は下から見上げられるし、手を伸ばせば触れそうな距離に、
(だからやめろって、そういうのは)
シュンは邪な考えをどうにか振り払い、そろそろと女性の膝から降りた。
身体のどこかが反応しないうちに離れなくては、彼女に不審に思われてしまう。
気まずい思いをしているシュンとは対照的に、女性はにこにこ笑っていた。
彼女はどういうつもりでこういうことをやっているのだろうと、シュンは訝った。これでなにも意識しない、若くて健康な独身の男なんて、同性愛者や無性愛者以外にいるのだろうか。いるとしたら、その人間はよほど異性にトラウマがあるか、異性なしでも幸せな人生を送っているに違いない。
(俺には無理……)
これは逆に拷問だ。
知り合ったからと言って、映画のようになにかが起きるわけもないのに。
初めから出会いがないより、もしかしたらと期待してがっかりするほうがつらい。
シュンはなんとか気まずい空気を変えようと口を開いた。
「それで、その……ごめん、突然寝て」
女性が微笑んだまま首を振る。
「気にしないで。疲れてたんでしょう?」
「うん……」
それもこれも馬鹿社長とクライアントのせいだ。自分は一応最善を尽くしたというのに、まるで報われなかった。
(有給のつもりでしばらく休んでやる)
シュンはそう心に決めた。今の状態が不本意だとしても、彼らとしばらく関わらずにいられるのは数少ない朗報だ。
「それで、ジーンにはこの世界のことはどこまで聞いたの?」
「ジーン?」
「あなたをここに連れてきた人。彼は、管理者って呼ばれてる仕事をしてるの。あなたたちの世界で言う……なんて言ったかしら、そう、国家公務員のようなものなんですって」
「へえ……」
どうりで偉そうなはずだとシュンは思った。
彼は、この世界を管理する側の人間なのだ。
「彼、わたしの婚約者なの」
「あんな横暴なやつが?」
思わず噛みつくように言ってしまってから、シュンは言いすぎたと後悔した。
「ごめん……」
女性が気にしたふうもなく微笑む。
「ジーンはとても優しい人なのよ。でもあなたが異世界人だから、ちょっとムキになっているみたいね」
「ふーん……」
(でも差別だろ、それって)
シュンは内心でそう突っこみを入れた。自由・平等・博愛などと口では言っていても、結局余所者をぞんざいに扱うなら、シュンのいる世界の人間と変わらない。
「君は、ここで生まれて育ったの?」
「いいえ。わたしもジーンも、最初はあなたたちと同じ世界にいたの。招待されてこっちに来たのは十歳のとき。向こうにいたときのことは、名前以外なにも覚えていないの」
シュンは彼女の答えに驚いた。てっきり彼女は、この世界で蝶よ花よと育てられたお姫様かなにかだと思っていたのに。
「どうして覚えてないの?」
「こっちに来るときに、向こうにいたときの記憶を消してしまうから。わたしと関わった人の記憶も、わたしがいた痕跡も、なにもかも」
女性はなんでもないような口調だったが、シュンはその内容に絶句した。
それは、一度死ぬようなものではないのだろうか。
「子供のときに決めるのか? そんな大事なことを?」
「忘れてしまっても、それはそれでなんとかなるものよ。その状態で招待された人専用の学校に入って、こっちの世界のこととか、力の使い方を勉強するの。寮生活だから生活の面倒は全部見てもらえるし、みんななにも覚えていないから、生まれで序列をつけることもない。成人してからは好きな場所に家を建てて住むんだけど、近所の人はみんな親切だし、困ったことがあったらいつでも助けてくれるから、寂しいと思ったことは一度もないわ」
「そうなんだ……」
しかし、名前以外すべてを忘れてしまった状態で、不安にならないのだろうか?
記憶を喪失した状態で生きていくということがどんな感じなのか、シュンには想像もつかなかった。
「あの……」
シュンは言いかけて、彼女の名前を訊いていなかったことを今更思い出した。
昔からシュンは、人の名前を呼ぶのが苦手だった。理由は今もよくわからない。
「あの、君の名前は?」
シュンが訊ねると、女性は一瞬ためらうように口を閉じかけたが、小さな声で言った。
「……メグよ」
「メグ?」
確か、メグというのはマーガレットという女性名の愛称だったはずだ。
「みんなわたしをそう呼んでるから」
「……それが君の名前じゃないのか?」
「わたしたちの名前は、一応向こうの世界でつけられたのを引き継いでいるけど、あとから自分で名前をつけたり、だれかにつけてもらったりする人もいるの」
「君はどっちなんだ?」
シュンが訊ねると、メグはかすかに微笑み、自分の唇の真ん中に人差し指を立てた。
「……秘密」
なぜ秘密にする必要があるのかわからず、シュンは首を傾げた。
自分はからかわれているのだろうか。
「あなたの名前は?」
「瞬。字は……」
メグがすかさず紙とペンを差しだしたので、シュンはテーブルの上に紙を置き、そこに〈瞬〉と書いた。
メグが紙を覗き込み、首を傾げる。
「どういう意味があるの?」
「すごく短い時間のことだよ。まばたきするくらいの時間」
「瞬ね」
メグは微笑み、シュンに向かって手を差しだした。
「よろしく、瞬」
「こちらこそ、よろしく」
シュンは恐る恐る手を出し、軽く握った。
こんなことを女性とするのは初めてだった。
